第3話

 電子機器のほとんどが使えなくなったこのご時世。今となっては珍しいの一言につきる強化ガラスのオートロックゲート。その向こう側には、西陽の差す青い通路が見えた。人影は無い。

 クロウは、一度だけ振り返り、自分に注目してる人物はいないかを確認した。第一外壁とは違い、第二外壁の二級文官たちの姿もない。帰宅前の時間帯だから、一日の報告作業に忙しいのかもしれない。

 仮に一人二人通りかかったとしても、第三外壁へのゲートを気にする余裕などなさそうだ。しかもそれが、第三外壁の中でも独立したラボならば。

 「世代間情報研究所」なんていう、あるのか無いのかわからないほど、全く認知されていない福祉省の研究機関だ。一人二人の老人が、ヨタヨタとここにやってきたとしても、「世代間情報」とやらの収集に呼び出されただけと考えることもできる。そう思えば、うまく名付けたものだ。その研究の中身が全く想像できないことをのぞけば。

 クロウは脳裏に、キッチンテーブルの上に置いてきた封筒を浮かべた。

 あれは遺書の副本だ。原本は、自分の身に何かがあった時には開封するよう、弁護士に預けてある。その上、弁護士が開封した遺書の中には、今回クロウが調べた事件の概要と告発文書が収められている。クロウの命を懸けての時限爆弾だ。それらに書き付けた自分の文字を思い出した。

 そして、出ていった妻の実家へ郵送した、離婚届の筆跡も思い出した。

 あの二つが、自分の最後の声になるかもしれない。

 この透明な扉の向こう――本来ならクロウが踏み込む権限を持たない重要エリアの扉の向こう側。一歩踏み出せば、法を犯したとして、自分の人生をまるっきり変えてしまうことは明らかである。

 しかし、クロウは「空間交差現象」で家族を失い、そして今もまた、家族を失った人間だ。これ以上、失うとしたら自分自身の社会的な地位ぐらいのものだろう。

 以前の家族は、災害だったが故にあきらめるしかなかった。だが、今の家族は、取り戻す。完全に取り戻せなくても、取り戻す戦いはしてやる。世界が、世間が、家族を盗んだのならば尚更だ――それが、刑事になったクロウの意地でもあった。

 そして、今、一人きりのクロウには、意地しか残されてはいなかった。

 覚悟を決めて、胸ポケットからIDカードを取り出した。都市国家住民の九割が所有するIDカードだが、これも電子機器として、珍しい道具である。このカードの機能を使用する為に、交差現象以前の電力の五倍から十倍の電力が必要になるのだと聞いた。

 それをカードキー代わりに使用する福祉省は、金食い虫と罵られても仕方がないのかもしれない。それだけ重要とも言えるが。

 今、クロウが手にしているカードは、偽造カードだ。カードの名前は、G9キャリアのゲオルギウス・アジール氏。

 カードを手にし、呼吸を整える。

 再度、耳を澄ませる。

 耳鳴りとも記憶の中の音楽とも思える、音とも呼べぬ誘いの音は鳴りやまない。その音で思い出す通路は、記憶の中の学校の廊下のようでもあり、目の前に広がっているゲートの向こうの通路のようでもある。

 間違っていない。フラッシュバックもないから、ここが目的地。やはり、ここなのだ。

 カードを認証させようとした時、不意に指先が熱くなったように感じた。

 ただの気のせいだったのだろうか。犯罪を犯していると自覚しているクロウの罪悪感だったのだろうか。

 扉が、あっけなく開いた。

 クロウは、我知らず足音を忍ばせて踏み込む。西陽で暗い水色に染まる通路を、母もここを通ったのだと確信しながら進む。

 「帰りたい」と母はつぶやいていた。

 こんな通路の先に、帰る場所など無いのに。

 クロウは音量で左に曲がるイメージを与えられ、次のT字路を左に曲がった。

 息を呑んだ。

 ひょろりと痩せた人影。自分より拳一つは背の高い細面の、福祉省ニ佐文官のノヴァーリスニ佐がそこに立っていたからだ。

 とっさに足を止めたクロウは、逃げ出すべきか、逆にノヴァをとらえようか、判断に迷う。

 その隙にノヴァは片手をあげ、眼鏡越しの視線を戸惑うクロウに合わせた。

「待っていました」

 クロウは腹を括った。

 ノヴァーリスは、このJキャリア連続失踪事件について、そしてドクター・バニヤンの素性と活動について福祉省に問い合わせた時から、ずっとクロウに協力し、捜査の窓口係となってくれた福祉省の役人だ。

