第3話 現想界

 心許ない空調の効いた鉄道の車内で、加奈は考え事をするように佇んでいた。


 ゆったりとしたスピードを出し続ける車両は、彼方に点在するビル群を少しずつ遠ざけている。


 加奈はつり革を掴むような位置には立たず、自動ドアの近くある金属製のパイプの塊に寄りかかっては通信端末を弄っていた。


 バックライトで光る画面の中には、現想界げんそうかいの天気予報が次々と更新されていた。


(——今日は雪、か。また晴れるといいな)


 現実では雪などとうに過ぎ去った季節に差し掛かるというのに、今日は寒さがぶり返した。そのせいで外出する人々は白い息を吐き続けている。


『間もなく四番線、東神とうじん行きの列車が到着します』

 ほんの少しだけ、機械的なアナウンスが車内に響いた。


 現想界の近くまで地下鉄を乗り継ぎ、最寄り駅のホームを降りて地上へと駆け上がる。


 出口を出て数十メートル先には半透明の光が築く壁と、その中心にひび割れたように歪に作られたゲートが出現していた。どこかのおとぎ話に出てくるような異質な境界線が張られていた。


 ――この先は現想界です。守護士以外は大変危険ですので、入る際は自己責任でお願いします。


 光の近くに建てられた金属製の看板にそう書かれていた。看板は何者かによって中心部分がひしゃげており、現想界に反抗する者たちが腹いせに怒りをぶつけたのかもしれない。そう加奈は一瞬だけ看板を哀れに思った。


 現実世界から異世界へ通じるこの一風景は滝や湖のようなものだ。


 この世界では、昔から水にまつわる場所は決まって神々やそれに準ずる人間たちが行き来すると言われてきた。


 しかし、加奈は決して神やその近しい存在と言うわけではない。寧ろ神の御業に反する身体に自ら作り替えてきたのだ。


 加奈は学生だった頃に学費を払うため、治験と言う名の人体実験を繰り返し受けてきた。誰かに命令されたのではない。経済的に苦しかった彼女の意思で、進んで受けたのだ。学費を払い終えた分代償も深刻となり、時折みられる加奈の姿が恐怖の的となって畏怖され、遂には理由を知らない人々から偏見と差別の目で見られるようなった。


 実験を繰り返すうちに電妖体に対抗する手段を身体の変化と引き換えに獲得し、今ではその力を用いて佑香たちの研究の補助や周辺の警護に当たっている。


 そんな自分が神の領域に手を出そうものなら断罪されてしまうだろう。神という偶像が目の前にいるのであれば。

 

 実体のある現実世界に主はいない。いるとすれば、現想界にいるだろう。


 罪人は自ら裁きの対象として神の住まう世界に向かう。すべてはその分身を完膚なきまで一掃するために。


 加奈は両目を閉じ、少し間を空けて見開くと、壁のようにそびえたつ垂直な水面に向かってつかつかと歩き出し、あっという間に光をすり抜けた。


 いつもと変わらない、ほんの少しだけ異なる一日はここから始まった。


   ◇



 すべてが荒廃した世紀末ともいえる、瓦礫と廃墟だらけの灰色の世界に白いバグが降り積もっていた。


 青天が広がっていたはずの上空は分厚い雲に覆われ、冷たい粉雪が空間に入り込んだ加奈を歓迎していた。

 

 吐く息が白いのは現実世界と同じだ。しかし、ここでは高い湿度を表すように空気が潤っている。

 

 現想界の季節の変化は現実と同様とはいえ、入国を制限された時代の、遠い異国の風景に似ている気がした。地域で言うなら欧州のどこかだ。大雪に見舞われたスペインが妥当かもしれない。


 思えば居住空間だったと考えられる廃墟たちはみな洋風のつくりをしている場合が多い。日本家屋のような形をした建物も存在するが、様々な国々の建築物が入り混じっており、どれがどこの国に対応しているのか、見れば見るほど混乱していく。


