12.蛇に飲み込まれたのです


 小さな家に越してから、お嬢さまはどことなく静かな風情を漂わせておりました。

 白髪の通い婆がお嬢さまの髪を結ったり着物を洗濯したり、身の回りのお世話をします。朝に顔を出して昼餉ひるげを下げてから帰り、あとはすべてお嬢さまと私の二人きりです。私は掃除をして通い婆が用意した夕餉ゆうげを運び、風呂を焚いて寝付いたときには食べさせて差し上げたりもしました。お嬢さまと二人で家に住み、お嬢さまのためだけに働くことに喜びを感じますが、家族と離れてしまったお嬢さまの寂しさを思うと自分の喜びが後ろめたくて胸が重くなります。そのせいで、私はお嬢さまの顔を見られないような気持になり、罪滅ぼしとお嬢さまへの少しでものなぐさめに庭の草花を増やして自分は目に入らないようすごしておりました。


 その日は体の調子がよろしいのか、小さな庭を歩いて金木犀の葉をむしっておられます。伸びたばかりの細い木の枝を折って、片隅で庭木の手入れをしていた私を手招きますので、急いでお嬢さまの足下にひざまずきました。


「カブラ、私を避けているわね」

「いいえ、そのような」

「嘘はやめなさい。労咳が恐いの?」

「いいえ」

「わけを言いなさい」


 頭を下げる私の肩を木の枝でぶつお嬢さまの力が、初めて会った八つの頃より弱いのがとても悲しく思われましたし、私が何を思っているかなどおかまいなしだったお嬢さまがわけを聞くことも、心まで弱ってしまわれたようで寂しく私の胸をふさぎました。


「お嬢さまのためだけに働けることを嬉しく思っております」

「私に嘘をついていいと思っているの?」

「嘘ではございません。お嬢さまが苦しんでおられるのに嬉しく思ってしまい、申し訳なくて合わせる顔がないのです」


 会いに来られないご家族の代わりにはとうていなれませんが、お嬢さまと一緒にいられる喜びに嘘いつわりがないことを必死に伝えました。


「……ふふふ、カブラなんだから私に見せられる顔など最初からないでしょう」

「はい」


 久しぶりに聞くお嬢さまの笑い声はかすれていましたが、笑っていただけたことがどれほど嬉しいか。涙がにじんでしまうほどでした。



 私は毎日、お屋敷へ出向きます。お屋敷でまとめて買った食物や、お嬢さまの体に少しでもよいように温泉水をわけてもらい取り寄せている本や新聞を受け取り、お嬢さまの様子を伝えるほか、こまごました用事をすませるのです。

 この日はずっと気になっていた、越してから一度も婿さまと坊ちゃんがお嬢さまに会いに来ないわけを、いつも食物をやりとりしている女中に聞きました。


「……坊ちゃん、二つでしょ? 育ての母が必要だってんで、旦那様の縁者の娘さんをね、家に」

「お嬢さまがまだいらっしゃるのに?」

「労咳だからねぇ。こちらに戻られるか分からないし、坊ちゃんの面倒を見てくれる人が欲しいって話だけど、前から関係してたんじゃないかって。だって、相手決めるにしたって早すぎるし、すぐにいい仲になったらしいから」


 私はもう言葉が出ませんでした。小さな家の中、お一人で寝ているお嬢さまのことを思うと胸が痛んでどうにもできないのです。

 お屋敷を出てススキがゆれる道を歩きながら、私だけは最後までお嬢さまのそばにいて、今まで以上にお嬢さまのことだけ考えようと心に決めました。



 空が高い秋に変わる涼やかな季節もこの家では静かにすぎ、お嬢さまは寝たり起きたりを繰り返しています。

 ある日、夕餉を下げにいくとお膳の前に座ったお嬢さまが咳をしました。なかなか止まらない咳にお嬢さまの体がかしいでしまい、咄嗟に受け止めます。口を押さえた指の間から赤い血がにじみ出たので急いで着物の袖で押さえました。

