♯26 久しぶりに見る世界
ばしゃり、と控えめな音が足元から響く。
突然のことに驚いて、足に力が入らない。そのまま水の中に座り込み、茫然と目の前の光景を見ていた。落ちた鞄と転がった傘。反射的に口を押さえて、なにも出てこないのを核にしてからそろそろと手を降ろした。
じっとりと地面と空気を濡らすために降っている雨が、私の体を容赦なく濡らしていく。暑さに蒸されて湿度を増した空間は、いかにも夏の空気という感じで。
夢のような世界にいた、はず。全身を苛む筋肉痛は間違いなくあの世界の名残のはずなのに、どこか空虚というか、他人事のようだった。
後ろを向いても背中にはなにもない。伸ばした指先に触れる物はなく、空を掻くだけ。
誰も道を通っていないし、見られていないけど、猛烈に恥ずかしくなって急いで立ち上がる。落ちている鞄と傘を回収して、すぐ近くにあるバス停まで急いだ。
人がいないそこですっかり濡れてしまった制服とスカートを絞る。皴をつけたくないから本当に気持ち程度だけど、ベンチやバスを濡らさなければいいや、と割り切ることにした。
バスは数分後に来る。それまでの時間を潤沢に使って、髪や腕を拭いて靴下を脱いだ。全身濡れていないところがないけど水たまりに突っ込んだ足元はドロドロと形容しても問題ないほどに酷くて、履いていられなかったのだ。
ビニール袋に入れよう。ついでに、教室が暑くて脱いだブレザーも羽織ろう。
そう思い、鞄を開けて固まった。
無理矢理詰められていたせいで開けた途端にお面が転がり出てきた。漫画とかでよく見る、ありきたりな狐のお面。
その隣には、すっかり見慣れた懐中時計が時間を刻んでいる。
泣き笑いのような表情になって、その二つを手に取る。ただの物のはずなのにどこか温もりすら感じるそれを、バスが近づく音が聞こえるまでずっと見つめていた。
バスの扉が開く音で我に返り、焦って定期券を取り出す。ブレザーを引っ張り出して、空いた場所にお面と時計を押し込んだ。
傘を持っているくせに全身が濡れている私を、運転手の人は変な顔で見ていたと思う。
でも、それが気にならないほど満足感と共に中に乗り込み、手すりを持って空を見る。空調の風が寒くて体が僅かに震えた。誤魔化すように鞄を抱え、ぎゅっと抱きしめる。
雫の浮かぶ窓ガラス越しの空はどこまでも灰色に濁っていて、青色はどこにも見えない。
色々なものに遮られていアマは見えなくても、大好きな空があの向こうにあるなら、それでいいや。
そんなことを考えながら、小さいくしゃみをした。
◇
薄暗い部屋の中。
鈍い微睡みから目覚めた鶴屋は、身を包むひざ掛けを除けつつ時計を見る。柚希のラピスラズリが嵌められたそれは、まるで鼓動のように、しっかりと時を刻んでいた。
小さな扉を開けて梯子を登る。倦怠感に包まれた体を持ち上げて鐘を打ち鳴らした。
島中に音が響いていく。遠くを見れば、罅割れ歪んだ空はほとんど元に戻っていて、神社を埋め尽くしていた紫晶はゆっくりとその大きさを消していっていた。
もう十数分後にはすっかり元の姿に戻っているだろう。
「……」
今すぐ飛んでいこうか、と一瞬思い、その考えを打ち消す。今の寝不足と疲労感の中でまともに動けるわけがないことを思い出した。普段は働いている常識感や理性というものがすっかり死んでいるらしい。
今鐘を鳴らしたということは、次の仕事の時間までしばらく時間がある。すっかり不健康になっただろう体を少しでも動かすべく、歩いて神社に行こう、と思い立って時計台から降りていく。
螺旋階段を横から殴る風に煽られて、少しふらつきながら降りていった。
久しぶりにちゃんとみた世界はすっかり荒れている。
道には枝やなにかの破片、瓦礫からなにか分からないものまで。ありとあらゆるものが転がり、石畳の道に凹凸を作っていた。
不意に踏まないようにだけ気を付けて進む。
島は面白いくらいに静まり返っていた。
元々星拾祭の最終日は粛々と過ごすのが普通ではある。お祭り色が強いのが初日で、そこからだんだん静かになっていくのが特徴だ。儀式に直接かかわる人以外は家の中にいるのだろう。
この世界に自分以外いないような錯覚を覚えるほどに、風と鳥の声しか聞こえない。
眠気と気怠さの衝動に任せて寝てしまおうか。このまま時計屋に戻って布団に潜り込んでも良い気がする。
そんな気持ちを抑えて坂を上っていく。道の先に見える神社に向かって、ただひたすらに。
……アイツはもう元の世界に帰ったのだろうか。紫晶が消えていっているから帰ったのだろう。時計が届けられたならそれでいい。
遠くで軋みが消える音がした。島中に走っていた罅が消えていっているのだろう。
自然と足に力が入る。
