第1章 邂逅
第1話 いつもの朝
午前七時。
肌寒い冬の朝陽が放射冷却を引き連れて空に姿を現した。
一軒家ほどの大きさを持つ真っ白な研究所に霜が舞い降り、わずかに白い宝石のような装飾を施している。
冷えた空気をつつくように、カラスの声がかぁかぁと聴こえてきた。
突き刺さる乾いた空気とは無縁の空調が効いた六畳ほどの寝室の中に彼女はいる。
柔らかく沈み込むマットが引かれたベッドの上で寝ていた女性が天井を見つめていた。
「……」
ガラス越しに聴こえる動物の鳴き声、柔らかい寝間着の感触、就寝前に焚いていたと思われるお香の残り香、僅かに口腔に残った歯磨き粉の味、そして仄暗い黄色い照明を視覚で感じ取る。
明確になってきた五感とは裏腹に自分の名前すら思い出せなくなってきたようで、ぼんやりとした空虚な脳内で名前を思い出そうとした。
——i、s、m、t、k、n。
――い、し、も、と、か、な。
――
そうだ。それが私の名前だ、と声に出ない声で呟いた。
やっと思い出したところで、ゆっくりと身体起こした。
加奈はあまりにもひどく疲れていたのか、夢は見なかった。
もう何度も見続けた同じ部屋の高い天井と、カーテンの隙間から覗き込む陽光。それだけが救いでもあり、残酷でもあった。
精緻に作られた白い内壁と紫色のカーテン、机と、その上にある通信端末は無言だ。
同じ一日を繰り返している気がしてならず、ある種の健忘症になっているのではないかと疑う。すべてを忘れて、寝室と言う名の監獄に閉じ込められているという妄想に走ってしまう。
しかし、そのような疑念は露と消えた。
「おはよう、加奈」
加奈の背後から優しげな声が聴こえた。
幻聴でも何でもなく、紛れもない女性の声だ。
加奈がベッドの上に座ったまま、呼ばれた方向へ振り返る。聴きなれた声のはずなのに、主の名前がうまく思い出せない。
声の主は年齢にして三十代ほどの見た目を持つ、家庭を持っていてもなんら不思議ではないごく普通の女性だった。加奈の寝室にあった椅子に優雅に座っている。ベージュのセーター越しに浮かび上がる無駄のない体つきが目に留まり、身も心もタイトに生きているような人生観すら映し出している。
「……」
目の前にいる女性を見て、加奈は主の名前を思い出そうと寝ぼけた頭を回転させる。
「大丈夫よ。昨日のあなたは大変だったし、無理もないわね」
女性は不安なままの加奈を安心させようとしたのか、ニッコリと笑った。
加奈はつられて笑みを浮かべるような表情はせず、正面にいる彼女の名前を思い出しては真顔で応えた。
「おはよう、ございます。佑香さん」
加奈が間違いなく佑香と呼ばれた女性の名を言うと、彼女は一つ頷いた。
目の前にいる彼女の名は
「記憶はしっかりしているみたいね」
「私、何かを忘れていましたか?」
まさか、自分は何か大切なものまで忘れてしまったのだろうか? 右手で頭を押さえ、過去の記憶を引き出しの奥から引っ張り出した衣服のように確かめる。
「正常よ。しっかりしなさい」
佑香はうなだれる様に頭を下げた加奈の腕に、そっと右手を添えた。
「ありがとう、ございます」
加奈は頭を上げて礼を言った。口元は笑わなかったが、少しだけ目を細めた。
「そういえば、どうやって私の部屋に入ったんですか?」
「どうやっても何も、ここは元々鍵が付いていないでしょう。起きるのが遅かったから、近くで待っていたのよ」
「近くでって、わざわざ部屋に入らなくても……」
常日頃メンテナンスの必要があるぶきっちょなアンドロイドじゃあるまいし、プライバシーの問題だってあるだろう。やすやすと部屋に入られてしまうと心も落ち着かなくなる。
加奈の疑問に佑香は首を横に振った。
「わたしたちは家族も同然。万が一にも何かあって困るのはわたしの方よ」
「それは……過保護じゃないですか?」
病院のように身体を管理されるのはあまり好きではない。それでも加奈から見た佑香は立場から上司に当たるため、中々否定はできない。
「あなたの体調も考慮しているんだから、少しだけ辛抱してちょうだい」
「私の……体調……」
加奈は全身をくまなく確かめるが、現時点で風邪のように発熱や咳があるわけではない。
いたって普通だ。そう、いたって普通の……何だっけ? と、加奈は自問した。
肝心なところが抜け落ちているように感じるが、それもいつもの現象だった。朝は決まって物事を朧気にしか思い出せない感覚は自分の特性と言ってもいい。
「そろそろ朝食の時間よ。支度が済んだら食べに来なさい」
「はい……」
加奈は素直に応えた。
佑香が部屋を去ったところで、うつらうつらとしていた加奈の脳内がようやく起動する。
光が差し込むカーテンの隙間を見ながら、今までの過去や今現在の状況を思い出すことが加奈の中でのルーティンの一つとして組み込まれていた。
今の自分は佑香に雇われていて、給料のみならず寝食までサービスしてもらえる。加奈が雇われている理由は数えきれないほどあるが、一つの大きな理由は真っ先に思い浮かんだ。
「私は……
加奈が一言を紡ぎ出した途端、すべてを思い起こした。
いつもの日常が始まるのだと思うとつまらなそうな、けれども高揚感も湧き上がる、不思議な情動に駆られそうになる。
変わっているようで変わらない、一日の始まりだった。
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