♯24 夢が燻る


 翌朝。夏にしては冷えた空気と共に目を覚ました。

 日は登り始めたばかり。小鳥の声が聞こえてきて、いかにも良い朝、という感じ。

 ぐーっと体を伸ばす。筋肉痛に小さく悲鳴を上げる体をほぐして、ゆっくりと目を覚まさせていく。寒さで少しだけ鳥肌が立った。

 顔を水で洗って、着替えをする。旅館での仕事が始まって以来ずっと部屋の隅で折りたたまれていた制服の袖に腕を通し、鏡で姿を確認した。

 この世界に落ちた時と同じ姿。周りの人がみんなこの世界の服を着ている中で私だけが制服だから違和感が凄い。しかも翼まであるから非現実的というか、なんというか。


「自分で飛びたかったなぁ」


 思わず口からこぼれ出た、正直な気持ちを吐露する。

 勿論、鶴屋に飛ばせてもらっただけでもかなり幸せだった。あれだけでも元の世界では味わえない体験なのは間違いない。夢が叶ったか叶っていないかで言えば、間違いなく叶っている。

 ただ、やっぱり自分の翼で自由に空を飛んでみたかった。贅沢な望みなんだろうけど。

 柚希さんに乾かしてもらった鞄を扉の近くに置いて、部屋を掃除する。埃を拭き、雑巾を洗い、使った布団を洗いに出した。

 布団が無いこと以外は私が来た時のそのままの姿。簡素な畳と洋服掛けがあるだけの、ただの客室の姿に戻った。

 十日間使わせてもらったここに一礼をしてから鞄を持って外に出る。

 鍵を返しに従業員用の施設の方に行き、管理室をノックすると、中から控えめな声で返事があった。


「失礼します」

「ちゃんと起きたわね、偉いわ」


 十日間、折を見ては気にかけてくれたフロアリーダーのお姉さんがお茶を飲みながら待っていた。肩掛けをしているあたり、リーダーも寒かったのかもしれない。

 私もお茶を一杯貰う。


「鍵です。十日間、ありがとうございました」

「いえいえ。私たちも助かっていたから、寂しくなるわね」

「突然来て突然帰っていくので変な人ですよね、私」

「そうねぇ。短い間働いて自分の世界に帰っていく人は結構いるけど、これだけ早いのは初めてかもしれないわ」


 言うなれば短期バイトみたいなものかもしれない。他の島と行き来する人以外は完全にこの島だけで生活するのが普通だから長期バイトが普通で、短期バイトという言葉は聞いたことがないんだけど。