 Jキャリアの高齢者を担当してきた性別逆転被害者(トランサー)であり、彼自身もJキャリアである

 彼は、十歳の時に空間交差現象に巻き込まれ、少女の体から少年の体へと情報を書き換えられてしまったのだ。

 そういう人間には、人道的倫理的配慮を加え、特例として性別を元に戻すトランサー手術が許可されている。

 しかしノヴァは――福祉省高位役人という肩書きを利用すれば一発でトランサー手術の許可が下りるだろうに、許可制度を利用する気はないのだと言っていた。

 トランサー手術は高額だし、身体的な負担も大きいことから、手術許可が降りるまでの審査も厳しいと有名だ。

 その為、受けたくても受けられず、泣き寝入りしている人間も多い。非合法の手術について摘発されたりトラブルになったりと、定期的に世間を騒がせているニュースでもあるのだが……ノヴァは興味がないのだそうだ。特に性別を元に戻すきっかけもメリットも見いだせないから、と。

 世間では珍獣のように見られるトランサーだが、クロウは、そんな普通じゃない彼の事を気に入ってもいた。

 基本的には無愛想だが、捜査の為に詰め寄るクロウに対し、いつだって真摯に受け答えをしてくれた人物だ。自分が信頼に値する人物だと行動で示すノヴァの生き方は、好感と尊敬に値するものでもあった。

 更に意外なことに、彼はクロウの疑ったJキャリアの補聴器問題にも、直接関わっていた。

 埋め込み型補聴器の検診を受けるよう、案内ハガキを発送させていたのは、彼なのだ。

 それでも検診を行わない人々に対して、彼は自ら営業マンよろしく説明してまわり、定期検診の重要性を説いてまわり、時には実際に不具合のあった住民から感謝されることもあったのだという。

 そんな時には、普段無愛想な彼も、はにかむような笑顔を浮かべたのだとか。

 これはクロウが自分の足で調べた周辺住民の談話だから、本当なのだろう。

 根本的には、気の優しいところのある男なのだ。おそらくは。

 たった今、目の前で仁王立ちするノヴァの凍り付くような表情からは、全く想像できないのだが。

 そして、こんな国家的な犯罪に彼が関わっているとは考えたくはないのだが。

「やっぱり、罠ってわけか?」

 カマをかけてみたが、ノヴァは怯まなかった。

「あなたがどう思おうと、結構です。あなたはここに来た。それが事実でしょう」

「どういう意味だ?」

「ここはあなたの職権で立ち入ることのできる場所ではないはずだと言ってるのです。不法侵入。裏取引による偽造カードの購入と使用。私にはニ佐文官としての、情報漏洩防止の為の強行排除義務と権利があります」

 クロウを逮捕すると宣言しているのだ。



 一度は腹を括ったものの、クロウは迷った。

 ノヴァーリスはどこまで、クロウのやっている事に気づいているのだろうか。

 偽造カードと入手と使用。

 それだけなら「何も知らない福祉省の役人」として、丸め込む事もできる。ノヴァは今までずっと、紳士的に対応してくれた。その礼儀に報いる為にも、手荒な事はしたくはない。クロウの掴んだ真実を話せば、味方につけることもできるかもしれない。

 もし、話を聞かずに逮捕しようとしたら?

 確か、軍事階級でもある二佐文官には捕縛訓練が課せられていたはずだ。精神障害やパニックに陥った人間の保護という名目で。

 だが、現役の刑事であるクロウに通用するだろうか? 少なくとも、荒事の経験数は、クロウの方が上だ。自信が無いわけではない。

 そんな事を考えていた矢先、クロウの心中の優越感をひっくり返したのが、ノヴァの取り出した、黒い筒のようなスイッチだった。細長い円錐系の筒。

「抵抗は無駄です。これはIHW1型に合わせた指向型音響兵器です。あなたが抵抗するそぶりをした瞬間、これを起動させます」

 IHW1型――それはクロウの切り札となった品だ。

 Jキャリアの老人たちが使用していた、埋め込み型補聴器の型番。

 そして今は、クロウの耳元にも、同じ品が埋め込まれている。

 それが逆に兵器として自分を窮地に追い込んでると言う。

 そもそも、なぜ彼はクロウがIHW1型を手に入れた事を知っているのか?

