♯15 『時計屋には──』


 誰が押したわけでも引っ張ったわけでもない。そこにある流れのようなものがゆっくりと私を運んでいた。

 着慣れない浴衣と小さな歩幅のせいで全然抵抗ができない。道の脇に出る事すらかなわないまま、どんどん室谷さんの背中が遠くなっていく。

 無理に流されたのとは少し違う、転ばないように必死に立っていたら元の場所にいなかったような、言いようのない理不尽さのようなものに襲われたのだろう。

 ようやく人混みの苦しさが弱まり、ちゃんと立てた時にはすっかり屋台からは離れていた。神社の階段下、いわゆる本会場すら通り過ぎていて、室谷さんとはぐれた場所から考えるとかなり人が少ない場所まで流されている。


「どうしよう……」


 戻ろうにも悩むような人波だ。流されている間に浴衣は少し崩れたし、確認できないけどたぶん髪の毛も少し乱れてる。慣れない歩幅で坂を歩き、無理をして立っていたせいで足の筋肉痛が復活してきたのも辛い。

 夏らしい茹だるような暑さと体の疲れが全身を苛む。

 さっきの押し合いをもう一回することになるのを分かっていてあの人波に挑むのは嫌だ。同じように動けなくなって、結局どこかの道に逃げることになるのが分かり切っている。すぐに室谷さんに会える気もしないし、かといってどうしたら良いのかもわからない。

 携帯が使えたらいいのに。この世界に携帯のようなものは無さそうだから考えてもしょうがないんだけど、それでもそう思ってしまう。

 とにかく、どうにかして合流しなきゃいけない。


「高い場所なら見つけてもらえるかな」


 それなら、と視線を向けた道の先にあるのは、人の気配の薄い道。しっかりと篝火台は設置されているものの、花火の方向と真反対に行くせいか、歩いている人はかなり少ない。

 ただ、どうやら山の上の方に続いているように見える。もしかしたら神社の本殿側、高くて見つけてもらいやすい場所に出られるかもしれない。

 そうと決まれば、とすぐに行動を始めた。

 高い場所に出られたら見つけやすいだろうし、もし見つけてもらえなくても、綺麗な景色は楽しめそうな気がしたのだ。気になった場所があったら一人で行ってもいいって言っていたし、今の状況なら仕方ないって分かってもらえると思う。


「……行ってみよう」


 聞こえてくる花火の音以外はほとんど無音の、驚くほどに静かな道を進む。山の反対側をぐるっと回って頂上に行くような道だから、花火はかなり上の方で弾けたもの以外はほとんど見えない。

 こんな道まで篝火が設置してあって良かった。街灯とかがほとんどないこの世界で、夜に一人でこの道を歩けって言われたら全力で断っていたと思う。無数のホタルや火の粉が舞っているからなんとか歩けている。

 鈴虫やキリギリスの声の方が耳に届くようになってきた。そのせいで孤独感のようなものがかなり増している。戻って待とうかな、なんて思い始めるくらいには寂しい。

 篝火台や提灯の中の火が揺れて、花火が遠くから不規則に世界の見え方を変える。山道の側を流れる小さな湧き水の流れる音が染み渡る。


「はぁ、はぁ」


 首筋を汗が流れるのを感じる。風を感じられているおかげで思ったより涼しいのに、それでも汗が出るのはきっと自分が思っているより焦っているからだと思う。急がなくていいのに早足をしている気がする。