「儀式の最後はどこでするんだったかしら? 色々あるから間に合うか分からないのだけど、できたらそこまで見送りに行きたいわ」

「島の外れです。私がこの世界に来た所ですね」


 土地が無くなって、上と下に空がある場所。空中に立っているような、ガラス張りの空に立っているような、不思議な場所の一角で最後の儀式は行われる。

 島の外周を巡る路線バスの線路の近く、神社と時計屋、旅館が見える場所で最後の儀式は行われる。


「わかったわ。できるだけ早く仕事を終わらせて向かうわね」

「無理はしないでくださいね。それこそ、お仕事でもなんでもないんですから」

「あら、変な気は使うべきじゃないのよ」


 お茶を一口飲む。なんとなく、夏でも温かいお茶を飲む理由が少しわかった気がする。

 同じようにお茶を飲んだリーダーが、思い出したように口を開いて、


「そうだ、鳴くんから伝言を貰ってるのよ。帰るなら魂珠時計の機械部分は返してくれ、ですって。部品とかはバラバラでいいから、って言っていたわ」


 はいこれ工具、といくつものドライバーや道具が入った箱を渡される。

 あんにゃろう。難しくないらしいわよ、じゃないんだよ。たぶん順番にネジとか歯車を外していくだけなんだろうけど、素人にやらせないでほしい。

 儀式の集合時間までにはもう少し余裕がある、外した部品はリーダーが持って行ってくれるらしい。

 まさか今日起きて最初にすることが小道具弄りだとは思わなかった。

 うふふ、と微笑みつつリーダーは見守ってくれている。小さくため息をついて、お茶を飲みつつ作業をしながら、とりとめのない会話に花を咲かせた。

 元の世界の話とか、リーダーが小さなころの話とか、色々なことを話すうちにあっさりと、大切に持っていた時計はバラバラにできた。

 こんなに歯車がはいっていたんだ、とか。こうやって秒針を動かしているのかな、なんてことを考えつつ続いた作業は、私の魂珠が転がり出てきたところで終了。

 儀式が終わるまでこれに入れておきなさいな、と渡された小さな巾着袋に空色のターコイズをしまう。


「本当に、ありがとうございました」

「また縁があったらお話しましょうね。今度はちゃんと一本、演劇が見てみたいわ」

「はい、その時は絶対に。とっておきのやつを練習してきますね」


 たぶんもうこの世界に来ることは無い。それでももしかしたら、という気持ちで約束を交わす。

 ゆっくりと人が増えて本格的に動き始めた廊下を進み、暖簾をくぐってお客様用のフロアに出る。同じように出ていく数人のお客さんの流れに合わせて旅館を出た。

 向かう先は神社。人通りがまだまだ少ないから、あっさりとたどり着いた。

 広場には同じく早起きをした神社の関係者の人たちが既にいる。儀式のために使う道具たちを並べて待っていた。


「おはようございます」

「おはよう。体調は?」

「良好です」

「それは良かった。いい天気だね」


 本当にそう思う。広場から少し見上げた先、柚希さんの結晶の端が透けて、紫混じりの青空が見えるくらいに透き通った良い朝だ。もし元の世界でこんな朝に目を覚ましたらきっと、普段はしていなくても散歩をしたくなるはず。


「柚希さんに挨拶してきてもいいですか?」

「いいよ。あと少し準備に時間がかかるから行っておいで」


 お礼を言って、急な階段を登っていく。

 薄く結晶に覆われた場所を登り、大きな結晶の前にたどり着けば、やっぱり中が透けて見えた。あの夜のまま時間が止まったそこに、そっと指先で触れる。


「おはようございます。えっと、私、帰ることになりました。なりましたというか、最初から帰るつもりではあったんですけど」


 思った以上に居心地が良くて、島の人たちは優しくて。なにより柚希さんと鶴屋がいるから、少しくらい長くいてもいいかな、なんて考えたこともあった。だからこその言葉なんだろうな、なんて思いながら言葉を紡ぐ。


「たぶん柚希さんはその状態でも見ている気がするから知っていると思いますけど、鶴屋のバカ、全然寝てないです。たぶん仮眠はしていると思うんですけど、でもほとんど徹夜と変わらないんで、元に戻ったらしっかり怒ってあげてください」


 星拾祭二日目の夜からずっとだから、丸二日。いくら若くても心身にかかる負担が大きすぎる。言っても聞かないのは私も柚希さんも分かっているけど、言わないと同じようなことをするだろうし、抑えが利かなくなると思う。


「本当にこの十日間、楽しかったです。そのくせ迷惑ばかりかけてごめんなさい。本当に、ありがとうございました」


 深く一礼をする。たぶん、この神社で神様にした時よりも深く。

 当然返事なんてない。でも、たぶん伝わったから、ということで礼を止めて階段を下っていく。足の裏で薄晶を踏みながら、ゆっくりと。


「戻りました」

「おかえり。じゃあ、行こうか」

「はい」


 今回行う儀式は、棄却と逆行の二つ。

 私がした願いの棄却と、願いをしたことで歪みの原因になった私がこの世界からいなくなるまでの逆行をしないといけない。そうすることで歪みの元が無くなり、神様の力が元に戻るらしい。

 まずは棄却の儀式。それを行うために、あの日願いをした、神社裏の道から行ける高台に行くことになった。

 道具を持って、あの夜に必死で走った道を登っていく。


「にしても、この道をよく知っていましたね。島の人でもあまり知らないというか、知っていても来ないんですよ。来る必要が無いとも言いますかね。特になにも無いですし」

「えっと、島めぐりをした時に偶然、ですかね」


 鶴屋と柚希さんが会っていたのを見たから、とは言いにくい.人が少ないらしいこと、そしてあんな大切な日にわざわざここを選ぶくらいなのだ。きっと、二人にとっては大切な場所のはず。

