14.静かなお正月


 2人きりの小さな家にもお正月はやってきます。通い婆はお嬢さまのお世話だけですから、それ以外はは私一人で何もかもやらなくてはなりません。

 大掃除を済ませ、お正月の準備で忙しいお屋敷から小さなお重に詰めたお節とお正月飾りを持ち帰りました。それを飾り付けてお正月を迎える準備は終わりです。


 怠そうに寝たり起きたりを繰り返しているお嬢さまは、少しおかげんがよろしいらしく、温め直した温泉に浸かってから眠りにつかれました。


 年明けの朝は雪が静かに降り、南天の実が薄化粧をしておりました。

 火鉢の炭を掻き起してやかんをかけます。雨戸をあけていたらお嬢さまが目を覚ましました。


「お早うございます、お嬢さま。明けましておめでとうございます」

「めでたくもないわ」


 元日は通い婆も休みですので、私がお嬢さまのお世話をします。桶に用意したぬるま湯で顔を洗うお嬢さまに手ぬぐいを渡し、言いつけ通りにたんすの一番下を開けました。中にはご結婚前のお正月に着ていた振袖がはいっています。


「それを着せてちょうだい」

「はい」


 帯と長じゅばん、半襟はこれ、帯紐はこれと言われた通りに準備をし、半襟を縫い付けてから、ふらりと立ち上がったお嬢さまに着つけていきます。

 桃色のつぼみを乗せた白い柔らかな膨らみを隠して着せ付け、美しいなめらかな肌をとろける絹の布で包み込んで飾り付けました。

 血の筋が透き通る足の甲に口付けをして足袋たびにしまい床にそっとおろしましたら、指を踏みつけられました。


「口をつけていいなんて言ってないわよ」

「申し訳ございません」


 お嬢さまの冷たい声に冷や汗が流れます。お嬢さまのお世話をするうち、いつの間にか近しくなったような勘違いをしていました。天上にいるお嬢さまに私など勝手な振る舞いをしていいわけがありません。

 私は自分を責め、床に額をつけて必死に許しを乞いました。


「申し訳ございません。お許しください」

「帯紐を渡しなさい」


 頭を下げて差し出した帯紐を掴んだお嬢さまは、ピシリピシリと私を打ち据えました。帯紐があたるたびに走る痺れが、私の体を喜びで満たします。主人へ侮辱的な振る舞いをした私に、まだ罰を与えていただけるのです。見捨てられずにすむ幸せを喜びと言わず、なんと言いましょう。


「顔を上げなさい」

「はい」


 顔を上げた私の頬をビシリと打ってから腕を下げました。


「運んでちょうだい」

「はい」


 座敷の火鉢のそばに置いた座布団の上にお嬢さまを降ろしました。火鉢の上で餅を焼いているあいだに、お節とお雑煮の準備をします。

 お膳に並べたお節から、お嬢さまは黒豆を一つ口へ運びました。雪見障子からふわりと降る綿雪が見え、部屋の中にはやかんからふき出す湯気の音だけがありました。


「静かね」


 お屋敷にいたころは何人もお客さまがいらしたり、獅子舞いやら角付けなんかがやってきたりしたものです。こんな静かなお正月は初めてで寂しく思われるのかもしれません。


「新聞を読みましょうか?」

「ええ」


 小さな文字を追うのが疲れるようになったお嬢さまの代わりに、読み上げるのも私の役目です。お屋敷から持ってきた新聞を手に取って、露西亜ロシアに気勢を上げる勇ましい記事を読み上げていると、お嬢さまがぽつりと呟きました。


「また戦争をするのかしら」

「わかりません」

「おまえにわかるわけないでしょ。カブラ、兵役はどうだったの?」

「頭のできがよくありませんので、ついていくので精一杯でした」

「ふふふ、不出来なおまえじゃ足手まといになるもの、兵隊になんかなれっこないわ」

「そうかもしれません」


 私はお嬢さまの下男ですので、兵隊にはなれません。そう思いを込めてお嬢さまを見つめました。お嬢さまは目を細め、鼻で笑うと大きなため息をつきました。


「疲れたわ。織物の帯は重いわね。脱がせてちょうだい」

「はい。お部屋までお運びしますか?」

「当たり前でしょ」


 私を睨みつける美しいお嬢さまを抱き上げて、お嬢さまのお部屋まで運びました。

 先に布団を敷いてから、座ったまま動かないお嬢さまの帯締めをほどきます。ほどいた帯やら脱いだ振袖は衣桁いこうへかけました。寝間着を肩に掛けて肌を見せないように下着をほどき、前を合わせて紐で締めます。珊瑚のかんざしをはずすと長い黒髪がばさりと肩に流れ落ちました。

