007 ユトとオーディン
[:っまた誰か喋ってる]
[:なんか爺さんみたいなのがいるぞ]
『ほっほ。儂も混ぜて』
長い髭をたくわえた老人で、ギョロリとした両眼が印象的なNPC。
つばの深い藍染めの帽子を被り、同じ色のローブのような服を着ている。
パソコン画面越しとはいえ、不気味な印象が
『儂はオーディンじゃ。やるのう。やるのう。滾って来るわい』
[:オーディンって……また神話級ボス!?]
[:ううん、また倒そうか? オーディンって、北欧神話的に考えたらアレが手に入るかもよ、グングニルだっけ]
ひとまずユトは全員を蘇生させつつ、念のため討伐するかどうかを相談する。
[:うーん、今日は疲れたよ。それに、ユトくらいしか太刀打ちできないだろうからね]
[:うん、私も今日はもういいかな。とりあえず、皆さんフレになりませんか〜]
レイドパーティの参加者達は、もう闘う気力など残っていない。
全員、そろそろ解散したいと思っている頃だ。
『……あの、儂、ゲームキャラじゃないんだけども』
ほんの少し寂しそうな表情を浮かべ、人差し指を唇に付けながら老人が呟く。
[:は……]
[:いやいや、パソコン画面の中にいるし、チャットに反応してるしっ]
[:100歩譲ってだな、会話できている事に関しては
『ふぅーむ。そうかの――』
――!
一瞬、目の前が真っ白になった。
鼻を横切る、土と葉の匂い。
遠くまで響く虫や鳥の鳴き声、そしてたまに駆ける小動物の足音や鳴き声が心地よい。
足元は浅く水が張っており、一帯が泉になっているように見える。穏やかに流れる水の音も微かに響いており、木漏れ日が目に入ると眩しい。
なんと美しい場所か――。
瞬きをするよりも短い、閃光のような刺激を感じたと思ったら景色が変わっていた。
自分はパソコン画面を眺めていたはずだ。何故、森にいるのだろう――。
「ってあれ――」
「こっこれ、〈シンビーナ〉の装備? ええっ?」
「俺も、〈ユウゾウ〉になってる……!」
藍染の服を纏っている老人と、重厚な装備を身につけている63名の人物。
大半の者が騒ぎ、混乱している――。
自分の身体を舐め回すように見る者や、頬を抓ったり、軽く跳んだりして五感を確かめる者も居た。
「オッホン、儂、オーディン」
全員、老人に注目する。
「ねぇ〜! どういう事? 私たち、ゲームの中に入っちゃったの?」
かわいい泣き顔で老人に詰め寄るシンビーナ。
さらりとした髪質のミドルカット、透き通るような金髪が美しいエルフ。
両手で老人のローブにしがみ付きながら華奢な肩を竦める。
不安げな表情であちこちをキョロキョロと見回し、そのたびに尖った耳がぴくりぴくりと動く。
まるで小動物のようだ。
「そうじゃよ。いや、違うよ。ううん、両方じゃな」
「はっ……意味がわからないぞ爺さん」
筋張った鳥のような脚で泉の中をバシャバシャと歩いて来るバードマン。
トリケルだ。
顔は人間のようだが、耳が無い。
背中から大きな鳥の翼ようなモノが生えており、振り返ったり歩いたりするたびにバサリバサリと動く。
全員、自分のゲームキャラクターに成り代わっている――。
場の混乱は止まらず、しまいには泣き出す者も出始めた。
「うーん、騒がしいの。やっぱり全員は不要じゃな」
そう云うと老人は両掌を付き合わせ、ポンっと小さな破裂音を繰り出す。
――あれ?
いつもの見慣れた部屋。
見慣れたパソコン画面。
自分達は〈ミョルニル〉を装備したアルフレッドの周囲に集まっている。
――夢? じゃないな。
チャットログでは、
ずっとそこに自分達も参加していた。
記憶もしっかりと残っている。
[:ええと、オーディンも居たような?]
