ハーメルンの黄昏

suzu3ne

第1話



 その日、クロウ・キャンベルは最後に二つの封筒を用意した。


 キッチンテーブルの上に一つ置いて、がらんとした家の中を見回す。


 一ヶ月前まで部屋の一画を支配していた養母の介護ベッドが、折り畳まれて壁際に追いやられている。

 二週間前まで妻が使っていた鏡台は、部屋の隅に鎮座している。

 三日前までクロウ自身が通勤に使っていたスーツが、ハンガーに掛かって揺れている。

 四時間前まで交互に見ていた真空管テレビと新聞が、今は沈黙とラックの中に納められている。

 五分前まで呑んでいたコーヒーモドキのカップも、脱進機式洗皿器によって明日の夜までには綺麗に洗浄されているだろう。


 クロウは、封筒の一つを上着のポケットに突っ込み、護身用の拳銃と飛び出し警棒を、見つかりにくいよう肩から吊したホルスターの左右に納めた。

 こんなものを準備しても、ダメな時にはダメだとあきらめながら、だが。

 長期休暇を申し出た時、上司はジッとクロウの顔をのぞき込み、たっぷり五分は眺めた後、黙って届けにサインをしてくれた。

 上司はこう思ったに違いない。

 三ヶ月前、養母とは言え、実の母同然の老婆が徘徊を繰り返したあげくに失踪して。

 それまでずっと献身的に介護してきた妻は、失踪についてクロウに詰め寄られ、自分の苦労を夫が何一つわかってくれなかったと見切りをつけて実家に帰ってしまい。

 関係者が事件に関わることは御法度な刑事としては、せめて休暇の間だけでもと独自に調査していたが、たいして成果もあがらず。

 通常業務をこなすにも、この都市国家時代の若手は慢性的な人手不足で、疲労困憊している。クロウのような刑事事件を専門にしている人間は特に、昼夜を問わず仕事に追われ続けている。

 このまま無理に働かせるよりは、休暇を取らせ、心残りの失踪事件を納得いくまで捜索させよう――満足させた上で休息をとらせなければ、過労死するかもしれない、と。

 上司は五分間で、そんな事を思ったに違いない。


 その結果が、この、テーブルの上とジャケットの中にある、二つの封筒なわけだが。


 玄関を出る。あえて鍵はかけなかった。

 もし、うまく行けば、自分は養母や仲間の刑事たちと共に戻ってくるだろうし、うまく行かなければ、妻が遺産の整理をするべく弁護士を引き連れて踏み込んでくるはずである。

 そうでもなければ、福祉省か警察機構が誰か数名を派遣し、強制捜査に乗り込むはずだ。

 そんな彼らに、鍵をこじ開ける手間など与えるつもりはなかった。

 鍵をかけないのはクロウなりの、最後の親切のつもりだったのだ。


 あと一時間もすれば、陽も傾いて夕闇が訪れるだろう。すっかり見慣れた、水色の夕暮れを経て。

 目的地にたどり着くまで、見納めとなるかもしれない道を歩いて行くことに決めていた。養母も、青暗い斜陽に染められた街並みを歩いて行ったに違いないのだから。

 「帰りたい、帰りたい」とか細く泣きながら、ヨロヨロと歩いていったのだろう。

 その道を、同じく辿っているはずだ。



 養母とクロウは、クロウが十三の時に顔を合わせた。

 第六次海洋分断戦争中起こった空間交差現象の、その六年後――都市国家成立前のことだ。

 もっとも、あの戦争が終結したのが正確には何年のいつなのか、交差現象後の混乱で、知っている人間がいるのかすら怪しいが。世界のどこもかしこも、未だに戦争どころではないだろうし。

 クロウは七歳のあの日のことを、正確には覚えていない。

 産みの親二人と共に、外出していたことだけはわかっている。

 気がついたら、既に世界は歪んでいた。

 文字通り、世界の空は七色の斑に染まり、手を繋いでいた母が、視界と触感の中から一瞬にしてかき消された。

 驚いて父を振り返ると、父の姿も無くなっていた。

 誰かが悲鳴をあげ、大人たちがそれぞれのパートナーの名を呼び、探しはじめ、そして一人残ったクロウは、帰ってくると信じていた父や母を待ちながら、近くのベンチで泣きわめくばかりだった。