 なぜ今までクロウを放置しておいたのか。

 危害を加えるつもりなら、さっさとやっていたはずだ。それを今までしなかったのは、クロウの捜査力を侮っていたのか、力で排除することを良しとしなかったのか。

 ノヴァならどちらだろうか。双方でもあるだろうが、彼がクロウの入手する情報をコントロールする為に捜査協力を申し出てたとしたら――放置した理由は後者だ。

 そして、相手に危害を加える気がないのなら、こちら側が押し通ってみせる。

 クロウはホルスターの警棒を抜き出しざま、ノヴァの手元を狙って振り下ろした。

 敵陣の真ん中、それも顔見知りに対して拳銃を使うには、さすがに勇気が必要だったのだ。

 ノヴァは逆手で警棒を掴んで受け止め、逮捕術の要領で逆にクロウの腕を捻りあげた。やはり制圧訓練を受けている。これは予測どおりだ。

 クロウは逆の腕で反撃――と見せかけて、警棒から手を離した。

 そのまま、相手の腕をさかのぼるように手を滑らせ、ノヴァの首元に真っ直ぐ手刀を叩き込もうとする。

 視界の一点からズームする動きは、予測していても見切りにくい。顎の下から迫まる動きなら尚更だ。

 案の定、指先の数ミリがノヴァの喉に食い込んだ。気管を激しく圧迫されて仰け反る。

 同時に、クロウはこめかみを撃ち抜かれるような衝撃に襲われていた。

 耳の奥が腫れ上がるような錯覚と共に、恐ろしい勢いで苦痛のイメージが乱舞する。それは、ここに至るまで利用した機械の、そのプログラムが呼び出すノスタルジックな光景とは真逆ものだった。

 忘れてしまいたい幾つもの場面の乱舞。

 父母の瞬死の光景も、凶悪犯に抵抗されて刺された時のことも、Jキャリアとして除け者にされ続けた子供時代のことも、妻になじられたあの夜の会話も、小さな事件から大きな事件までの全てが明滅した。

 耳の奥は高速で吐き出された言語のような、無意味な言葉の羅列、いや、言葉に思える音の洪水に支配され、轟音とも蠢きともつかない緊張で一杯になる。

 視覚と聴覚を支配した記憶の苦痛は吐き気を伴い、その吐き気は頭痛と共にクロウを打ちのめし、床にうずくまらせた。

 ノヴァが攻撃を受けたと共に、例の音響兵器のスイッチを入れたのだ――それはわかった。わかっていたが、抵抗するどころか、もがく力すら奪われる痛みの波。

 ノヴァが咳き込みながら近づいてくる。だが顔を上げることすらできない。ノヴァの宣言通り、この耳元に埋め込まれた機械が、クロウの脳味噌にだけ叩き込む指向性の記憶の強制排出誘導音なのだ。

 そこまでわかっているのに、対抗する方法が見つからない。

 彼はかすれた息遣いを調整しながら、クロウの手首に二佐文官の紋章が刻印された銀色の腕輪をはめた。

 これは手錠ではなく、文官の保護対象者として調査中の人物であるという印だ。警察機構の手錠ほどの強制力は無くとも、連行して聞き取り調査を行うべき対象であると示す品であり、裏を返せば、反社会的な人物であるとやんわりと示す道具でもある。

 ようやく、ノヴァが音響兵器のスイッチを切った。

 クロウの体は、肉体的にも精神的にも追い詰められていたところからの反動で、冷や汗を噴き出した。それを拭い、額に触れた硬い金属の痛みとそれが示す意味を悟り、再度、手首の環を確認。