 無言で突き出された足を手に持ち、こはぜを外して足袋を脱がせます。もう片方も脱がせたら、足の裏が顔に押し付けられました。


「口をつけたいんでしょう? そうね、犬になりなさい」


 意地悪く笑うお嬢さまに私の卑しさを見透かされ、恥ずかしさで顔が熱くなりましたが、四つん這いになり『わん』と口から出た声は期待に掠れておりました。

 布団の上に置かれた青い血の筋が浮かぶ白い足に顔を近付け、冷えた足先からほんのり香る汗の匂いを吸い込み、小さな小指の小さな爪に口付けました。



 ***



 松の内が過ぎてしばらく、お屋敷へ行ったおり手紙を渡されました。それは、予備役の召集令状でした。


 あまりのことに目の前が暗く陰りました。なぜ私なのでしょう、お嬢さまを一人にできるわけがないのに。しかし、令状に従わなければお嬢さまに迷惑がかかります。

 お嬢さまはなんと思われるでしょうか。私以外の誰が私以上にお嬢さまを大切にしてくれるでしょうか。前の旦那さまが亡くなった今、私以外にお嬢さまが気を安んじる相手がいるでしょうか。うぬぼれかもしれません。けれど、八つの頃から過ごしてきた年月の長さは、お嬢さまと私のあいだに流れる信頼の証なのです。


 身を引き裂かれるような思いでお嬢さまに告げると、怒りを含んだ声でヒタリと見据えられました。


「庭に出なさい」

「はい」


 言いつけ通り庭に出て、雪の上でひざまずきました。お嬢さまは寝間着のまま縁側に立って私を睨みます。

 冷たさがだんだんと痛みに変わってきますが、そんなことはどうでもいいのです。お嬢さまは寝間着のまま、かいまきも着ずに寒さに身をさらすなど、とんでもありません。


「お嬢さま、かいまきを」

「うるさいわね。いなくなるくせに」

「戻ってきます。風邪を引いてしまいますからどうか」

「おまえに関係ないでしょう」


 そう言うと裸足のまま庭に降り、手ですくった雪を球にして私へぶつけました。


「お嬢さま、どうか温かく」

「黙りなさい」


 次々に投げつけられる雪玉の冷たさを、お嬢さまがその手で味わっていると思うと気が気じゃありません。


「ゴホッ、――ッ」


 咳と一緒に真っ赤な血を吐き散らしたお嬢さまの体がよろめきました。私は慌てて抱き止め、火鉢のそばへ運びます。濡れた足と血を拭いてから布団へ降ろし、ぐったりしているお嬢さまを掻い巻きにくるみました。湯たんぽを作ろうと立ち上がる私の足に、ヒヤリと冷たい手が触れます。


「ゴホッ、……カブラ、こっちよ」

「湯たんぽを」

「おまえのほうが暖かいわ。ッ、ケホッ、……早く」

「はい」


 私は濡れた着物を脱いでもう一枚重ねた布団の中に入りました。冷え切って震える足先を太ももに挟み、か細い指を手に取って胸の上に当てました。早く温まるようにお嬢さまの足をさすります。

 しだいに震えがおさまり、ホッとした私の胸に薄い爪が食い込みました。


「いくのね」

「申し訳ありません。きっと戻ります」

「いいわ。……もう指をもらったもの、用無しよ。……ケホッ、ゴホッ」


 咳が治まらないお嬢さまの首を支えて湯呑を口に当てると、こくりと水を飲んだ喉が小さく動きました。

 私を見つめる目は下がらない熱のせいで潤み、吸い込まれてしまいそうです。


「おまえ、労咳を受け取ってないでしょう」

「いただきたいと思っているのですが」

「きちんと受け取りなさい」


 そういって私の頬を両手で挟みますので、今度こそしっかり受け取ろうと血の味がする舌に吸いつきました。



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