 その間にも世界は変容を続け、高層ビル群の一部は泡のようにくずれ、最後には地面に吸い込まれて消えた。アスファルトはボロボロの黒い砂となってそのまま地面に張り付き、駐車されていたトラックは大きな樹木となって枝葉を茂らせていた。

 気がつけば、荒野と廃墟が連なる景色の中、取り残されてパニックに陥った人々が逃げまどう地獄絵図がそこにあった。

 クロウは、彼らが一度はいなくなり、やがてトボトボと戻ってくる姿を眺め続けた。他に何をすれば良いのかわからなかったし、避難場所を指示する人間もいなかったからだ。

 日が暮れると、夕焼けは水色だった。暗闇が完全に視界を奪う前に、誰かが篝火をともし始めた。赤くなると思っていた火の色は、やっっぱり水色だった。それ以来、火の色は水色であるのが当然の世界になっていた。代わりに、日中の空の色は常に紫がかっていた。

 スクランブル交差点だった場所の中心に、高く組まれた木々が水色の炎をあげ、そこに続々と集まってきた人々の顔は、皆一様にひきつっていた。

 おかしな事が起こっており、どうなってしまうのかわからない、途方にくれようにも次々と出てくる奇妙な事柄に気の抜けない表情。

 誰かがすすり泣き、連られて、男も女も涙を流し始めた。大人なのに泣くなんて変だと思ったものだ。

 クロウの覚えている空間交差現象は、そんな光景だ。

 父母は後に、瞬死と判断された。空間交差現象により、この世界に存在するという情報を消されてしまったのだという。

 あの瞬間から、二人は世界からいなくなった人間だと判断されたのだ。火の色が赤から水色へと変化したように、居た人間が、居なかった人間だと変化して。世界が彼ら二人を認識できなくなったのだ。

 代わりに、瞬死という概念と言葉が生み出されたといっても良いだろう。それまで存在しなかった死因を、人々は作り出さなければならなかったのだ。

 大勢の人々が瞬死し、それだけで、当時の国家の人口の三分の一が減少したのではないかという。もちろん、それに伴う事故や二次災害によって、更に三分の一が減少したとも。

 人々だけではない。大陸の形が変わり、海の形も変わり、天候も変わった。物理法則も書き換えられ、特に電子通信分野は壊滅的な被害を受けた。


 どの物理法則が現行上正常に機能し、どれが機能していないのか、交差現象が収まって三十年になる現在でも、全てが解明されたとは言い切れないでいる。

 何よりも、都市国家成立からたった十年だ。現象解明の研究ばかりに予算をつぎ込む余裕などない。


 交差現象によって世界中の人間が一斉に間引きされ、人によっては今まですんでいた場所から三百キロも離れた場所に移動させられていたという、世界の大変動だ。他の都市国家が当時はどのように対処したのか、相互通信手段が原始的な郵送配達中心となっている今ではまだ世間に公表されていないのだが、この都市国家では、元の所属国家を中心にA1キャリア、K10キャリア、C7キャリアなど、種族や生活文化を同じくする人々ごとに分類されたIDを配布した。

 クロウはその中の、Jキャリアに分類された。

 Jキャリアは全体的な数が少なく、分布範囲が狭いという理由で、他のキャリアのようなナンバーのつかない、無番号キャリアとなった。だがそれ故に、いわれのない差別を受ける事も多々あった。子供の頃のクロウは、必死でJキャリアであることを隠したものだ。

 クロウは、狂信的なほど世話好きな保護団体の人々に先導され、Jキャリアの孤児斡旋センターへ入所した。

 当時の世間は、各地の権利争いで血で血を洗う暴動が日常茶飯事だっというが、クロウに争いの記憶はない。だが、斡旋センターもその余波を受けてたのだろう。頻繁に夜逃げをした記憶は残っている。

 彼らの手伝いをしながら流浪した六年後、ようやく引き取り手が見つかった。

 風の噂では、斡旋センター側は、施設を手伝う人間が一人でも少なくなる事が痛手だったのだという。だから六年間も、クロウの引き取り手はあえて探さなかったのだと聞いたが、真偽は定かではない。

 やはりJキャリアの養母は、第六次海洋分断戦争で夫を失い、空間交差現象中には瞬死で子供を失った、孤独な未亡人だった。

 養子制度を届けるのは簡単だった。六年たったとはいえ、無政府同然の中、半ボランティア的な政治団体が、ようやく人口の把握を始めたばかりの時期だったのだ。家族が崩壊していることも珍しくなかったから、届けを出す時に本人たちの意志が明確であると確認できれば、すぐに養母養子の家族として認められていた。