 長期休暇中とは言え、現役刑事である自分が、犯罪者のような扱いを受けているとは。

 いや、こうなるんじゃないかと予感はしていたはずだ。だから遺書も離婚届けも用意した。ただ、こうもあっさりと捕縛されるとは思わなかっただけだ。

 ノヴァなら自分に危害を加えたりはしまいと、荒事は避けるだろうと――武器を持っていると確認しているにもかかわらず高をくくっていた。

 それは完全に、油断したクロウ自身のミスだ。

 何度か喉の調子を確認したノヴァは、淡々と、書類を読み上げる口調で告げた。

「あなたを不法侵入者として取り調べます」

「待てよ。おまえ、福祉省が何やってるのかわかってんのか? この先に、いなくなったオレのお袋が――」

「わかってます」

 クロウは耳を疑った。

 聞き間違えたかと思った心情が、我知らず顔に出ていたのだろうか。

 もう一度、ノヴァは「わかっています」と繰り返した。

「わかった上で、IHW1型を使用するJキャリアに接触してました。意外でしたか?」

 まさか、この生真面目な文官までもが、福祉省の犯罪の片棒を担いでいたとは。

「おまえ……わかってて、IHW1型の調整を薦めてたのか? ドクター・バニヤンとグルになって?」

 自分でも怒りが押さえきれない。落ち着こうとは思うのだが、先の攻撃から続く体の不調を押しての声は、焦りのようにどんどん大きくなっていく。

「バニヤンがやってたのは、IHW1型補聴器の調整なんかじゃない、プログラムの書き換えだ。催眠誘導型の音を骨伝導で直接聞かせ、聞いてる人間の記憶から帰宅のイメージを引きずり出す。そのイメージの図と、音による誘導で第三外壁までの道のりを提示するんだ。使用者本人は夢見心地でここまで誘導される。音の誘導は、老人の危機感も麻痺させ、自分達が帰れるかどうかなんて考えられなくなる。これはバニヤンと福祉省の仕組んだ、意図的な拉致誘拐事件だぞ? しかもJキャリアだけを狙ってる。おまえ、そんな事を許すつもりなのか? 見損なったぞ!」



 ドクター・バニヤンの定期検診による補聴器の修正に、何か異変があったのではないか――そう考えたクロウは、まず手始めに、Jキャリアの高齢者に定期検診を進めていたノヴァーリスから事情徴収を行った。

 その時のノヴァは、素直に、ドクター・バニヤンが戦前戦中からIHW1型の埋め込み手術と修正手術に関わっていたことを認めた。

 空間交差現象の後、電子機器が壊滅的な被害を受けた為、IHW1型の作動調査を行い、被害の分類を行わなければならないとの事だった。

 しかし、IHW1型そのものを老体に埋め込み続けていることの負担や、使用による聴覚異常が生じてないかの検査をする為、ひいては取り出し手術を行わなければならないかもしれないとのことで、IHW1型の専門家とも呼べるバニヤンに協力を仰いだのだという。

 ドクター・バニヤン本人にも、ノヴァ共々面会したことがある。

 ところがクロウの見立てとは違い、バニヤンにはやましいところが全くなく、むしろ、IHW1型について世界一詳しいのは自分だという誇りをもって受け答えをしていた。だからだろうか、一回目は快く応じてくれた。

 IHW1型の開発に伴う様々なエピソードも、包み隠さず話してくれたし、それを修正する為のプログラムも、そのプログラムを注入する為の細い針のようなピンセット、それを小さな穿孔機で開けた穴から入れるところも、シミュレーターを使った上で見せてくれた。

 だがその後は、どれだけ話を聞こうとしても、頑として要求に応じなかった。一般人に理解できる範囲で語れることは、全部語ってしまったからだという。専門的な話をしても、刑事さんには意味がないだろうと。

 クロウも休日に行っている捜査だ。無理に聞き出すこともできなかったし、失踪人捜査に取り組んでいる警察官からも、公務に支障を来すので中止して欲しいと申し出があったので断念した。

 調査の苦境をノヴァに訴えると、彼の方からもドクターに応じるよう説得中なのだという話だったのだが――ノヴァが、ドクター・バニヤンのやっていた内容を元より知ってたとなると、最初から、クロウの追求を受け流すつもりだったに違いない。




 ノヴァはクロウが肩で息をしている姿を冷ややかに見つめ、頷いた。

「自力でそこまでたどり着けたのは、素晴らしいと思います」

「バカにしてんのかっ!」

「本当に素晴らしいと思っただけです」

「あの機械のおかげで、正常な人間の脳味噌も操って徘徊するようにし向けてたんだったら、お前等は老人の脳味噌をその手で壊してた事になるんだぞ! お袋の痴呆も、お前等のせいで始まったのかもしれねぇんだ!」

