第2話

 妻が出て行き、一人残ったクロウは、養母の目撃情報を探した。

 母が行方をくらませたのは、夕方のこと。目撃者は多数だ。福祉省の役人もいた。しかし皆、母の徘徊は日常のことであり、からかい半分の声をかけるものも居るには居たが、その後の事はわからないとの事だった。

 母の目撃情報をつなげていくと、住宅街の外に向かって一直線に進んでいることがわかった。

 だが、その先には都市国家成立の背景となった五層の外壁がある。

 第一外壁の警察機構から第三外壁の福祉省までを貫くコンコースの入り口へ、母は向かったようだ。外壁内部で情報は途絶えている。最後の目撃情報は、第三外壁のゲート前で、次の通路を探してキョロキョロしている姿だ。

 母は外に行こうとしていたと、クロウは考えた。しかし、なんの為に?

 帰るためだ。母が何度も呟いたように。しかし、外壁の向こうに帰る場所など無い。

 外壁の向こうは――ありえない話だが、防衛省のもつ第四外壁を運よく潜り抜け、第五外壁の軍事施設を潜り抜けたとしても――空間交差現象で荒れ果て、そして土質もめちゃくちゃにシェイクされて斑になった荒野だけだ。

 そしてそんな荒野の中にあるとしたら、弱肉強食の自然と獰猛な獣たちばかりだ。とても生きては居られないだろう。

 行き先の謎を追ううちに、クロウは気になる事も耳にした。

 徘徊の末に行方不明になっている老人は、一人や二人ではないようだという事だ。

 もちろん、事故という形で不明になる人間が多少いるであろう事は、あの通勤風景のような老人達を一度でも目にすれば、容易に想像できる。

 だが、母達は違った。

 彼らに共通していたのは、耳を押さえる癖や仕草だ。

 目撃情報を提供してくれた人々の中には、自分の家族も同じように徘徊していたからこそ、注意深く見ていたのだという人間も少なくなかった。耳を押さえていたからこそ、目に留まったのだと。

 彼らは更に口を揃える。声が聞こえるとも、音が聞こえるとも。そして皆、昔のことを話すのだという。

 クロウも、連続通り魔のことを思い出した。彼も耳を押さえ、昔の家族に会うのが怖いと泣いていた。

 職業柄、クロウはそれらの証言を独自に整理し、共通点を見つけ出そうとした。通っていたヘルパーからも、家族構成からも、どんな経歴か、いつ頃から耳を押さえるようになったのか。どんな話をしていたのか。

 それらは、意外な形で繋がった。


 きっかけは、同僚の軽い世間話だった。

 交番に痴呆老人が万引きをしたとの通報があり駆けつけると、警官の制服を見て怯えた老人が暴れだしたとの事。店の店員たちと総出で取り押さえたのだが、どこかで打ちつけてしまったのか、老人が耳を押さえてうずくまってしまった。

 見てみると、耳の付け根付近に不自然な窪みができていたと。

 あまりに痛がるので、病院に連れて行くと、埋め込み式の補聴器が破損したからだという。

 耳の裏近くの骨を薄く削り、目立たないようにプレート型の補聴器を埋め込んでいたのだが、それが破損し、皮膚を突き破ろうとしている、と。

 この時代に、そんな高価そうで使えなさそうな電子機器を、なぜ老人が埋め込んでいたのか不思議に思って問いかけると、医師は何気なく答えたそうだ。

 「Jキャリアの人には多いんですよ」と。

 戦時中のJキャリア国家の政策で、骨伝導式の補聴器を国家予算で埋め込んだんです。部品のほどんどを当時最先端の生物工学で作成した人工骨で作成してあるから、拒絶反応も少ないと。人によっては、一部が自分の骨の成分と同化している例もあったとか無かったとか。

 そんな戦時中の品物を埋め込んだままで支障をきたさないのかと同僚が尋ねたら、高齢者の定期健診で、専門医がメンテナンスをしているから大丈夫だという。

 そもそも、軍事用に開発された品なので、今回のように衝撃で破損することの方が珍しいそうだ。

 「捕まった万引き老人は骨密度が極端に少なかったから、骨と同じような成分で出来ている補聴器のカルシウムも、体の維持の為に使われてしまったのかもしれませんね、それで外郭が薄くなって壊れたのかも」――そんな本気とも冗談ともつかない話をされたという、世間話だった。

 だが、埋め込み式の補聴器など、Jキャリアであるクロウも初めて聞く話だった。

 戦時中であるならば、クロウはまだ七歳前だ。

 国の政策で補聴器を埋め込む手術となると、どの年齢層から手をつけるだろう? クロウに限ってなら、健康診断でそのような指摘をされたことは無い。未手術だったのだろう。

 そして逆に養母は、当時の若者として、国の政策どおり補聴器を埋め込んだに違いない。国家に所属する者の義務として。

 クロウは自分の捜査資料を一から読み返した。

 もちろん、当初の情報ではJキャリアばかりではなかった。だが、クロウはもう一度、リストにそって聞き込みなおす事にした。

 そして愕然とした。

 調査した徘徊失踪老人の八割がJキャリアであり、残りの二割も、生活の基盤をJキャリア国家の元においていた時期があるというのだ。

 クロウは彼らの健康診断と補聴器のメンテナンスをした人物を調べた。どのようなメンテナンスをしているのか、そのメンテナンスの不備がこの事件の鍵なのではないかと疑ったからだ。

 そこでまたも、驚かされた。

 彼らに共通していたもう一つの事柄――福祉省の高齢者医療専門の嘱託医の名前だ。

 ドクター・バニヤン。彼は戦時中は軍医として、兵士のみならず全国民の補聴器の埋め込み手術に関わっていた人物だったのだ。

 失踪した人々は皆、最低三回は彼の診察を受けていた。もちろん、福祉省の発行する検診案内ハガキによる指示で、ドクター・バニヤンの元へ向かっていたのだ。

 この時初めて、クロウは福祉省を疑った。

 バニヤンが起こしている事故に目を瞑り、あえて彼に診察を受けさせているのではないか? でも、なぜ?