[:うん、いたよねオーディン]
先ほど、オーディンと名乗る老人が居た。
全員の共通認識でもあるようで、やはり夢や幻覚では無さそうだ。
ならばアレは一体何だったというのだろうか。
[:ていうか、ゲームキャラになったような気もする……]
[:ウチもなってた! でもチャットもしてたし、どういう事――]
自分達は今、いつも通りパソコンでゲームをプレイしているだけだ。
しかし、居心地のよい泉で老人を取り囲んでいた記憶もハッキリと残っている。
まるで自分が2人居て、同時に別々の経験をしていたような、複雑な感覚だ。
[:ううん、お前ら何を言っているんだ?]
63名、全員がチャットに参加している。
何故かユトだけが状況を把握していない――。
[:オーディンだよ。青い服着てたじゃん。ユトも言ってたじゃん。グングニルが手に入るかもよって]
[:ああん、寝言かよ。トールを倒してから、俺はアルフレッドに装備を渡しただけだぜ]
話が噛み合わない。
ユトだけ、オーディンの記憶が抜け落ちているようだ。
[:ははっ、彼は本当に神だったのかもしれんな]
[:ううん、神なんて信じてないけどなぁ……]
オーディンの話を続けようとするアルフレッドに、ユトは否定的な様子である。
[:まあいいや。お前ら全員が言っているならそうなのだろう。でも俺が何も知らないのも事実だ。それでいいじゃないか]
全員、今はマウスとキーボードでゲームをプレイしている。
それが何よりも確かな事実だ。
ユトは空想や過去の事にいつまでも時間を取られるのを嫌う。
やるべき事は次から次へとやって来るし、やりたい事も次から次へと湧いてくる。
[:もう寝る時間だ。おやすみよ]
――明日も早い。
ユトはそう言い放ち、躊躇せずログアウトした。
[:……とりあえず、お疲れ様でした。みなさん、よろしければフレ登録をしたいので、また職順に並んでもらえますか]
[:おっいいね。よろしく、ピティアさんっ]
ユトの云う事は至極真っ当である。
ピティアも気持ちを切り替え、今後に向けて動き出す――。
「――それでじゃな。儂は貴方に興味があるのじゃよ。キウ・ユト・モツマ」
ギョロリと気味の悪い視線を送り続ける老人、オーディン。
長い髭に隠れた口が鼻息と共にもごもご動いている。
ついでにほとんど瞬きをしない。
本当に気色が悪い。
「あいつら、どこに行ったんだ?」
褐色の肌、尖った耳。
黒を基調とし、所々に白や金の刺繍を施したVネックの軽装備を身につけているダークエルフの青年。
キョロキョロと辺りを見回す。
左耳に付けた黄金のイヤリングがチャラチャラと音を立てる。
少し鬱陶しい。
「……ううん」
身体をひねるたび、黒と金が入り混じった薄手のガントレットが腰に触れる。
これも少し鬱陶しい。
「還したさ。この〈ミミルの泉〉に浸かっている間は、儂の能力で自在に往き来させられる」
「そうか、じゃあ俺はまだここに居るぜ。はやく帰してくれよ」
不満そうに眉をひそめるダークエルフの青年、ユト。
「ふむ。あちらの貴方は、皆とチャットで盛り上がっておるじゃろうて」
「何言ってんだ、
――理解に苦しむ。会話が噛み合わない。
ユトは再び顔を顰めた。その度に藍と金の色が混ざったサークレットが眉に触れ、違和感を覚える。
「フフン、こちらの貴方は、儂のために強さの探究をさせてもらうぞ」
なおも大きな両眼でユトを見つめ、キシャリと歯茎を見せるように嗤うオーディン。
「……ちっ」
――不気味なのはもういい。
ユトは、状況の整理に意識を集中させたいところだ。
「明日早いんだよ。ここから出してくれよ」
そう言いながら、ユトは泉から足を上げて岸辺へ這い上がった。
黄金と黒が入り混じったブーツが地面を踏み締める度、ギュッギュと音が鳴る。
「あ、あーあー! やっちゃった」
オーディンの低い声が若干甲高くなり、ユトが泉から出た様子に少しだけ困った表情を浮かべた。
――そして、また不気味にキシャリと嗤う。
「なんだよ」