 それをばらさないくらいのわがままは流石に許されると思う。

 長い道を登り切り、たどり着いた先は小さな広場。さびれた物見台があるだけの、簡素な場所。

 そこの一番奥、島中を一望できる所に立つ。


「そこでいいですか?」

「はい」


 ここは私が願い事をしたところだ。島を見下ろし、神社下まで戻ってきた柚希さんの神輿を見ながら願い事をし、翼が生える感覚に見悶えた場所。

 私の後ろ側で神社の人が二人並び、幣を構える。

 目を閉じ、渡された小さな籠を目の前に構える。

 シャン、と鈴が鳴り、太鼓が三度打ち鳴らされた。周囲の雰囲気が少し張り、ざわざわと風が流れる。自然以外の時間が止まったような僅かな静寂、そして龍笛が響く。

 足元の敷物の上に正座をする。同じく置かれている小さな机に向かい、横から差し出された筆を受け取った。

 墨をつけ、硬い和紙で出来たお札を左手で押さえる。


「豊穣神に願い奉る」


 文字は特別きれいじゃなくてよいし、願った内容そのままでなくてもよい。ただ、願った時のことをしっかりと思い浮かべながら、その内容を札に書かないといけない。

 緊張と風で腕が震える。指先に変な力が入っていて痛い。

『この世界の翼が無い人を助けてあげてください』。

 理不尽や不条理な世界をどうにかしてほしいという願い。翼が無いだけで排斥される世界を、変えて欲しかった。

 でも、この願いに意味はなかった。この願いで助けたかった人たちは、とっくに自分たちの力で自分たちを助けていたから。

 願いを書き上げた札を、待っている神職の人に手渡す。


「お願いします」

「はい」


 控えめな声と共に受け渡され、幣が振られる。太鼓の音が激しく打ち鳴らされ、胸を叩くような衝撃が伝わってきた。

 小さな篝火が焚かれ、山の頂上を吹き抜ける風に煽られ威圧的な音を立てる。

 その炎に、私の札を投げ込んだ。


「あっ……⁉」


 軋むような痛みが背中に走る。正確には背中の外、翼があるはずの場所で痛みが沸き上がってきた。

 机に手をつき、痛みに耐える。生えた時ほどではないものの、背中が痛いという経験がほとんど無いから堪えるのが難しい。肩甲骨を中心に全体に痛みが広がる。


「頑張って耐えてください、あと少しです……!」

「はいっ、はいっ……!」


 もし音楽がなかったらだいぶ辛かったかもしれない。今はなんとか音を聞いて意識を逸らせているから耐えることができている。

 必死に握っていた籠に、昨日の儀式で見たような光が貯まっていく。私のターコイズの色の光で、見慣れているような、少しだけ変に感じるような。

 札が燃え尽きる。それと同時に残り香のような感覚だけを残して痛みが消えた。


「終わりました。……そういう風になるんですね」


 神職の人が視線を向けた先にあるのは私の翼。私の願いでできたそれは、すっかり様変わりしていた。

 綺麗なターコイズ色はすっかりと褪せ、罅割れている。ボロボロで薄く色づいただけの寒天のような、触れた端から崩れそうな脆さで風にそよいでいた。

 胸を埋め尽くす喪失感や悲しみから必死に目をそらして、手に持っていた籠を差し出す。


「これは、どうしたらいいですか」

「私たちで奉納をします。なので預かりますね。小宮さんには次の儀式に移っていただきたいのですが……大丈夫ですか?」


 きっと今の私は酷い顔をしている。痛みと喪失感で憔悴した、あまり見たくないような顔になっているはず。痛みに悶える姿まで見ているから声もかけたくなるだろう。

 それでも体に力を入れ直して、必死に笑顔を作る。


「大丈夫です、行きましょう。次は逆行、でしたっけ」

「はい。小宮さんがこの世界で辿った道筋を反対に通って、疑似的に小宮さんを過去の状態にします。そうすることで小宮さんは元の世界に戻れるはずで、そうしたらこの世界の歪みは元に戻るはずです」

「分かりました」


 籠を渡し、去っていく方々に頭を下げる。

 ここの景色と通り抜ける風の涼しさは、絶対に忘れないでいよう。そう思った。

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