 漠然としていたが、頭にこびりつく疑惑でもあった。





 郵便局を出たクロウは、耳を澄ます。

 神経を、脳裏に走る映像を捉える為だけに研ぎすます。

 クロウは、「音ともいえない音」を待っていた。母の手がかりとなる音。

 クロウは初めてその音を耳にした時の事を思い出す。


 失踪老人を探し、クロウは彼らと同じ環境に身を置きつづけていた。

 何度も街をさまよい、徘徊する別の老人たちの後を歩き、時には彼らを保護してやりながら、クロウは母の聞いたサイレンの音を探し続けていた。

 そして、一度はそれを捕まえた。

 クロウにとってそれは、サイレンの音ではなかったが。


 いつものように水色の夕焼けの中を歩いている時だった。

 不意に、耳元で何かが鳴ったような気がした。空気の色が一瞬変わったような、耳元だけにふっと風が吹き付けたような、小さな違和感の音。

 その音の鳴る間、クロウは見た。正確には、感じとった。

 脳裏に懐かしい光景が蘇った。今いる水色に染まった街の景色ではなく、熱いぐらいに赤く染まったブロック塀と、帰宅を促すサイレンを鳴らしていた鉄塔。

 クロウはかすかな強弱から、右側の路地へ進む。見覚えがある通りだった――少なくとも、一瞬はそう感じた。懐かしいとすら思ったぐらいだ。

 しかし、クロウの理性はこう囁く――この一画に踏み込んだ事は無い。ここは所轄の境目で、勤務年数が多い輩が近づくと、モメゴトのタネになる。だからお前は行くなと忠告されていたじゃないか。

 記憶と理性の相反する結論に、その時のクロウは足を止めた。矛盾する感覚は、逆に徘徊老人も同じ目にあったのだと確信させるに十分だったし、誰かに誘導されていると感じながらも、先に進もうと半端な勇気が湧いてくる事実が、クロウを操っている誰かの存在を逆に裏付けていると実感できたのだ。

 試しに、道を戻ろうとして驚いた。

 まるで警告するかのようなイメージが、一斉に沸き上がったのだ。フラッシュバックのような悪夢的な感覚は、クロウが諦めて音の指示に従って進み始めると同時に消え失せた。

 突然の出来事に不安も覚えたが、ついに徘徊老人たちの行き先を突き止められる時が来たのだと考え直し、クロウは注意深く街を歩く事を選択した。

 徘徊老人の数人も、クロウと同じ道を辿っていた。その後をフラフラとついていきながら、刑事として考える。

 この道は、外壁に向かっているんじゃないのか? 養母と同じように?

 その疑問と同時に、壁の外の光景が頭に浮かんだ。

 やがて、その疑問が形になる。

 第一外壁から第三外壁の内部まで続くコンコースに至り、クロウは愕然とする。

 第三外壁――福祉省の収まっている場所だ。

 その中に設置された、福祉省の研究所へと続く強化ガラスの扉の前で、クロウは途方にくれた。

 IDカードが必要だったのだ。

 第三外壁に進入するには、IDカードによって所属部署を認証させなければならない。

 そして、第一外壁に職場をもつクロウ自身のカードでは、第三外壁の管轄下にある扉のオートロックを解除できなかったのだ。

 扉の前で立ち止まっていたのは、クロウだけではない。すっかり意識の光を無くした目で立ち尽くす老人たちが、クロウが目の前の扉をあける方法を考えている間にも、やってきては立ち去り、ひっきりなしにやってきては立ち去っていった。

 母もこんな風に、何度もこの場所に到達していたのかもしれない。ただ、この扉が開かない限り、どうしようもないのだ。

 引き返さざるを得なかった。

 それでも音は、引き留めようと警告を出し、画像を脳裏に浮かべ続けた。

 外へ行けと。

 例の、聞こえるか聞こえないかの小さな違和感のような音が、ずっと、先へ先へと命じていたのだ。

 そして実際に、いなくなった老人たちは先に進めたのだ――クロウは思い直した。

 ということは、誰かが老人たちが来ることを知っていて、このゲートの先へ誘い出したという意味だ。どこかに門番役がいて、彼らを選別して連れていったのだろう。

 この福祉省管轄の研究所の中へ。

 クロウは第三外壁に背を向けながら、警告の画像に頭を悩ませながら、何度も自分に言い聞かせたものだ。

 ついに見つけた。

 福祉省が、養母を隠している、と。



 そして今、妻への離婚届けを投函して郵便局を出たクロウは、同じ道を歩き続けている。

 耳を澄ますと、例の音が微かに聞こえる。どこかでスイッチが入ったのだろう。

 だが、音が聞こえなくてもかまわない。行き先は掴んでいるのだから。

 たった一人で福祉省と対決するなんてバカバカしいと思いつつ、それでも、思っていた。

 あの先に何があるのか、刑事として、被害者の家族として、真実を知らなければならない、と。

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