♯25 ラムネ瓶に蓋をする


 さて。願い事をした瞬間から印象に残っているところを周っていくとなると、次に行くべきところは。


「……次もここかもしれないです」

「おや。やはりここに来たことが?」

「ここまで入ってはいないんですけどね」


 願い事をした前日は熱で寝込んでいた。

 そしてその前の日、星拾祭一日目。寝込んだ原因でもある出来事は、ここで鶴屋と柚希さんの逢瀬を見たことだった。

 思い出すだけで、さっきまでとは違う痛みが胸を襲う。


「分かりました。では」


 さっきまでとは違い、人型に切り抜かれたお札を渡される。


「その時の様子を思い出しつつしっかり握ってみてください」

「はい」


 この場所の出入り口まで戻り、両手で包んで胸に当てる。目を閉じ、あの時の光景を思い出していく。

 揺れるホタルと篝火の炎。音と共に弾け、燦然と輝いては消えていく花火。そして、その雄大で美しい景色を完全に脇役にした、あの二人の姿を思い描く。物見台と二人の影が全て重なる様を、思い出せる限り思い出していく。

 その作業をする間、ずっと目の前で振られていた幣の音が止まる。


「……はい、その程度で良いでしょう。随分美しい光景を見たのですね」


 抱えていた人型の札には、夜闇の色と、沢山の光。夏色とでも言うべき色の奔流が鮮やかに白かった札を埋め尽くしている。

 見るだけで泣きそうになった。


「すごく綺麗でした。触りたくないなって思うくらいに」


 なにか思うことがあるのか、気を遣ってくれたのか。神職さんはなにも言わず、次の場所に行きましょう、と声をかけてくれた。

 そうやって札に思い出を転写していく。

 演劇をした食堂。二人が舞台にいて、三人の観客の前でポーズをとっている。

 掃除を何回もした場所。柚希さんとご飯を食べた席。海の話をしたゴミ捨て場。和服の着替え方を覚えたロッカールーム。ミユちゃんと卓球をしている鶴屋を見つけた遊技場。旅館の中だけでも沢山の思い出が詰まっていた。

 島巡りをした時の思い出深い場所や、お祭りの設営を手伝った場所。お神輿を拭くのも初めてやったことだ。本当に珍しい経験ができていると思う。

 初めてチョコバナナを食べたところ。室谷さんにお面を貰ったところ。

 今思い出しても、なんでお面を貰ったのか、なんで室谷さんがお面屋さんと花火屋さんでバイトしていたのかも分からなくて笑えてくる。

 調べ物をした図書館にも行った。本を積んで調べ物をした指定席でも思い出を転写する。

 色とりどりの景色は全部、その時の空の色と、どこか焦りに滲んでいた。

 それ以上に、どこにも鶴屋と柚希さんの影がある。

 時計屋の支店で置き去りにされたままの「店員不在、用がある方は旅館隣の時計屋まで。提灯を忘れず持ってきてください」の札と提灯を見た時は泣きそうになった。

 思い出すたびに連れまわしてしまったせいでだいぶ時間がかかってしまい、すっかり昼を過ぎている。神職さんたちには申し訳ないなと思いつつ、それでも一つずつ丁寧に足跡を辿った。

 その思い出巡りも、ついに終わる。


「ここで最後です」


 時計屋の裏側、従業員用の扉の奥。

 相変わらず薄暗くて埃臭いそこで最後の転写を行う。

 最初に、雨濡れの体を丸めてストーブに当たっていた時は変な奴としか思わなかったのに。今では全然違う気持ちを持っているんだからおかしいというか、救えないというか。

 そんな気持ちが漏れたのかもしれない。転写にかなりの時間がかかり、やっとの思いで終わって札を見てみれば、明らかに目の前の光景より鮮やかで明るい様子が転写されていた。