ユトは不愉快そうに振り返り、半目でオーディンを睨みつける。
「……」
今度は声を出さず、不気味な笑みでじっとユトを見つめるオーディン。
そして――。
「一度、泉から出たら儂の能力でも還せない……」
「っはぁ!」
思わず大声が出た。視線や表情がおぼつかず、どんなリアクションを取っていいかすらも分からない程に困惑するユト。
――ふざけやがって。
沸々と怒りすら込み上げてくる。”キウ・ユト・モツマ”の身体ならば、目の前の老人を消しとばす事も出来るだろう。
思わず拳に力が入る――。
「……すぅっ」
とはいえ、感情に任せて取り返しのつかない行動を取ってしまう訳にも行かない。
ひと呼吸あけ、無理やり深呼吸をするようにして平静を取り戻す。
「……おい、
「ああ、云ったとも」
唯一、事情を知っているオーディンがもう戻れないのだと言う。
だとすれば、これ以上問答を繰り返しても無駄なのではないだろうか。
「それは、本当の俺なのか?」
「ああ、完全無欠の貴方だとも。ユト」
「そうか」
戻る術が無い。
しかし、元の世界ではちゃんと自分が役割を果たしている。
「異世界へようこそ、ユト」
「異世界ねぇ……」
ならばいっその事、こちらの自分は”異世界”とやらを楽しんだほうが良いのではないかとも思う。
出来ない事をいつまでも望んでいるのは不毛なだけだ。
目の前の出来事を受け入れ、出来る事をやる。
何事も前向きな行動を取る事が大切だ。
「それが良いよ」
「うわってめぇ、俺の心を読んだな」
「読めないよ、人の心なんて。この場面で考える事は1つしかなかろうて」
「……面倒くせえ爺さんだな」
言葉では面倒だと言ってみたが、中々に洞察力があり、会話の引き出しも豊富で物分かりのよい爺さんのようでもある。
――ひょっとしたら、案外楽しめるか。
「じゃ、お願い。儂の実験台になって」
「断る」
それとこれとは別だ。
そもそも〈実験台〉とは何だろう。
解剖でもされるのだろうか。
得体の知れない要望をおいそれと受け入れる訳には行かない。
「お願い」
「断る」
「どうしても?」
「どうしても」
「いけず」
「うるせぇ、俺は俺の意思で動く。大体お前は神だろう。なんだ、その"いかにも老いぼれです"みたいな口調は。トールはもっとちゃんと神様をやってたぞ」
ユトはオーディンの額を人差し指で小突きながら捲し立てる。大きく口を開けているため、唾がオーディンの顔面にかかりそうだ。
「奴はバカだからのう。機転の効いた言い回しが出来ないのじゃよ。ま、悪い奴ではなかったがな」
のほほーんとユトを小馬鹿にするように、オーディンは鼻をほじりながら返答する。
――所々癪に障る
「ていうか、なんでトールもアンタも
率直な疑問だ。
ゲームなぞデジタル信号の羅列に過ぎない。
そんな所に神様が現れるなんて、全くもって謎な現象だ。
「ま〜そうじゃの、儂が求める"強さ"とは何か。そこから説明するかの――」
「うるさい端折れ」
こういう、知識豊富系の
ユトは事前に牽制を入れておく。
「……これはどんな世界においても云えるが、"抜きん出ている者"が条件よ。圧倒的強者というのはどの世界にも居る。だが見つけるのは容易い事では無い」
オーディンは欲深い老人だ。
これまで自分が欲しいと思った物は全て手に入れ、魔術や魔法など、ありったけの知識も習得してきた。
しかしながら、既知しかない世界になってしまっては面白く無い。
いつからかオーディンは常に自分の知らない物を探し、それを知ろうとするようになった。
とりわけ〈強さ〉に関する知識に対しては底知れずに貪欲だ。
あらゆる強さを知り、自分の能力に組み入れて行こうとしている。
「――それで、普通の世界では飽き足らず、ゲームの中の〈最強〉にまで手を出したと」
「仰る通りじゃ。貴方の強さは正直いって常軌を逸しておる。それがゲームだと割り切ったとしてもな」
強ければどんな世界でも不問。
とにかく強い者を探していたという。
「
「トール……」
