9.白い足の小指


「あんなすまし顔、おもしろくもなんともないわ。うんざりするったら」


 許嫁の方とお食事をするために旦那さまと昼前に出掛けられたお嬢さまが戻り、私が丹精していた芍薬の花びらをむしりながら、そうおっしゃいました。

 お嬢さまのように今が盛りと美しく花開いた薄桃色の花びらが、白い指のあいだからこぼれ落ちていく幻想的な光景に見惚れてしまい、手折った芍薬の花でぶたれて我に返ります。


「何をぼうっとしているの?」


 美しいお嬢さまが持つ大輪の花でぶたれて、胸の内がザワついた自分の恥ずかしさに顔を上げることができず、地面に額をつけました。


「申し訳ございません。どなたのお話かと考えておりました」

「許嫁に決まっているじゃないの。間抜けね」

「申し訳ございません」


 どれだけお怒りになっても美しさが損なわれないことを不思議に思いながら、お出かけされる際のお嬢さまを思い出しました。珊瑚さんごの飾りがついたかんざしを刺し、桜ねずの振袖をお召しになって、唇を薄紅に染めた姿は一幅いっぷくの絵のようでした。物陰からのぞいただけの私でさえため息をつくほどの美しさでしたから、許嫁の方も見惚れるあまり言葉が出てこなかったのではないでしょうか。祝言を上げる十八の年まであと二年なのに、許嫁の方にそのようなもの言いをされると心配になってしまいます。


「結婚なんてしたくもない。私がいないと潰れそうな湯屋の番頭で終わるくせに、したり顔でよくも」


 そのあとも耳を塞いだほうがいいのかと思えるようなことを言いながら、花びらをむしって撒き散らし一株すべてを丸坊主にして母屋に戻られました。地面には桃色の花びらが雲海のように敷かれ、柔らかな丸みが踏みしめられて土に汚れておりました。


 許嫁とお会いしたあとのお嬢さまは、いつも不機嫌が長引きます。私だけではなく女中たちにも八つ当たりされるため、よく愚痴を聞かされました。


「まったくまいるわよ。まあ、あんな噂があっちゃ面白くないのもわかるけどねぇ」

「どんな噂があるんですか?」

「あんた聞いたことないの? 許嫁に好い人がいるって。十も離れてるからね、そういう相手がいても不思議じゃないけどさぁ」

「そうなんですか」


 許嫁が自分以外の相手に心を寄せているなど、とても辛い話でしょう。むしられた柔らかな花びらが、お嬢さまの心持ちのような気がして悲しくなります。

 旦那さまの親族で跡目になる方ですから、お嬢さまがいくら嫌がっても結婚は進むのでしょう。お嬢さまを真綿で包むように大切にしてくれるお相手をと願いますが、叶わないのならせめて祝言を上げる前に関係を絶ち、心を入れ替えていただけたらと祈らずにはいられません。


「でもあんな我儘わがままじゃあねぇ、他の相手に目がいってもしかたないんじゃないかい?」

「そうよね~。東京の女学校の話だって、何しに行きたいんだかわかったもんじゃないわ~」

「あのあとも酷かったわねぇ」


 ぺちゃくちゃ好き勝手にしゃべる女中たちに、お嬢さまが怒るのは他にしようがないからだと言いたくてたまりませんでした。


 体が弱いからアレコレ好きなように動けませんし、忙しい旦那さまとゆっくり会う時間もありません。それなのに寂しがったり悲しんだりしたところを見たことがありません。怒りっぽいのはお嬢さまの気性もあるかもしれませんが、旦那さまに気づいてほしいからなのだとも思います。

 それに、体が弱くて学校にも満足に通えなかったお嬢さまが、お元気になられてから学校に行きたいと願うのは我儘とは思えません。気持ちをわかってもらえずに、悪いとばかり言われるのはなんて悲しいことでしょう。


 同情などしたら怒られるに決まっておりますが、せめて私だけはお嬢さまが満足するまでお嬢さまのなさりように従おうと、もう一度心に決めたのでした。



 ***



 お嬢さまにかかわることならすべて喜びに変わる私ですが、夏にはことさら心おどる勤めがありました。

 暑い夏の昼下がり、女中から言いつけられた私は喜びをひた隠し、いそいそと準備します。庭に生えている青い実をつけた柚子の木陰に腰掛けを、その足元にタライを置きまして、井戸から汲んだ夏でも冷たい水をそこへあけます。そうすると、素足に草履ぞうりをひっかけたお嬢さまがやってきて、腰掛けに座り水の中へ両足をひたすのです。

 ぬらさぬよう少したくし上げた麻の着物の裾から見える、ほっそりした白い足。タライの中では柔らかそうな足の指が形よく並んでいます。小指の小さな爪がことさら可愛らしく、ひっそり息づく貝のようでした。


「ヒンヤリするわ」


 嬉しそうなお嬢さまの声で我にかえります。

 とたんにやましい気持ちわきあがり、早鐘を打つ胸をしずめるため目をそらして息を静かにはきました。


「ああ、暑い」


 お嬢さまがうちわを私に寄越しましたので、後ろからゆっくりとあおぎます。汗でしっとりした、たおやかなうなじが匂い立つようで思わずしてしまった深い呼吸、そこにこもる草の青さに混じるものを捜しました。


 足をばたつかせ、水をはね散らかして遊ぶさまはあどけなくも見えますが、濡れている華奢きゃしゃな足が見えるたびに落ち着かない気持ちになります。


「ぬるくなったわ。水を替えて」

「はい」


 ぬるい水を捨てて汲んできた冷たい水をあけるあいだ、目のはしに入るお嬢さまの白い足がまぶしくて顔が火照りました。


「暑いわね」

「はい」

「前へ座りなさい」


 言われた通りお嬢さまのほうを向いて座ります。見上げると、昨年お赤飯を炊いてお祝いしてから艶を増した意地悪いほほえみが私にむけられておりましたので、恥ずかしくなって慌てて俯きました。

 うつむいた目に映る水底の宝物のような白い足がおもむろに動き、私へ水をはねかけました。美しい足から放たれる水が頭から顔から、私を濡らしていきます。


「涼しいでしょう?」

「はい、ありがとうございます」

「あおいでちょうだい」

「はい」


 顔を拭くふりをして、唇についた水を舐めました。白い足から滴った水が、それは甘やかに体すみずみまでをうるおします。

 お嬢さまの隣にひかえてうちわを動かしながら、お嬢さまにいただいた水がいつまでも乾かずにまとわりついていたらと願いました。


「もう戻るわ。カブラ、背中」

「はい」


 この声かけもいつの間にか恒例となりました。

 私はお嬢さまに背を向けて座り、お嬢さまは足を拭く代わりにドンドンと私の背中を踏みつけて水気を取るのです。

 お嬢さまが母屋に戻られたら片づけをして、この幸せな勤めはお終いです。


 片付けが終わらせた私はいそいで庭の隅にある物置小屋の自室へ入り、さわがしい胸の内がおさまるまで幸福を噛みしめるのでした。



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