さらに急になった坂を抜けて、閉まったままの商店道を小走りで過ぎた。初日には屋台と人で埋まっていた場所で、小走りがさらに加速する。
階段下の広場から神社を見上げる。次々と砕け、消えていく紫晶を追いかけるように階段を駆け上がった。
柚希はたぶん、起きたことを全部見ているだろう。俺が今こうして走っていることも当然のように見ていて、なにか小言を言っているに違いない。
それでもいい。柚希が目を覚ました時に、最初に目に写りたいだけだ。
何度も転びそうになりながら登りきった先。鳥居の向こうで、最後の紫晶が消えようとしている。全てを包んで止まっていた時間が、ゆっくりと解けていた。
解放された篝火の炎が突然音を出した。祭りの時に誰かがつけた足跡が白砂に残ったままで、あの日の喧騒すら聞こえてきそうだ。
漏れ出てくる夏夜の波の奥。段差を飛び越えて向かった先、本殿の中心で、柚希の顔が、指先が、開放されていく。
力が入らないのだろう。床に倒れ込む体の下に間一髪で滑り込んで支える。顔から床にぶつかる前に受けとめられてよかった、と小さく息を吐きだした。
すぐに抱え直して、仰向けに。
「……柚希?」
「鳴……?」
寝ぼけたような、久しぶりに瞼を開けたような、少し虚ろな視線。僅かに細められ、ゆっくりと開き、ようやく焦点が合う。
その瞬間に頬が緩んだのを見て、心が揺れる。
「無事か」
「もちろん。まだ、体に力が入らないけどね」
「無理はするなよ」
「私より無理をしていそうな人に言われたくないなぁ」
完全に紫晶が消えて、雅楽を弾いていた人たちも同じように倒れ伏している。神職の人が解放をしているのを視界の端で捉えているが、意識を向けられる余裕がない。
呆れたような視線を避けるように視線を動かすと、ボロボロと崩れていく柚希の片翼が目に入った。
柚希もそこに意識が向いたのが分かったのだろう。
「気にしないで。元通りになっただけ」
「わかってるよ」
本人がこう言っているのに周りが未練がましくなにかを言うのは違うだろう。でも、目の前で翼が崩れるのを見るのはなんとも心苦しい。
全てを振り払うように、柚希の体を抱き上げる。
星の奉納をする儀式は終わった。本来であれば、この後の締めの儀式も今年の巫女である柚希の役割だから動かなくてはいけない。
ただ、そうも言っていられないのが現状だろう。とにかく今は体を休められる場所に。
神社の本殿の奥。案内されるままに宿直部屋の一室に運び込んで、布団に寝かせる。案内してくれた人に礼を言い、二人っきりの部屋になってから千早を脱がせた。
帯と紐を緩めつつ具合を訊く。
「気持ち悪いとか、どこかが痛いとかは無いか」
「全身が疲れていて力が入らないくらいかな。痛みとかは無いよ。しっかり寝たら快復すると思うから安心して」
小さく断ってから濡れタオルで拭いていく。同時に簡単に赤くなっている場所が無いかも確認して、すぐにどうにかなってしまいそうな怪我などが無い事がわかってようやく安心した。
髪を整えて枕の脇から横に流す。小さな器で少しずつ水を飲ませて、介抱がようやく一段落着いた。
「星拾祭は今日で終わりだ。巫女は他の当てを見つけるから心配するな。今は、しっかりと休んでくれ」
「はーい」
ゆるりと微笑んだ姿をみて衝動的に頭を撫でる。それで幸せそうな顔をするから、辞め時が見つからないというか、幼馴染冥利に尽きるというか。
どのくらい撫でていただろう。特に言葉を交わすこともなく撫で続けて、柚希がうとうととし始めたあたりで手を止める。
儀式が終われば、また世界は一年間の安定を取り戻す。その後は、祭りの期間で乱れに乱れ切った島民の魂珠時計を直す作業があるだろう。
それまでは時計塔で時間を告げる必要がある。すぐに戻らないといけない。
目を閉じ、穏やかに呼吸をしている様をもう一度見てから立ち上がろうとしたところで、掛け布団の隙間から伸びてきた指に袖を控えめに掴まれた。
動けないなかで頑張って摘まんだのだろう。指にはほとんど力が入っていない。
「柚希?」
「……一緒に寝てくれる人がいると安心するんだけどなぁ」
高校生でそれはダメだろ、とか。布団を追加で持ってくるから、とか。色々な言葉が口をついて出そうになったが、有無を言わさない気配に押されて黙り込む。
たぶん何を言ってもひくつもりは無いのだろう。諦めて隣に入った。求められるままに腕枕をして、緩く体を包み込む。
「久しぶりだね」
「そうだな」
その一言と俺の表情を見て満足したらしい。限界だった柚希は少しだけ微笑んで、今度こそ眠りに落ちていった。
久しぶりに心から安心をしたのだろう。つられて俺も意識を手放していた。
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