第3章 変容

第18話 新たな季節

 太陽が昇り始めようとしていた初夏の夜明け前、小規模なビルの屋上に人の姿が一つ立っていた。適度に通り抜ける風が、朝特有の涼風を町全体に行き渡らせる。


 屋上に立っていたのは長身痩躯の壮年の男。しかし、間もなくして人の姿は二つとなり、背後からコツコツと足音が聴こえた。


「修司様。ここにいたのですね」


 修司と呼ばれた男は、夏が近づこうとしているにも関わらずダークスーツを身に纏っており、所作はまるで和装に身を包んだ昔の大地主のようにゆったりとしていた。


 修司が振り返ると、若い女性が発光したスマートペーパーを持ちながら彼の前に立っていた。彼女も同様にスーツを身に纏っているためか、雰囲気に一体感を醸し出している。修司の四角いフレームの眼鏡が不意に空の光を反射させ、レンズ越しの瞳が隠れた。


おぼろか。状況はどうなっている?」

 

 名前を言われた女性の風貌は、長い長髪を後ろでまとめたシニヨンにしており、美しさと勤勉さを物語っているように見える。しかし、表情は常にしおれた花のように寂しげで、儚さを示しているようだった。


「あの子は頻繁に特定の守護士たちとの友和を試みています。わたしたちと人間との懸け橋になるかもしれません」


「そうだといいのだが。僕からしたら人間にいい噂は聞かない。我々を欺いてきた罪はそう簡単には消えないからね」


「ごもっともです。血を受け継ぐたびに、人類はわたしたちを除け者として根絶やしにしようと企てていました。憤りはなくなりません」


 朧は希望的観測を棄てかけたように溜息を吐いた。


「今度こそ、うまくいくといいんだが……」


 修司は眼鏡を外し、耽るように腕を組んだ。ありとあらゆる懸念を張り巡らせ、大きな期待と若干の不安を抱えながら佇んでいる。


 朧は「はい」と頷き、気丈に振舞った。


「人間の血を引くようになったわたしたちであれば、きっと成功します。そのためにも、あの子を信じます」


 二人の間にわずかな沈黙が流れたが、すぐに修司がそれを断ち切った。


「一度降りよう。太陽の光が届かない場所へ行くとするか」


「承知しました」


 朧は表情こそ変えなかったが、スマートペーパーをぎゅっと抱き寄せ、不確定要素が大きいとみられる現状をただ見守るしかなかった。


 太陽が差し迫る直前、二人はビルの屋上を後にした。


 屋上に設置された鉄柵の影が、陽光に反応してどこまでも伸び続けていた。


   ▽


 強い日差しが照り付ける太陽の下、草木が生い茂るようになった今日の風雷に一人の旅人が新天地を踏みしめていた。


「今日からお世話になります!」


「ええ、よろしく。麻依ちゃん」


「研究者として歓迎するよ。ぜひとも加奈ちゃんと共に頑張ってほしい」


 加奈は佑香と浩輔が麻依に対してそれぞれ好印象を持っているように見えた。それもそのはず、電妖体の研究における非常時の対処は、研究者と彼らに雇われている守護士が行わなければならないという契約が守護士協会の下でなされている。ただでさえ貴重なサイバーアーツの使用者を複数雇える研究機関は、日本では数えるほどしかない。


 今回は佑香たちが守護士協会に麻依の事情を伝え、風雷の責任の下で保護するという口実の上、麻依を守護士として雇うことにした。


 保護時の麻依の年齢は一八で、守護士の規定となる年齢に到達していたことを初めて知ることができた。


 改めて協会が素性を調べたところ、麻依には父親がいるらしく、現実世界で起業家として暮らしているという。それらしい企業は検索すれば出たものの、守護士の間では数多あるありふれたユニットや幻覚機の販売業者の一つでしかなかった。


