8.犬になりなさい


 お嬢さまが十三の桃の節句は、清国との戦争に勝ったのどうだのと騒がしい時期でした。お屋敷の中のつとめに始終している私は、女中のおしゃべりや、たまのお使いで行った店先の立ち話から漏れ聞く程度にしか知りません。景気が良くなって物見遊山が増えれば温泉宿もどうのこうの、といった話も私にとってはお嬢さまの幸せにつながるのなら嬉しいというくらいのものです。


 庭の片隅にいる私にも聞こえるほど、今年の節句はことさら明るいおしゃべりが多かったように思いました。

 節句が終わり、雛飾りの入った箱を受け取りに母屋へ行くと女中からまんじゅうを手渡されました。


「お嬢さまの節句にきたお嬢さんが私たちにもってさ。あんたも貰っときな」

「はい、ありがとうございます」


 ずいぶんと気を回してくれるお客さまがいらしたのでしょう。めったに口にできないお菓子をいただいて嬉しさもあるのですが、お嬢さまのお客さまからという部分がなんとなしに気にかかります。お嬢さま以外から何かを与えられ、それを受け取るということに後ろめたさがわきました。お嬢さまと私のあいだに約束などがあるはずもありませんから、一人よがりな話です。


 それでも口に入れられず、受け取った饅頭は手ぬぐいに包んで懐に入れ、箱を蔵へ運びました。

 蔵を開けて箱を運び入れ、きちんと並べていたところ、ふいにお嬢さまに呼ばれました。顔を上げると蔵の入り口にお嬢さまが立たれています。背から入る光で体のふちが彩られたお嬢さまは天人もかくやと美しく、ボウとしてしまった私は細い木の棒でつつかれました。


「なにを呆けた顔をしているの。犬みたいだわ。ブチがマダラに入った犬」

「そうでしょうか」


 このころになりますと、私を気にせずにしゃべるお嬢さまにつられて、へんじができるようになっておりました。

 白い手に持った木の棒は見るからにガサガサしていて、柔らかな肌に傷がつかないかと、自分がぶたれることよりも気にかかります。持ち手をきれいにみがいた棒を作ってさしあげようかと、自分がぶたれるための棒を作るものおかしな話ですが、そのような愚にも付かぬことを考えておりますと、つんとした冷たい目でにらまれました。


「おまえ、何かもらったでしょう?」

「……、お客さまからいただいた、まんじゅうのことでしょうか?」

「そうよ、よこしなさい」


 受け取ってしまった後ろめたさでうつむいたまま、お嬢さまの目の前へ手ぬぐいに乗せたまんじゅうを差し出しました。

 お嬢さまは白い手をつと伸ばしてまんじゅうをにぎると、いきおいよく蔵の外へ放り投げます。


「いやらしいったらしいったらないわ。家にまで入り込むつもりなのかしら。人のうちに足跡つけるまねなんかして」


 振り向いたお嬢さまが、なにがなにやらわからず動けない私を見上げ、形の良いまゆを逆立てて怒ります。


「おもえも、なんでもらうのよ。カブラは私のものなんだから、私が与えるもの以外は断りなさい」

「はい、申し訳ございません」


 あまりのことにおどろき、いつもと同じ返事をしてしまいましたが、私の喜びはいかばかりだったでしょう。私のことをお嬢さまのものだと言ってくださったのです。ピシリと棒でぶたれた痛みも幸せにしびれました。


「そうだわ、カブラおまえ、犬になりなさい。もらった罰よ。ほら、早く」


 突然の命令ですが、私は喜んで四つん這いになりました。私がお嬢さまのものだからこその罰です。お嬢さまに与えられるものは何であれ嬉しく思う私ですから、罰というより褒美と言っていいかもしれません。

 そうであっても罰を喜ぶ心うちが申し訳なく、怖々顔色をうかがいましたらお嬢さまは満足そうにみずみずしい唇のはしを上げました。


「カブラ、鳴くのよ。犬なのでしょう?」

「……わんわん」


 四つん這いになってお嬢さまに見下ろされ、命令通りに犬の鳴きまねをすれば気恥ずかしさで背中にジワリと汗が浮かびます。コロコロ笑うお嬢さまの声が頭の中に響き、顔が熱くなりました。


「あら、おまえ顔が赤いわ。赤カブが赤犬になったわね。ふふふふ。ほら、もっとお鳴き」


 木の棒でぴしりと尻を打ち据えられる痛みはもはや痛みと呼べるものではなく、その上、お嬢さまが私などの尻をぶつなどということに胸の内がふるえるような何かを感じます。


「わんわん」

「うふふ、とっても似合うわ。わたしね、いちど大きな犬に乗ってみたかったの」


 そう言うが早いか、なにごとかわからない私の背にお嬢さまがまたがりました。背中に乗っているのはお嬢さまのお尻なのでしょうか。あまりにも突然のことに身動きできない私の耳がキリリと引っ張られ、楽しそうなお嬢さまの声が頭の上から降りそそぎました。


「動きなさい、カブラ。鳴きながら歩くのよ。ふふ」


 じれったそうに体をゆすられると、背中に感じる肉の柔らかさが生々しく思え、自分の卑しさに冷や汗が流れました。なんとか手足を動かし、息を切らして蔵の床を回ります。お嬢さまのズシリとした重みに息が切れるのか、背中に感じる体の熱さに息が切れるのか、ときどきぶたれる尻の痛みに息がきれるのか、私にはわかりませんでした。

 十五になり同じ年頃どころか大人くらい体が大きくなった私ですので、細くて軽いお嬢さまを乗せたところで大したことはありません。重さではなく、そのあたたかみで痺れた腰が私の手を震えさせました。お嬢さまを乗せたままでいたい気持ちはありますが、それには耐えられないと醜い私の体がうったえるのです。


「もうしわけありません、もう動けません」

「カブラはひよわねぇ。もういいわ」


 私の背中から降りたお嬢さまが、着物の裾を直しました。ちらりと見えた白いすねに息を飲んでしまい、いそいでうつむきます。


「いいつけをやぶったら承知しないわよ。わかった?」

「はい、気をつけます」


 満足そうに微笑んだお嬢さまは、棒でピシリと私の肩をぶってから蔵を出ていかれました。

 ほぅ、とため息をついて閉じたまぶたの裏に、さきほど目にやきついた儚い白さのすねが浮かんでは消えるのでした。



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