 当時からずっと、この都市国家は現状を乗り切るだけで精一杯だったのだ。

 青空大学なんていう、形ばかりの学校に入学した頃、半径10キロの狭い地域でテレビの放映が復活した。

 臨時政府の発足と都市国家構想が報道され、それを見た人々が都市国家の中核となる三層外壁の工事に着手し、どこにいっても鳴り響くボーリング機械の喧噪の中、クロウは警察機構に初登庁した。

 養母はそれまでもそれからも、ずっと臨時政府の作った大衆食堂で働いていた。

 天候や土地の性質も変わってしまい、生態系も激変した以上、後々まで慢性的な食糧不足に陥るのは目に見えていた。

 そんな中、外食産業とウェイトレスは食へのあこがれと共に花形の職業となったし、節約に節約を重ねる食堂の中でも、どうしても生じてしまう様々な賄いと言う名の余り物は、育ち盛りのクロウにとって貴重な栄養となった。

 実際、クロウは高校生になるまで、シチューには肉と野菜が入っているのが当然だとは知らなかったし、生クリームがまんべんなく塗られたケーキなど食べたこともなかった。

 交差現象前にシチューと呼ばれていた品を口にできたのは、養母が政府高官の視察時に余った品を、賄いとしてこっそり持ち帰った時が初めてだったのだ。

 そのおかげだと思うが、クロウは今の職場では食通の若者だと評判なのだ。本物のシチューを見たことのなかったクロウで食通とは、職場の人々の食事がどれだけ偏っているかという証拠でもある。

 そんな時代の食堂での勤務だ。いつだって腹をすかせて殺気だった人々が集まって来てはごった返す場所。あの頃の養母は、いつだって帰ってくるとクタクタと座り込み、そのまま眠りこけてしまっていたものだ。

 それでも、次に何が起こるのかと怯え、そして理不尽な世界に対する怒りで満ちていた世間も、ゆっくりと現実を認識しはじめる。

 落ち着きを取り戻しだした世間では、交差現象の原因として眉唾な憶測が飛び交っていた。曰く、大量殺戮兵器兵器の暴走だの、どこぞの大国が新兵器の開発実験に失敗しただの。二つの兵器の同時起動による歪みだの。

 成人したクロウには、興味を抱けない話であった。

 そのかわり、空き巣や強盗殺人、ひったくりや詐欺には敏感だった。犯罪者を追いかけて処罰することに関しては人一倍過激になり、躊躇することもなかった。

 男手の少ない施設で育ち、そして女一人、子一人の家庭として育ったクロウは、いつだって、いざとなった時に自分たちが巻き込まれるだろう犯罪をおそれていたし、憎んでもいたのだ。

 こんなご時世だから許してやれだの許してくれだの懇願されたこともあるが、こんなご時世だからこそ、庶民の中に蔓延してしまいかねない犯罪を、見逃すわけにはいかなかったのだ。自分たちの為にも。

 そんなクロウに目をかけてくれた上司が、見合い話を持ってきた。それが妻だ。

 妻はC4キャリアで、Jキャリアのクロウたちの生活習慣にはなじみにくかったようだ。それでも、仕事でほとんど家に帰らないクロウと、食堂の賄いを調達してくる養母の為、家の事は一手に引き受けてくれた。普段、クロウたちが家に居着かなかったからこそ、多少の習慣の違いでも耐えられたのかもしれない。

 三者三様でバラバラだったが、少なくともお金と食料にはことかかないこの生活を、最終的に彼女は、安心できる場であると受け止めたらしい。

 一年ほど三人で生活した後、ちょうど第三外壁が完成して、都市国家宣言がなされた年に、二人は婚姻届を提出した。




 水色の夕焼け空の中。

 クロウは、途中の小さな郵便局に立ち寄り、速達書留でジャケットにつっこんでいた封筒を出した。宛先は妻の実家だ。

 離婚届を入れておいた。手紙には、受け取り次第、役所に提出するようにとメモしておいた。この先、クロウが何に巻き込まれるかわからないとも。

 だから、先に逃げておけと。

 自分には、それぐらいしかしてやれない、と。

 君のせいじゃないのに、すまなかったと。




 きっかけは、養母だった。




 養母が、齢七十を過ぎた年、呆けた。

 まず、耳が遠くなった。六十五まで仕事に就いていた人間とは思えないほど、ぼんやりとした顔で一日を過ごすことが多くなった。一日中、同じ場所から動かなかったり、かと思えば一日中町の中を散歩していて、ズボンを土埃だらけにして帰ってきたり。