「少し急いでいた事は事実ですが、遅かれ早かれ、彼らも皆、何らかの手段で呼び出されていたはずです」

「IHW1型のせいで、何も知らない老人が怯えた挙げ句、通り魔になって他人を襲ってたんだ。それも『遅かれ早かれ』ですます気か!」

「不幸な事故でした。あれは完全に想定外だった。被害者には徘徊老人保護義務を怠った賠償金が振り込まれているはずです」

「金じゃねぇだろ。それがわからないアンタじゃないはずだ」

「今現在は、これで精一杯なんです。事情が許せば、私だって謝罪に行きたいんだ。貴方こそ、この一月で私がどんな人間なのかわかっているはずだ」

 しばらくの間、二人は睨みあった。互いに互いの出方を伺っていることもあったが、クロウは自分の中に絶えず湧き上がってくる怒りと吐き気を抑えることで必死だった。

 そして、自分がどれだけ、このノヴァーリス二佐文官を信じてきたのか、そしてその信頼を裏切られたことにどれほどのショックを受けたのか、思い知らされた気分で一杯だった。

 そして、簡単に騙され続けてきた自分自身への怒りも絶え間なかった。

 ノヴァはクロウの沈黙の間、何を考えていたのだろう。

「一点だけ、教えてください」

 唐突に問いかけてきた。

「貴方は今回のことを『ドクター・バニヤンと福祉省の仕組んだ意図的な拉致誘拐事件』と考えたようですが……行動には目的があったと考えるのが常識です。貴方は我々がどのような目的で拉致をしたのだと思ったんですか?」

 こんな回りくどいことをして、Jキャリアの高齢者ばかりを集めて? バニヤンの道楽とも思えないし、この作戦を実行するには、高額の費用も必要だっただろう。だが、そこまでして、何をしたかったのか。

「……ノヴァーリスさんよ。あんた、『姥捨て山』って話を知ってるか? Jキャリアの文化圏には知られた話のはずだけどな」

 無言のノヴァに、クロウは戦時中、強兵政策の一環として、Jキャリアの文化が廃れつつあったという歴史の教科書の一節を思い出した。

 クロウが知っているのは、養母が自嘲混じりに語ってくれたからだ。もしもこの先、本当に食料が無くなってしまったら、同じようにしてもかまわないと。

「大昔、貧しい田舎の村じゃ、老人は七十になったら山に捨てに行ってたんだと。家族分の食事を用意できないんで、口減らしをしたんだな。母親も息子も承知の上で、雪の降る日に捨てに行けば苦しまずに死ねて良かったとかぬかしやがる、あまり良い気分のしない話さ」

「福祉省が、食糧問題の解決策として、老人を集めて殺害している、と?」

「そんなもんだろ? ただ、オレの見たイメージには、交差現象前の風景と一緒に、外へ出るイメージがある。だから……あんた達が直接殺してるとは言わない。自分から街から出て行くように仕向けて、閉め出してるんじゃないのか?」

 実際に都市国家の外壁から押し出せば、荒野で野垂れ死ぬことは間違いないだろう。相手が高齢者、そして痴呆老人なら尚更だ。

 ノヴァは手の中に残っていた音響兵器を懐にしまいながら、眉を寄せた。

「貴方には、驚かされることばかりです。真実そのものには程遠いですが、全くの間違いではない」

「どういう意味だ」

 真実には程遠いとなると、口減らしで拉致したわけではないというのか。国家の行っている大量殺人事件ではないと? それでは何が目的で誘導しているのか?

 『全くの間違いではない』というのなら、自分で体験した部分が正解という事だ。ならば答えの全貌は外壁の向こうにある。

 クロウの問いかけに答えない代わりに、傍らに並んだノヴァは促すように背を押した。

「貴方を連行します。抵抗したら……わかってますよね?」

「今度こそ、オレの脳味噌を破壊するつもりか?」

「二時間ぐらい目眩が収まらないかもしれませんが、それだけです」

 ついてきてくださいと、ノヴァは背中を押し続けた。連行という押し方ではない。老人や病人に促すような、優しい手つきだ。

 クロウはその慣れた誘導にふと、この男はずっと、この廊下で老人たちを待ち受け、案内していたのではないかと感じた。

 老人たちにも、養母にも、この銀の腕輪をつけて。

 あまりにも淀み無く、案内の男は研究所の廊下の先へ先へと行く。それほど長い廊下とは言えないが、老人たちには辛い道程だったかもしれない。

 そして、敗北感で一杯という意味では、クロウにとっても苦痛に満ちた連行だった。

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