 咳が落ち着いたお嬢さまの手と口を手ぬぐいで拭っていると、熱のせいかだるそうに体を預けたまま静かに問いかけてきます。


「うつるわよ。怖くないの?」

「はい」

「私が恐ろしいと言ってたじゃないの」

「お嬢さまは怖ろしいですが、いただきものは嬉しく思います」

「……ふふふ、死病でも?」

「お嬢さまからいただくものはすべて私の喜びです」

「ふふ、うふふ、馬鹿なカブラ。じゃああげるわ」


 色の悪くなった唇のはしを上げて意地悪にほほえむ顔は、いぜんにも増して怖ろしく見え背中がゾクリと震えました。私の首に両手をかけて頭を押さえるお嬢さまが案外力強くて驚いておりますと、唇に唇が重なりました。なにごとか分からず呆けた私の口の中に侵入したうごめくものから血の味が広がるので、それでこれはお嬢さまの舌なのだと気づきます。動かない頭に、先程『あげるわ』と言ったお嬢さまの声が繰り返しひびき、あぁこれはお嬢さまに与えられているのだとわかりました。それならば、私の臓ふに届くまで差し出されたものをすべていただかなくてはならないと、血にまみれたお嬢さまの舌に吸い付きました。


 お嬢さまの手が私の顔を押し退けたときようやく我に返り、お嬢さまに対してなんということをしてしまったのか、怖れが湧き上がり冷や汗が流れ始めました。


「も、申し訳ございません」

「ちゃんと受け取ったの?」

「……はい、臓ふへ届くまで」


 なんでもないことのように微笑まれるので、私の行いは問題なかったのだという安堵とともに、ヌルリとした舌の感触を思い出し顔が熱くなりました。それに、体を預けているお嬢さまを支えるために背中に腕をまわしているのですが、こうしていますと抱き合っているようで、何か血が沸き立つようなそんな気持ちになってしまいます。痩せてしまわれた体はきゃしゃで儚いのに、すぐそばに見えるお嬢さまの目は怖ろしいほど鋭く、行燈あんどんの灯りがうつって夏の油照りのように光っていました。

 魂を吸い取られたようにボウとして見つめる私の胸に置かれたお嬢さまの片手が動き、股引の中に入り込んで私の浅ましい膨らみに触れました。卑しい気持ちがお嬢さまに知られてしまい、酷く狼狽ろうばいして体を離そうとする私にかまわずお嬢さまの熱で火照った指先が動きます。


「お許しください。お嬢さまが汚れてしまいます」

「カブラごときで私が汚れるわけないでしょう。馬鹿ねぇ」


 私を見つめるお嬢さまのほほえみは痩せて少しこけた頬のせいか、陰のある妖しい美しさでした。汗ばんでほんのり赤く上気した肌が艶めかしく、熱のせいで潤むギラギラした目に射貫かれた私は何かを考えることも動くこともできず、蛇に巻き付かれた獲物のように、ただただ見つめ返すことしかできません。怯えおびえといじましい期待、不安と喜びに混乱する私を、お嬢さまの熱い体が大口を開けた蛇のように飲み込みました。



 そのあとのことはなんと言えばいいのでしょうか。私はただお嬢さまの言いつけに忠実に必死で動きました。私を見据える、熱で底光りする目にゾクゾクしながら、お嬢さまのほほえみ、それは私の喜びでしたからそのためにただ一心不乱にことをなしたのです。

 終わってみるとお嬢さまの下がらない熱がうつったように、なにか夢うつつのできごとのように思えましたが、お嬢さまの体を拭いた手ぬぐいから私の残滓ざんしが匂い、ああ本当のことなのだと涙が流れました。


 それからもたびたび労咳をいただきましたが、お嬢さまの言った通り私ごときで汚れるはずもなく、小春日和の日差しに彩られた横顔は小さな庭に植えられた椿のように、ますます美しく可憐に咲き誇りました。



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