11.会えずに過ぎた年月の重み
兵役についてはこれといって語るものがありません。頭のできがあまりよくありませんから、落ちこぼれないよう真面目に教えを受けました。
意地の悪い上官に痣のことを笑われましたが、そんなことで悲しくなっていたのは子供の頃の話です。痣が面白いと言ったお嬢さまに目をかけていただいたのですから、あざけりはかえってお嬢さまを思い出すよすがになりました。誰がなんと言おうと私にとっては大切なものですし、図々しいかもしれませんがお嬢さまと私をつなぐものであると思っているのです。
上官に殴られることもありましたがなんともつまらなく、そんなときは花びらのようなお嬢さまの白い手にぶたれたことを思い出して自分を慰めました。
休みの日は町へ出て、お嬢さまへのお土産を探して歩き回ります。あれが良いかこれが良いかとあれこれ思案していると、楽しくて時のたつのも忘れます。それだけが私の楽しみでした。
兵役がようやく終わると、すぐに故郷へ戻りました。
お嬢さまの言いつけ通り、お屋敷へむかいます。私が徴兵されてからも町に温泉宿が増えたようでますます賑やかになっていました。お嬢さまの実家の温泉宿もさぞかしお忙しいだろうと、気にかかるのはお嬢さまのことばかりです。
客馬車を横目に歩いてのち、懐かしいお屋敷の勝手口から声をかけると、知ってる女中が顔を出し驚きに声を上げました。
「あれまあ、徴兵から戻ってきたの」
「はい、お久しぶりです。いとまごいのとき仕事がなければこちらへくるよう、奥さまに言いつかっておりましたのでうかがいました」
「はあ、まあ、そうかい。でもあれからずいぶんと変ってねぇ……」
むずかしい顔になった女中が小声で教えてくれました。
お嬢さまが身ごもったけれど流れてしまい、そのせいで子供を望めなくなったために養子を迎えたこと、先代の旦那さまが亡くなられたこと、ようやく元気になったと思ったお嬢さまが血を吐いて倒れ、医者に
あまりのできごとに、私はしばらく口がきけませんでした。
「そうそう、養子に迎えた坊ちゃんがまだ二つだから労咳をうつさないようにって、町外れにご隠居が住んでた家があったろ? そこに奥さまをって話が出ててさ」
生まれ育った家からお嬢さまを追い出そうというのでしょうか。婿さまのなさりようにやり切れない怒りが湧き、お嬢さまへの心配で胸が痛みます。
「労咳の奥さまんとこで働きたいやつなんていなくてねぇ。それでいいなら、雇ってもらえるかもしれないけど。聞いてみようか?」
「はい、ぜひともお願いします」
「あんたも、気の毒だねえ。痣のせいで仕事が見つかんないんだろ? 聞いてくるからちょっと待っておいで」
女中がせかせかと台所に戻る後ろ姿を、勝手口からぼんやりと眺めました。
お嬢さま、お嬢さまは今、どうされているのでしょうか。何をお考えになっているのでしょうか。
お嬢さまのことですから、体を壊されても前を見据えていたでしょう。養子になった坊ちゃんのお世話もしっかりしようと思っていたに違いありません。それなのに病に倒れ、家を出されるなど胸中はいかばかりでしょう。
私はただひたすら、お嬢さまのお力になりたいと願いました。
しばらくすると勝手口に突っ立っていた私のところへ女中頭がやってきて、縁側に連れていかれました。
春のあたたかい日差しが差し込む縁側には以前より痩せて、それでも美しさは損なわれることなく、いいえ、より深みを増した美しいお嬢さまが座っておりました。
寝付かれていたのか、結い上げずに肩に流れた髪がお嬢さまの白い頬を縁取って、神々しささえ感じます。
私は以前のとおり、ひざまずいて頭を下げました。
「お久しぶりでございます」
「相変わらず面白い顔だわ。話は聞いてるでしょう? あちらの家に移るから今から行って掃除しておいて。暮らすのに足りないものは言いなさい」
「はい」
