第2話 忠告
起床から十五分後、二階建ての研究施設「風雷」にて――。
加奈は寝間着を脱いでパーカーを身に着け、レギンスとキュロットスカートを穿いて自室を出た。忘れないようにと、通信端末と刀身の無い刀の柄をスカートの中へしまった。仕事道具を置いていくわけにはいかない。
寝室は二階に存在し、食事や団欒などを行うスペースは一階に集約されていた。
彼女が使っている部屋は元々物置部屋であり、後から改装して使われるようになったものだ。良くも悪くも後天的な施設の設計に思える。
一階に到着して一番近くのドアを開けると、システムキッチンと六人掛けの大きく質素なテーブルが併設されたリビングに入った。
室内にいたのは二人。椅子に座りスマートペーパーを操作してニュースを見る佑香に加え、朝食を用意する男性の姿があった。
年齢はおおよそ四十代、ワイシャツにスラックスを組み合わせた彼の姿は、加奈にとってはなじみのある人物そのものだった。
「おはよう、加奈ちゃん」
「おはようございます」
加奈が挨拶を交わした人物は
浩輔は佑香と共通した苗字を持っている、文字通りの夫婦だ。
居住スペースを含んだ研究施設を切り盛りしているのは福原夫妻で、加奈は施設で働く職員という形で関わっている。
テーブルの上にはスクランブルエッグにベーコン、バターの乗ったトーストが様々な香りを漂わせながら加奈を誘惑しており、今にも腹の虫が鳴りそうだった。
「さぁ、冷めないうちに食べてくれ」
料理の盛られた皿が置かれると、佑香は一度スマートペーパーを別のデスクに置いて席に着く。遅れて浩輔、加奈と続いた。
「いただきます」
加奈は静かに合掌してからフォークを手に取った。
ゆっくりと食べ物を口に運び、味わいをした全体で感じ取る。
塩味の効いたベーコン、甘みのあるスクランブルエッグ、ふわふわとした食感のトースト、濃厚な牛乳。いずれも少なめに用意されていたが、そのどれもが加奈の味覚とお腹を満たしてくれる要素となっていた。
しばらく無言の食卓が続くと、浩輔が端を切ったように口を開いた。
「昨日は激務だったね。色々と助かったよ」
「『希少な電妖体を生け捕りにする』なんて無茶なお願いをしてしまってごめんなさいね」
佑香は食事に使っていたフォークを一度おいて加奈に向き直って謝った。
「いえ、お役に立てたのならいいんです。私にはこれしかできませんから」
加奈は少しだけ俯いたように顔を下げた。表情には表れないが、照れ隠しをしている。
この世界は現実世界の他に「現想界」という、拡張現実に似た空間が存在する。現実世界と現想界の境界は曖昧で、実体のある建物の窓ガラスから人や動物の姿を成した存在が飛び出したり、空から粒子が降り注ぐポータルの出現によって異形の姿を形成したり、と言った現象が起きている。
佑香の言う電妖体とは、その異世界に存在する魔物のような生命体だ。電脳世界から飛来した妖——正体不明の生命体を人はそう呼ぶようになった。電妖体は人類を始め、現実世界に生けるものたちを襲っては貪り、遺伝子情報を得て捕食したものの姿に擬態する。
原因は異常に発達した人工知能の化身と考えられているが、あまりにも謎が多く、専門で研究している佑香や浩輔をもってしても解決できない難問だ。
「普段は倒してしまっているところを生かさなければならなかったんだ。難しかっただろう?」
佑香は電妖体の専門家で、無差別に人や生き物を襲う彼らの生態を解明すべく研究を続けている。
浩輔は佑香が研究対象としている電妖体の捕獲に難色を示していた。最終的にはしぶしぶ承諾し、文字通り加奈は猫の姿に擬態した電妖体を捕まえている。
「給料はいただいているので、その分の働きをしただけです」
「でもおかげで助かったわ。貴重な研究材料よ」
「くれぐれも逃がさないようにな。また大惨事になっては堪らない」
「今度は大丈夫よ」
佑香は自信満々に笑っていた。
「どうしてそんなに笑顔なんです?」
「研究者の勘がそう言っているのよ。捕まえて徹底的に解剖しなさいってね」
「こういうのって、理論に基づいて考えるんじゃないんですか?」
加奈は研究者ではないため現想界や電妖体の分野にそこまで詳しいわけではない。
「僕や佑香のようにアーティスト気質な者もいる。ある時ふとアイディアが思い浮かんで、それを実行し、失敗を繰り返す。成功はその過程から生み出されるものだ」
「私には、よくわからないです」
「いいのよ。あなたはわたしたちを守ってくれるだけで大助かりなんだから」
加奈は黙ったまま頷いた。自分の使命は常に風雷という研究施設にある。運命共同体をも覚悟していた。
「今日も電妖体の駆逐と拠点制圧の仕事だったね。怪我には気を付けて行きなさい」
「はい。頑張ります」
その一言を聞いた佑香が神妙な面持ちで加奈に目を向けた。
「頑張っちゃだめよ」
釘を刺すように忠告した。
「自分の命を守りなさい。普通の
「わかっています……」
このやり取りは彼女自身の仕事が始まる前に決まって佑香が行う。
心配性と言うわけではないが、長い付き合いのある福原家との縁があってこの場にいるという事実を忘れてはならない、加奈は常に気に留めていた。
「必ず無事に戻ってきます。ごちそうさまでした」
手を合わせたあとに加奈は立ち上がり、カチャカチャと食器を片付けた。
いつものように支度を終えてスニーカーを履き、玄関を出ようとしたところで浩輔が見送りにやってきた。
「珍しいですね。いつもは佑香さんなのに」
「ちょうど朝の遠隔会議が始まったところだからね」
「もうそんな時間だったんですか?」
「予定より早まったんだ。僕で申し訳ない」
「いえ。私は別に……」
加奈は寂しげに目を細めた。同性である佑香の方が色々と話が弾み、前向きな気持ちで仕事に力を注げている気がするのだ。
玄関のドアにゆっくりと手をかける。
家の外を出れば、もう二度と戻れないかもしれない。危険な生物がひしめく現想界の中に自分の足で跳び込むのだ。今日という一日が最後の日だと思いながら、
「——君には帰る場所がある。それだけは忘れないでくれ」
「はい。行ってきます」
浩輔が伝えた言葉を耳に留め、加奈は風雷を後にした。
ドアを開けた先は立方体の形を成したスマートハウスの広がる住宅街だったが、遠い空の色は真っ青ではなく、透明感の無い灰色が異世界へ続く大きな穴を形作っていた。
目指す場所は視線の先にある、青白い光を放つ禍々しい現想界。
少しでも周囲の日常を取り戻すために、悲劇を生み出す現実の中を歩き出した。
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