 妻が母の様子が変だと告げて来た時、クロウは当時多発していた強盗事件の捜査に追われていて、軽く聞き流してしまったと覚えている。仕事が無くなってやることがなくなったから、何かやることを探してるんじゃないか――そんな風に返事をしたと思う。

 妻の反論はこうだ。

 仕事をやめたのは五年も前だし、近所のお友達と買い物に行ったり、カルチャースクールで楽しんだりしていた。定期的な健康診断にもきちんと通ってたし、楽しみにしているテレビ番組もスポーツ観戦の趣味もあった。

 なのに急に、何にも興味がなくなっちゃったみたい。

 心配しすぎだと思いつつ、妻には引き続き養母の面倒を良く観るようにと言い置いてから、仕事へ出かける――それがクロウの毎朝の日課になった。


 そうこうしているうちに、養母には介護パンツが必要になり、そのまま崩れていくように、遠い目で居間に腰を落としていることが多くなった。たまに散歩をしているかと思えば、帰る家が見つからなくなったと泣きながら交番に訴え、保護されることも多くなった。

 明るいうちなら良かったが、徐々に夜にもいなくなるようになり、クロウと妻は、深夜に何度も、保護された養母を引き取りに出かけるようになった。玄関に鍵を閉めてもきちんとはずして出て行ってしまい、何度も頭を抱えたものだ。

 そして養母を引き取りに行く間――いや、捜査のために夜の街を行くたびに驚かされる光景を、イヤでも、何度でも目にするようになった。

 徘徊している老人の姿とその数だ。

 路上を歩む老人の姿は道々途切れることがなかったのだ。それは、朝の出勤風景にそっくりで、老人達は仕事に行くかのように歩み続けていた。


 交差現象の影響なのか、子供の数は激減していた。子供が生まれないといったほうが正しいかもしれない。高価な不妊治療を続けても子供が生まれない家族は多く、現在の子供の七割が体外受精で生まれたという眉唾な情報まで流れている。

 クロウ達にも子供ができなかったが、そんな世間の空気もあって、不妊であるのが当然なんだと思っていた。空間交差なんてデタラメな災害を潜り抜けたのだから、体に多少の不具合が起こっても仕方がないと。

 そんな社会の中だ。高齢者の人口が若者の三倍となって久しい。


 夜間の徘徊老人については福祉省も頭を抱えていて、大勢の職員が巡回している姿も目に付いた。

 彼らは老人達を強制的に帰宅させる権限を持っていたが、基本的には老人の自由に任せているように見受けられた。泣き出したり喚きだしたりした時にはすぐに駆けつけ、近くの交番にまで連れて行くようだ。交番も心得たもので、徘徊常習者用の連絡先リストが備え付けてあった。


 老人の増加、そして食糧問題と、社会生活全般の保障を行う部署として設立されたはずの現行政府福祉省は、相互の連携をはかるべく吸収合併を繰り返し、今や基盤となったかつての厚生省などとは全く違った組織へと変貌していた。

 そして、彼らの権限は、徘徊老人が巻き込まれた痛ましい事件が増えるたびに拡大する一方だった。

 機密性の高い部署が配置されている第三外壁のほぼ半分を彼らが占めている事からも、福祉省の抱える組織の大きさがわかるというものだ。

 クロウたちの警察機構は第一外壁であり、防衛省の抱える第四外壁、第五外壁など、あってないような建物であることを考えれば、別格の組織であることは間違いない。

 果てには口の悪いものなどは「影の内閣府」と呼んだりする始末。

 クロウも福祉省の拡大に疑問を抱かないわけではなかったが、これだけの夜間徘徊老人を管理、保護しなければならないとなれば、仕方がないと考え直したりもした。



 保護されるたびに、養母はさめざめと泣きながら「帰りたい」と繰り返していた。

 「これから帰るんだから、泣くなよ」と声をかけたが、養母は耳を押さえて繰り返した。

 帰りたい。みんな待ってるから、帰りたい。

 耳が痛いのかと尋ねると、そうではないという。

 何か聞こえるのかというと、違うと思うという。

 ただ、呼ばれているのだという。

 そして、子供の頃に聞いたサイレンを思い出すのだと。子供の頃、夕方になると時報のサイレンがなるから、それを合図にみんなで帰るんだと。

 その場所に帰りたいだけなのだと。

 時報のサイレンについては、C4キャリアの妻に説明しなければならなかった。

 Jキャリアのほとんどの地域では、戦前と戦時中、家族がバラバラになって被災する危険を避ける為、朝と夕の二回、帰宅して家族の無事を確認するよう促すサイレンが鳴ったのだ。