「おまえの布団やなんかは持って行きなさい。私のものはあとで運ばせるわ」
この家の奥さまとして当たり前のように差配するお嬢さまに、会えずに過ぎた年月を感じ、いくらかの寂しさをおぼえました。
「カブラ」
「はい」
「
「はい」
それでもやはり、お嬢さまはお嬢さまなのだと安堵しました。
咳をして立ち上がったお嬢さまを見送ってから、女中頭と相談して今すぐ運ぶ荷物を大八車に積み込みました。
手伝いの女中と一緒に町外れにある家まで大八車を引き、お嬢さまに必要な細々したものを女中に頼み、私は庭や井戸をみてまわりました。
小さな家ですが庭はなかなかのものです。先々代のご隠居は風流な方だったのかもしれません。お花が好きなお嬢さまをお慰めできる庭にしようと、ひそかな決意をしました。
庭の納屋には寝る場所がないため台所の隅の使用人部屋へ布団を運び、女中と大八車をお屋敷へ帰してから、急いで戻り掃除をしました。
翌々日、お嬢さまを迎えに上がると婿さまに呼ばれました。庭で膝をついて挨拶する私に通りいっぺんの声をかけ、お嬢さまをよろしくと頼まれます。
お嬢さまを家から追い出す婿さまに胸の中がグラグラ煮えましたが、私を雇ってくれたお嬢さまにご迷惑をかけるわけにはいきません。ただ頭を下げてありきたりな返事をしました。
玄関に迎えに来た人力車にお嬢さまが乗り込みます。
綺麗に髪を結いあげて紅を差した口のはしを上げ、出かける挨拶するお嬢さまは凛とした力強い美しさです。婿さまは真面目くさった顔で、しっかり療養するようになどと言いましたが、後ろめたいのか落ち着きなく咳ばらいをしていました。
お嬢さまの荷物と必要な道具を大八車に乗せ、人力車の後ろについて隠居の小さな家まで歩きます。運ぶのを手伝った下男は大八車を引いて帰り、お嬢さまと私だけが小さな家に残されました。明日からは通いの婆がきてお嬢さまのお世話をしたり食事を作ってくれるとのことでした。
今日は持たされた弁当が晩の食事になります。七輪にやかんをかけて湯を沸かし、お茶を入れました。
庭を見ながら食事をするお嬢さまを盗み見ます。箸を持つ白い手、少し開けた口に青菜が入り小さくあごが動きました。初めて見るお嬢さまの食事風景はとても上品で、一つ一つの動作すべてがなめらかに美しく動きます。
「庭が――、どんな花が咲くかしら」
「まだすべて見ていませんが、金木犀と椿が植えてありました」
「そう」
「見たいものがあれば植木屋から取り寄せます」
「おまえは庭いじりが好きよね」
「はい」
「おまえのやりたいようにやりなさい。お金くらい私の好きに使うわ。もうそれしか残っていないもの」
「お嬢さまのお庭ですから、お嬢さまの」
「私の本当の望みが叶ったことなど、一度もないわ」
ぽつりともらした力ない言葉にうろたえました。私の知るお嬢さまはいつだって輝いていて、すべてを手にしているように見えていましたから。
でも、思い返してみるとそうでした。許嫁も結婚も嫌がっていましたが、結局することになりました。高等学校へも行けませんでした。私の知らない、諦めたことが山のようにあるのかもしれません。
何も言えずに焦る私を見て、お嬢さまがクスリと笑いました。
「でも今回は、ふふ。最後の最後にやっと叶うなんてね」
なんのことやらわからない私は、やはり何も言えないままです。
「布団を敷いてちょうだい」
「はい」
お嬢さまの部屋に布団を敷き、就寝の挨拶をしてふすまを閉めました。片づけをしてから私も横になります。
一つ屋根の下にお嬢さまがいるのです。可憐な唇から寝息を立てて眠っているのかと思うと、なにやら気持ちが騒がしくなり寝付くまでしばらくかかりました。
大八車 …… 二輪をつけた板の前方にロ型の持ち手を付けた形状のもの。リヤカーは大八車の発展形。
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