――こんな不毛な要望をしれっと受け入れるのか。
トールは強面なお人好しの神だったようだ。
「ていうか、アイツはお前の息子だろう。俺が殺した。恨まないのか?」
斃したのはゲーム内だが、どうやらそれは本物の神だった。
自分はトールを殺した事になるのではないか? ユトは罪悪感に駆られる。
「貴方はゲームのボスを斃しただけではないか。何も悪く無いであろう」
元々、神など信じていないユト。――とはいえ、実際に見てしまったので認めざるを得ない。
ゲームの中だったはずが現実になってしまっているのだ。
「まー、トールの強さなら大丈夫と思っていたが、まさか負けるとはのー」
オーディンの言うように、所詮はゲームだった。ユトも頭では解っているが、なんとも歯切れの悪い感じは拭いきれない。
「結果的に貴方の強さはもはや、ゲームの〈アースガルズ〉という世界の全智を超えるレベルであった。これは大発見じゃ!」
両手を広げ、能天気に語り続けるオーディン。
トールの死など気に留める様子も無い。
「……それに、神は死んだとしても死ぬ訳ではないぞ」
「どういう事だよ」
「神に完全な死は無い。トールは見た目的には死んだとも捉えられるが、ノルドの民の信仰がある限り、何度でも再生されて元いた世界に戻ってくるさ」
「……そのうちか」
「それが数日なのか、数百万年かかるかは分からんがの。故に”神殺し”等という所業は存在しない。神とは、つまり殺せても殺せない存在なのじゃよ」
「そうか」
自分の知らない事柄に直面した場合、それが有益な情報となるのなら努力をして理解する。
しかし、自分にとって必要の無い情報ならば聞き流す。
それが一番無駄な労力を省く秘訣だ。
「で、俺はこれからどうすればいいんだよ」
自分は異世界で過ごさなければならない。不本意ではあるものの、今頼りになるのは目の前の
「じゃ、実験を――」
「やらん」
「……」
オーディンは少し黙り、「フムゥー?」と声を出しながら考え込むそぶりを見せる。
そして左手で自分の髭を撫で、ギョロリとした両眼を泳がせた。
何かを考えているような表情――いや、企んでいるような表情を浮かべる。
「じゃぁ、コレでどうじゃな」
そう言うと、オーディンは自分の右手をズブリと右眼に突き刺し、躊躇なく眼球ごとグイっと引き抜いた。
「……はぁ?」
あまりにも突発的な奇行である。
――何をやっているんだこの
「んぶぅ……はぁ。こ、コレでどうじゃな。わ、儂にはこれだけの覚悟がある。貴方の力を研究……し、儂は魔術を極めるのじゃぁ……ハァ」
オーディンの右の掌に乗っているオーディンの右眼。
ポタポタと滴る血が生々しい。直視したくないが、オーディンの顔も大変な事になっている。
ユトは目のやり場が無くて困惑する。
「それ、治るのか?」
「治らんよ」
「何が目的だ?」
「云ったじゃないか」
〈キウ・ユト・モツマ〉は、MMORPG〈アースガルズ〉において比類ない強さを持っていた。
それはゲームの中だけでの話であったが、現在は違う。
ゲームの運営者が神だとするならば、その運営者が想定しないレベルの強さ――神をも超える存在。
ともいえるのかもしれない。
オーディンはきっと、その強さを検証し、自分の糧とするつもりなのだろう。
そういえば、トールも『神知を超えている』と言っていた。
確かに、ユト自身も己の能力に興味が無い訳では無い。
自分の気の向くが
「……良いぜ」
「まことかっ」
「ああ。ただ、自由に行動させてもらう。観察したいなら勝手に付いてこい」
「ううん……儂、神よ。金魚の糞と違うわい。……まあ、この世界は面白いからの。仰せの通り、しばらく観察させて貰うかの――」
ユトとオーディン。
史上最強のオンラインゲームプレイヤーと貪欲な神。
今のところ2人に目的地は無い。
家も無い。
これから2人の奇妙な生活が幕を開ける。
――かな?
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