 余計なことを考えず、目的を見失わないようにポケットにしまっていた刀身の無い柄を取り出す。この柄は、現想界でのみ刀身を表す特殊な武器だ。


 加奈の人差し指が鍔の近くのわずかなくぼみに軽く触れると。光る粒子が刀身の形に集約し、美術館に展示されているようななまめかしい光を放つ刀へと変貌していた。


「そこだっ!!」


 同時に背後からの気配を感じ取り、振り返りながら刃を振り下ろす。


 まっすぐに勢いよく下ろされた刃は、刀身を同等の大きさを持つ物体を真っ二つに斬り伏せていた。


 大きな猛禽類が鉤爪で加奈を襲おうとしていたらしい。風に運ばれて粒子が消滅する直前の姿には翼を切断された大鷲の姿を肉眼で捉えた。


 突然の事態にも慣れっこだ。


 電妖体は音もなく現れる。彼らは姿かたちを再現しても鳴き声を発するような真似はせず、寡黙に、ただ沈黙を守って襲い掛かる。かつて流行した疫病のように。


 僅かな違和感を取り逃さないように感覚を研ぎ澄まし、次々と襲い掛かる謎に満ちた外来生物を駆除していく。


 友和などありえない。


 一つ言えるのは、電妖体は人工知能が創り出した人類の敵という情報だけだった。先に手を打たなければ殺されるのはこちらだ。ここで手を打たなければ守護士たちはおろか、人類が滅んでしまう。


 拡大を続ける現想界から現実を全力で守り抜く。加奈の仕事はそれほどまで重大な役割を果たしていた。


   ◇


 制圧する途中では同胞たちと合流し、手分けして電妖体の集中する地域の掃討に回っていく。


 特に今日は新人の守護士とのやり取りが多く、一時的な拠点の中で彼女たちの経験不足を補うように指導を行った。


 守護士は理論上、誰にでもなれる資格がある。才能、環境、努力、これらを補うようにできる能力があれば、電妖体を退けられる力を得るようになる。ただし、覚悟を決めなければならない条件がある。それは、電妖体の研究機関で行われる人体実験に全面的に同意すること。即ち、

敵と同じ力を得て戦わなければならない。


 電妖体への対抗措置として人体の中に抗体の生成を行う。そのうえで誕生する副産物の現象である「サイバーアーツ」を用いた武器や戦闘術を会得したうえで現想界に飛び込んでいく。そして現象を獲得した身体は元に戻らず、自らの身体が武器であり代償となるのだ。


「石本さん、相変わらず手際が良いっすね」


 旧市街の殲滅を終えた同胞の安永巧一朗やすながこういちろうが加奈を称賛していた。ぼさぼさ頭の青年は両手に双剣を持っていたが、時間の経過とともに刃が粒子に変化して空気に変わり、やがてふたつの柄が残されるばかりだった。


「——そうか?」


「そりゃあそうっすよ。あんだけ鬼みたいな強さを見せられたら、戦わずにはいられないっす」


「電妖体を前にしたら自然と戦いを欲するようなものじゃないのか?」


「いや、それをうまくコントロールしているのはマジで石本さんだけっすよ。俺は暴走しそうになります」


「そうか……」


 加奈はその後、沈黙が続いた。やはり、戦いの中で高揚感に包まれるあの感覚を得ていた私は異常なのか、そう心の中で少し落胆した様子を隠しながら遠くの灰色で染まる景色を眺めた。


「気に留めないでください。俺、石本さんの実力は本物だと思ってます」


「——わかっている」


 そう加奈が言った先にいた青年は通知の届いた通信端末で誰かとやり取りを行うと、端末をしまって加奈の顔を向いた。


「うちの機関に呼ばれたのでこの辺でお役御免っす。石本さんも戦うのはほどほどにしてください」


「ありがとう。君には感謝している」


「お礼を言うのは俺の方っすよ。じゃあ、またどこかで」


「あ、ああ……」


 伝令を伝える忍者のように早々とその場を去っていった。巧一朗の逃げ足は間違いなく速いと加奈は踏んでいた。


「さて、私も片づけと行こうか……」


 本日最後の大仕事に向け、加奈は人間とは思えないほどの脚力を生かし、廃墟から廃墟の間を跳び移っては平たく硬い地面に着地し、一気に灰色の世界を走り去った。

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