 クロウが子供の頃にもあったから、養母の子供の頃のみならず、成人してからも、サイレンとは帰宅を促す合図として記憶に残っている習慣なのだろう。

 支離滅裂でオカルトみたいだと妻は気味悪がったが、クロウは痴呆の一症状だろうから大目に見るようにと諭し続けた。

 そもそも、空間交差現象自体がオカルトじゃないかと笑ったが、妻は大げさに怖がっていた。

 養母はその後も、何度も保護され続け、クロウは強盗事件が終わると連続通り魔の事件に取り掛かり、その間にもたくさんの徘徊老人の姿を見るようになった。

 連続通り魔の犠牲者の半数は老人だったが、クロウはそれも仕方がないなと内心納得したものだ。あれだけ大量の老人がうろうろしていたのでは、どうしても被害者件数に対する割合も高くなるというものだ。そもそも、通り魔のような、無差別に人を害したいと考えている人間にとって、呆けた徘徊老人は格好の獲物だったに違いないと。

 そして、養母の監視を厳しくするよう、妻に再度確認したものだ。

 だが、クロウの予想に反して、通り魔犯人は、同じ徘徊老人だった。

 老人は、耳を押さえてボロボロと泣きながら訴えたものだ。

「自分は交差現象で家族を失った。その家族に会いたい。会わせてやるって聞こえる。でも、会ってしまうのが怖い。今の自分と、昔の家族との違いが怖い。怖い怖いと思ってるのに、会いたいだろうって聞こえる。みんな聞こえているのに、ぼんやり歩ってやがるのが、気にくわなかった。オレがこんなに怖いと思ってるのに、みんな、歩いているのが当然って顔をしてやがるのが、気に入らなかったんだ」

 だから、自分の恐怖と彼らの歩みを止める為に、刃物を振るったのだと。

 彼の姿を見て、クロウは養母の言葉と耳を押さえる仕草を思い出した。

 帰りたいと泣いた養母を。

 その夜だった。養母が姿を消したのは。




 福祉省に問い合わせ、警察機構にも心当たりはないかと捜索願を出し、一週間後。

 クロウは初めて、妻と大喧嘩をした。

 通り魔事件があったから、きちんと見ておくようにいったじゃないかとクロウが怒鳴れば、妻は毎日仕事仕事と居なくなってしまうクロウを咎めた。


 お義母さんが昼間に粗相すれば、それだけで家事の時間がなくなる。泣いていれば慰めてやり、それだけで何もする時間がなくなる。昼には昼で歩き出そうとするのを止めて、椅子に座らせるだけで一苦労。夜には徘徊するんじゃないかとベッドの傍で毛布をかぶって備えていても、昼の疲れで眠った隙に出て行ってしまう。歩かない日があっても、夜中におしめを取り替えてくれと起こされ、ろくに眠れない。

 あなたはそれを相談しても、ヘルパーを雇うだけで何もしてくれなかったじゃないか。そのヘルパーだって、慢性的な若手の人材不足で、買い物に行く時間ぐらいしか居ついてくれない。

 お義母さんは家族だからと一生懸命にお世話してたけど、子供のあなたの方が、お義母さんに何もしてあげていないじゃないか。形だけで親子になった、その場しのぎの親子だったから、家族の危機にも本気で取り合わなかったんでしょう。それなのに私だけを責めるのはお門違いだ。


 それを聞いた時、はじめてクロウは妻を殴った。

 売り言葉に買い言葉の喧嘩で、妻にもクロウにも余裕がなかった。長く口論を続けたはずだが、最終的に何を話していたのか覚えていない。それほどまでに疲弊するほど、二人はずっと話し続けた。結論らしい結論も出ないまま、疲れだけが残った最初で最後の大喧嘩だった。

 翌朝、妻の姿はどこにもなかった。

 実家からの速達で、しばらくは声も聞きたくないし、一人で考えたいからそっとしておいて欲しいとの連絡があった。

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