 道まで出てきている枝が多くなり、だんだんと花火がたくさん見え始め、島の低い場所を見下ろせるくらい高くなった頃には結構な時間が経っていた。

 たぶん相当高い場所まで来ていると思う。神社より高いはず。誰もいない道の先には、少しだけ開けた場所があるのが見える。

 辿り着いた場所は山の頂上。この島で一番高い場所。神社の脇を埋め尽くすくらいの竹すら少なくなり、空も島も、この世界の隅から隅、裏側の星空さえ見えた。

 頂上は小さな公園というか、空き地のようになっていた。白っぽい砂と岩の地面とその隙間を埋める雑草だけがそこにあって、当然遊具なんてものは無い。

 その、当然のようでいて、殺風景なようにも見えるその場所の中心に、小さな台があった。

 滑り台の階段部分だけを設置したような物で、プールの監視台のようにも見える。塗装は所々が剥げていて錆が見えるものの、元の白さはちゃんとわかる。

 星見台、という言葉がふさわしいだろうそこに。

 雰囲気や景色ごと溶け込むように静かに座る、二人の先客がいた。


「帰ってから旅館で食べてもよかったんだぞ」

「なあに、嬉しくないの?」

「そりゃ嬉しいけど。手間じゃないか? 屋台もあるんだぞ」

「もちろん大変だけど、鳴が喜ぶならそれでいいよ。なにより年に一回のことなんだし、ちゃんとさせてよ。私が弁当を作って持ってくるところまで含めていつも通り、でしょ」

「……柚希が大丈夫ならいいんだ。うん、美味しい」


 肩を寄せ合って座る二人の姿はとても絵になっていた。まるで二人のためにあつらえたかのように、幅まで完璧だ。

 夜に溶けそうな紺色の浴衣の鶴屋と、その反対に眩く視界に飛び込む山吹色の浴衣の柚希さん。帯の色は赤で合わせているようで、背もたれ越しに見える腰の位置は完全に真横。

 風景まで合わせて自分たちの物にしているような。

 自分たちまで含めて風景なことまで楽しんでいるような。

 そんなことを一切気にせず、ただただ二人の時間を味わっているような。

 花火の光も、星の明かりも、その全てを一身に受けて、二人の所だけ見えない。暗さの中で明かりを味わい、そのまま自分たちに取り込んでいるようにさえ見える。

 誰もあそこには近づけないようで。さっきまであんなに鳴いていた虫も、ホタルも、二人が持っている提灯の炎でさえ静かにしている。二人がたまに話す声と花火の音以外は、完全に凪いでいた。


「あ、今度は紫だ。垂れているやつ好きなんだ」

「昔からそうだよな。これは藤の花みたいで俺も好きだ」

「藤の花は本でしか見れないからほとんど想像だけどね。どっかの島だと、藤って大きな樹になって、落ちた花弁とかで一面が紫になるみたいだよ。一回は見てみたいなぁ」

「そうだな」


 まるで目の前に見えない壁でもあるかのように、広場までのあと一歩を踏み出すことができない。むしろ、二人が一言を交わすたびに遠のいていく気さえする。

 音が一つ鳴るたびに。二人の影が夜空に映し出されるたびに、自分が場違いに感じられる。

 足が固まって動かない。この場所に私は、入っちゃいけない。そのことを痛いほど、心の奥底から感じてしまった。

 来た道をそのまま帰っていく。荒くなった息を無理矢理押し込めて、砂一つ踏む音すら鳴らないように。もつれた足で坂道を下っていく。登る時は少し見えていた景色も全く目に入らないまま、転がるように。