 加奈は共用のリビングの中で元気よくお辞儀をする麻依を見て、初めて彼女と言葉を交わした時のことを思い出した。どんなに過酷な状況に置かれようとも必死に前を向き、時にはサイバーアーツの副作用に飲み込まれながら現想界という死線を潜り抜けてきた、その精神を学ばなければならない。


「麻依を部屋に案内してきます」


「頼むわね。わたしたちも仕事に戻らないと」


「ああ。もうすぐ遠隔会議の時間だ。また後でね」


「はい。ではのちほど」


 福原夫妻はリビングを離れ、それぞれの部屋へと戻っていった。見送った加奈はスタスタと、麻依はパタパタという音と共に廊下を通りぬけ、二回へ続く階段を上った。


 鍵のついていない一室のドアをガチャッと開け、麻依を案内する。

 

 部屋は梱包用の箱で埋まっており、奥には長い間使用されていなかったベッドが置かれているだけのシンプルな内装だった。間取り自体は概ね加奈の部屋と同様のものだ。


「ここが君の部屋になる。家具と荷物は揃っているから、模様替えは君に任せる」


「はい、ありがとうございます!」


 麻依は部屋に入って中を見渡すと、「うわぁ……!」と嬉しそうに天井を見上げたかと思えば、次には床を見下ろしたりと興味津々に見るものすべてを珍しがっていた。


「何か気になるのか?」加奈は尋ねた。


「こんなに安全に過ごせる所でほとんど過ごしたことがなくて新鮮なんです。ずっと雨風がしのげる廃墟にいたので尚更ですね……」


 確かに麻依は時間を要してずっと旅をしていたようだ。それほど長い年月をかけて現想界の各地を回っていたのだろう。並の守護士では耐えがたい苦難を乗り越えてきたはずだ、そう加奈は思った。


「旅の疲れもあるだろう。今日は心行くまで休んだらいい」


「そうですね。お言葉に甘えてそうします」


「私は隣の部屋にいるから、何かあれば気軽にノックしてくれ」


「わっかりましたー」


 麻依は疲労のそぶりを見せないようにニッコリと笑って応答した。彼女の笑顔は太陽のように屈託がなく、見ていた加奈もつられて口の端を少し吊り上げた。自分は月のように不変で冷たい光を放っていると思い込んでしまうほど冷徹な人間だと考えていた。そんな自分でも福原夫妻や巧一朗、麻依といったかかわりを持つようになった人たちに触れるたびに、絶対零度に凍った心がゆっくりと溶かされていくことを理解できた。


 加奈は自室へと戻り、ふわふわと弾力のあるベッドへダイブした。前日に千体を超える電妖体を駆除したため、休日の今日に限って疲労感が残っている。このタイミングでこのダイビングを行うことは昼寝に入る準備段階のようなものだ。


 空調が聞いた室内の環境も相まって眠気が加速し、加奈はこれまでの仕事の呪縛から解放されるように一時的な眠りに就いた。


   ▽


 新しい自室で荷ほどきをしていた麻依の通信端末に、一本の着信が入った。麻依は躊躇わずにコンソールを操作して応答する。


「もしもし……お父さん?」


 優しく穏やかな声がスピーカーから聴こえてきた。


「うん。あたしもやっと仕事に就いたよ。明日から本格的に動くからね……え? 大丈夫だよ。今いる人たちは優しいし、前から良くしてもらえたから心配しなくていいよ」


 麻依の父は安心したように笑っていた。そして娘である麻依に何かを伝える。


「うんうん。ありがとう。また会えるといいね」


 スピーカーから麻依の父の声が聴こえてきた途端、麻依は少しだけ驚いた。


「お父さんは忙しいでしょ? タイミングってものがあるし流れに身を任せようと思う」


 麻依の父がまた何かを彼女の耳に伝えた。


「うん。そうだね。それじゃあまたね」


 通話が終わり、長い沈黙が麻依の荷ほどきの音だけを響かせていた。

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