「……終わりました」

「はい、お疲れ様です」


 恥ずかしさを堪えて札を差し出す。

 そして、最後に儀式を行う場所に移動を始めた。ここまで来ると特別会話もなく、ただ淡々と物事が進んでいく。勝手に入ってゴメン、とだけ簡単に書き残して外に出た。

 この島巡りで最後に行く場所は当然決まっている。


「そっか、ここからも全部見えるんだ」


 私がこの世界に落ちてきた場所。上にも下にも空が見える不思議なところだ。今は世界の崩壊の余波を受けて若干罅が走っているものの、様子はあまり変わっていない。

 神社も、旅館も、時計塔も見える。図書館の赤レンガや焼却場から立ち上る煙まで、全部。私が落ちてきた日も、もし雨が降っていなかったらこの光景が見えていたのかな。

 景色から視線を外すと、目の前にはこの世界でお世話になった人がいる。

 寝癖が付いたままの髪で立っているのは室谷さん。


「本当に行っちゃうんだね。寂しくなるなぁ」

「室谷さんは私より世界を飛び越えやすいんでしょう? なら慣れているんじゃないんですか?」

「別れは慣れているけど、悲しくないわけじゃないからね。覚えている間は小宮さんのことを忘れないよ」

「……正直はいいですけど、その言い方だといつか痛い思いをする気がします」


 私の言葉に、もうしてる、とでも言いたげな顔をしていた。たぶんそれなりの事情や過去があるんだと思う。でも、いちいち話したり聞いたりしないのも、私と室谷さんの関係な気がする。


「お面、大切にします」

「それだけで十分だよ。それじゃ、また逢うことがあれば、デートしようね」


 お酒を飲んで暴れていた、今ではシャンとしている三人組。


「本当に迷惑をかけたね。反省してます」

「私はもう怒っても困ってもいませんよ。ただ、柚希さんへの謝罪は忘れないでくださいね」

「それはもちろん」


 奥さんも来ている人は一緒に頭を下げてくれた。お祭り前で、しかも星拾祭の近くは時計や人の心が乱れやすい時期だったから起きただけだと思っているから、たぶんこの三人ももう大丈夫なはず。

 一番多いのは、フロアリーダーを筆頭に、唯ちゃんや従業員の人だ。


「本当にお世話になりました。働くのは初めてだったので迷惑も沢山かけたと思います」

「いやいや。本当によく働いてくれたわよ」

「奏ちゃんめっちゃ真面目だから、サボりに誘いにくかったんだよねー」

「百瀬さん?」

「やっばい。またこっち来たら今度は遊びに行こうね! 楽しい場所いっぱい知ってるからさ、働くだけなんてもったいないよ」


 後で話は聞きますからね、と睨まれているけど必死に視線を逸らしていた。でも、その声が少し震えているのはちゃんと聞こえている。

 つられそうになったけど、グッと堪えて笑顔を作る。絶対だよ、と約束を交わした。

 その光景を見て、リーダーが溜息を一つ。前に進み出てきて、なにかを差し出してきた。


「小宮さん、これを」

「これは……」

「あなたの魂珠時計です。元、ですけどね」


 間違いない。今手の中にあるのは、今朝私の手でバラバラにしたはずの魂珠時計だ、ネジも歯車も外されて動かなくなったはずのそれが、綺麗な形になって、時を刻んでいる。


「鳴くんからの伝言よ。餞別だ、作業代はツケにしといてやる、ですって」

「ツケ、って」


 私はもう、たぶん二度とこの世界に来ないのに。


「俺が驚くくらいの演技を見せてみろ。そしたら代金はチャラ、ついでに空の飛び方も教えてやる、って言っていたわよ」


 その言葉を聞いて、ついに堪えきれず涙がこぼれた。

 たぶんアイツは、もう一回私がこの世界に来たら本当にやる。私が翼を手に入れちゃったからこの騒動が起きたのに、とか、そういう道理を努力で超えて、私に翼をくれるだろう。