 花火の音も。揺れる篝火も。虫の音も。全てが揺らいで、崩れている気がした。何度も転びそうになりながら、あの二人に聞こえない距離になった瞬間に駆け出した。


「はっ、はっ、はぁっ」


 どこに向かっているのかわからないまま走り続け、気がつけば神社下の道まで戻ってきていた。崩れた浴衣と汗で濡れて貼りついた髪が気持ち悪い。

 妙に息を切らした私はやっぱり変に見えるのだろう。私を見た子どもが怯えたような顔で離れていったのが見えた。

 膝に手をついて息を必死に整える。なんとか深呼吸をしようとして、胸が潰れたみたいに窮屈で、浴衣の上から手を当てて必死に押さえる。

 形が分かりそうなくらいのそこを抑えつけながら息を整えていると、足音が近づいてきた。


「奏ちゃん?」

「むろや、さん」


 胸を押さえながら顔を上げれば、心配そうにこっちを見ている室谷さんがいた。焼きそばの器を二つと割り箸を持ったままなあたり、ずっと私を探してくれていたのだろう。

 その視線は、なにがあったのかという疑問を色濃く示していたけど。


「奏ちゃん、帰ろっか。焼きそばは後にしよ。手、出せる?」

「……ありがとうございます」


 震える手で室谷さんの手をとる。なんとか支えてもらいながら立って、息を整えていく。

 きっと私は酷い顔をしていただろう。それでも笑うことなく、そしてできるだけ顔を見ることもなく。来た時のようにゆっくりと歩いて、手を引いてくれた。

 伏せた顔を上げさせようとしてこないことが凄くありがたい。変に理由を聞いて来ないのも本当に嬉しい。

 たぶん、聞かれてもなにも答えられなかったと思う。息も頭の中も心の中も、全部整っていない。なんでこんなに苦しいのかも分からない。

 ただ、何度も頂上での光景が脳裏で繰り返される。それがとても辛い。

 気がつけば周りの明かりが増えていた。引っ張ってもらっているうちに、あっさりと旅館の前にたどり着いていたらしい。

 入口を静かに通り抜けて、適当な椅子に座る。当然のように周囲には誰もいなくて、カウンターには店主不在の札が見やすいようにカウンターに置かれていた。

 そこで限界を超えたらしく、視界がどんどん潤んでいく。


「あーあ、化粧崩れちゃうよ。せっかく綺麗なのに」


 室谷さんの声を受け止める余裕もなく聞き流してしまう。

 祭に行っていてほとんど人がいなくて助かった。この光景が沢山の人に見られたら流石に後で恥ずかしい。

 そのままでどれだけの時間いたのか。ようやく落ち着いたころには、ここまで響いていたはずの花火の音も聞こえなくなっていた。


「大丈夫?」

「はい。ごめんなさい、突然変になって」

「はぐれちゃったのは僕が悪いからね。危険な目に遭ったわけじゃなさそうでよかった」


 そんなことないです、と言っても受け流されてしまった。

 細かく私の様子を見ながら、ゆっくりと言葉を紡いでくれている。


「奏ちゃんはもうたぶん今日は疲れてると思うし、お開きにしよっか。温泉はちゃんと動いているみたいだからちゃんと入って、その後しっかり休むこと。はぐれちゃうまではちゃんと楽しめたから僕は満足してるから安心してね」

「本当に、なにからなにまでありがとうございます」


 好きな時に食べて、と室谷さんがくれた焼きそばを受け取って、もう一度しっかりと礼をしてから別れた。

 他の人が戻ってくるまでに間に合うように、ロッカールームを使って着替えていく。用意されていた浴衣をありがたく一つ借りて、化粧落としも持って温泉に入る。

 そういえば、一人でお風呂に入るのはなんか久しぶりだ。この世界に来てからは従業員の人が誰かがいる状態でしか入っていなかった。

 そんなことをぼんやりと考えながら周囲を見渡す。


「……広いなぁ」


 なんだろう。常になにかを考えてしまっているような、なにも考えられていないような。頭がぼやけた感じがしている。

 ただ、それでも変なところだけは冷静なままで。


「もう少しでみんな帰って来ちゃうな」


 花火が終わったということは、たぶん夏祭りも終わっている。本会場が高い位置にある神社の近くだから、帰ってくるまでに時間はかかるだろうけど。

 そう思ってしまえばゆっくりできるはずもなく。

 体は温まったからいいでしょ、ということですぐに湯舟から上がる。いくつも用意されているバスタオルを巻いて、床を濡らさないように気をつけながら髪を拭いていく。

 普段はしっかり拭くんだけど、今日はそこまでする気が起きない。床や浴衣が濡れなかったら大丈夫、ということにしてそこそこでやめた。

 他の人はまだ帰って来ていないし、室谷さんも自分の部屋に戻っているようだ。覚えている限りのやり方で浴衣をたたみ、借りた浴衣の返却ボックスに戻す。私も部屋に戻って、今日は早めに寝ることにしようと思う。

 流石に時間が経ちすぎているようで焼きそばはすっかり冷えていた。それでも勝買って貰ったものだから、とちゃんと食べる。ずっと歩いてはいたからお腹は減っていたし、ああいう屋台のご飯はやっぱりおいしい。

 部屋の明かりを常夜灯に切り替えてから布団に潜り込む。


「……時計、また直してもらわなきゃいけないじゃん」


 寝る前にふと見た魂珠時計はちゃんとズレていた。

 色々思うこととか考えることはあるけど。とりあえずは全部、明日の私に任せることにした。たぶん今は色々考える方が良くない。

 布団を肩までかけ直し、沈み込むように眠りについた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る