 そして、私のカチコチの演技を見て、鉄面皮はちっとも動かさないくせにチャラにしてくれる。確信なんてないけどそうする気がした。

 この気持ちをどう言葉で表せばいいのか分からない。どうしようもない衝動が体を突き動かそうとして、それを頑張って抑え込む。

 あのバカ。絶対、全部わかっていて言ってる。ズルい。私がどんな気持ちでなにをしているのか、全部察しているくせに。


「鳴くんにバーカって言っておこっか?」

「お願い……!」


 唯ちゃんがおどけてそう言う。オッケー、と見せてくれる笑顔が眩しい。

 零れ落ちる雫は止まらない。けど、今溜まっている分を腕で拭って前を向く。


「儀式、お願いします」

「分かりました。……最後にすることは分かっていますか?」

「はい」


 集まってくれたみんなが一歩下がる。

 いよいよ、この世界とのお別れの時だ。

 ポン。

 太鼓が叩かれ、この数日で聞き慣れた音が周囲を凪がせる。

 雅楽が奏でられ、雰囲気が変わる。篝火の火勢が増し、火の粉を吹き上げる。空に無数の赤い染みを残しながら登っていくそれは、まるで道のようで。

 私の思い出を転写した札が、一枚ずつ火にくべられていく。

 そのたびに足が浮くような、この世界から剥がれ落ちていくような、不安な感覚に襲われる。でも鶴屋と時計塔から落ちた時に比べたら、怖くはない。

 ゆっくりと足元が不安定になる。空と空の境が、消えていく。

 沢山あったはずの札はあっさりと燃えていき、残りの札が五枚になった。そこで、朝にリーダーから渡されていた巾着を開き、中から魂珠を取り出す。巾着は近くの神職さんに渡して、石を手の中で転がした。

 札が燃える。目の前の人たちに、深々と、心からの礼をした。

 また一枚燃え尽きる。神社の方に礼をした。鳥居ごと埋め尽くしていた紫晶には棄却の儀式のおかげで罅が入っている。私が帰れば完全に砕けるはず、となぜかわかった。

 また二枚、燃え落ちた。顔を上げて、この美しい世界を、感覚の全てで感じる。

 最後の一枚。一番転写に時間がかかったそれが燃えて、世界に溶けていくのを見ながら、私は鶴屋がいるはずの時計塔に視線を向ける。

 ……もう、いいかな。

 空色の石で口を隠す。音にしてはいけないこの想いを、それを紡ぐ口の動きを、どうか誰にも見つかりませんように、と願いながら。


 鶴屋、私ね。鶴屋のことが、きっと。


「──」


 この世界に落ちてきた瞬間を逆回しするように、私は石を飲み込んだ。

 青い石はしっかりと私の喉に栓をしてくれた。私の中にある大切なものを出さないために、喉でしっかりと蓋になる。気持ちよく胸を焼く、このどうしようもない感情が溢れ出ないように。

 喉を超え、胸の奥。乾いた気持ちの良い音を立てて、石がどこかに填まる。

 その瞬間に私は世界から欠落した。さっきまで立っていた空と空の境を突き抜け、風を全身に受けて、真っ逆さまに落ちていく。

 なにかを叫ぼうとして、声が出なくて。反射的に手を伸ばし、なにも掴めないまま、それでも笑顔を作って手を振る。

 そこが耐えられる限界だった。

 私の翼が砕けて、空に散っていく。見る間に加速し、全てを置き去りにして、どんどん落ちていく。その光景を、とめどなく零れ落ちる涙越しに見た。

 合わせ鏡の空の向こう、その頂点で輝く太陽に向けて落ちていく。雲一つない蒼穹を貫いて、薄れゆく意識の中で、この時間が永遠に続けばいいのに、と心から願った。

 でも、もう神様のいる世界は終わり。厚着で汗をかいたような、少し不快でじっとりとした感覚と共に、世界の境界を突き抜ける。


 そして、いつの間にか意識が消えていた。

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