♯9 心地悪い夢
気がつけば時間は過ぎ、お昼。
少しおさまりかけていた忙しさが厨房を中心に再燃してきている。見ているだけで圧倒されそうな速さと正確さで作られる食事と、それを載せてどんどん運ばれていくお盆。私も他の人たちと一緒に、表と裏を行き来しながら接客をしている。
柚希さんには休んでいてもいいよ、とは言われたけど。その言っている柚希さんが一番働いているわけで。
一時になったら午前働いた人は全員一旦休むようだ。あと一時間と少し。ということで、張り切って働くことにする。
「お待たせしましたー!」
ファミレスとか家族で行く少しいいご飯屋さんの店員ってすごいんだな、って思う。思ったよりお盆は重いし、食器とか湯飲みを落とさないようにすると手が震える。その上で笑顔で接客をするのは本当に難しいなって思った。
そうやって働いている食堂の一角では。
「……あんにゃろめ」
だいぶ早めの時間から隅っこの席を陣取る一人の男。
ぽや、としたなにを考えているのか分からない顔でお茶を飲んでいるのは鶴屋だ。いつの間にか座っていて、いつの間にかご飯を食べていた。
たぶん鶴屋からしたら、お昼だから休みに来た、というだけなんだろうけど。いつも通りの顔より少しだけ気を抜いた感じの顔が、なんか少しだけムカつくというか、気になる。
さっさと食べて戻るというわけでもなく、かなりゆっくり食べているからかもしれない。
……お茶はいつ継ぎ足しているんだろう。結構飲んでいるように見えるのに、継ぎ足している瞬間を見てない。偶然見ていないのかもだけど、そういう所も気になる。
仕事中だから手はちゃんと動かしている。
ただ、視線がどうしてもチラチラ向いてしまっていたのはバレていたようで。
「なにか用か?」
「ひゃいっ! ……って、鶴屋か」
思わず驚いた声を出してしまったものの、それが鶴屋と分かって少しだけ安心した。
と、同時に恥ずかしさからくる恨みの目を向けてしまう。でも鶴屋は気にした様子もなく、淡々と話している。
「いや、用はあるといえばあるんだけど……」
時計のアレンジの事は頼んでみたいなとは思っている。あれだけのカスタマイズのバリエーションを見てしまうと、やっぱり気になるのが女子高生の性だ。
ただ、目標ではあと七日間で帰るのに、そういう事を頼むのはどうなのかな、とも思ってしまうわけで。
その様子を見つつじっと待っている鶴屋の視線に耐えきれず、誤魔化すような話題を振ってしまう。
「えっと、鶴屋はお仕事、どう?」
「順調だ」
「そっか」
会話初心者か、みたいな話題の振り方をしてしまう。
午前中に働いている間、時計屋のある廊下の周辺は通ることがなかった。たぶん、私が見たら思わずツッコミを入れたくなるような仕事を、いつも通りの鉄面皮で淡々とこなしていたに違いない。
時計屋の仕事の大半は、ブレてしまった魂珠時計を直す事だったはず。たぶん、鶴屋が机の端に置いている重そうな箱に、預かっている時計が入っているのだろう。
そこまではなんとなくわかるものの。これ以上どうしたら、と悩んでいると、呆れたように鶴屋の方から話を振ってくれた。
「柚希に昨日の話はできたのか」
「できてない。ずっと忙しそうだし。この後休憩だからその時には話せるかもしれないけど」
空に憧れがあること。演劇の練習をしていたこと。そんな身の上話をする暇は今のところ見つけられていない。
慣れていない仕事で疲れて体力が残っていない、というのもその一因ではある。
「柚希さんも疲れているだろうし、そんな話していいのかなって少し悩んでる。突然他人のあこがれというか、努力みたいな話をされても困るだろうし」
「それは気にしなくていい」
お茶を一口、唇を濡らす程度に飲んで、言葉を続ける。
「柚希は確かに忙しい。だが、それ以上にお前のことも気にかけている。旅館で生活はさせられているけど無理はしてないか、ちゃんと帰れそうかとかな」
「そうなんだ……」
「だから、今の進捗と一緒に世間話の一環くらいのノリで話せばいい。俺には遠慮なしで話しただろう」
「鶴屋だって私に遠慮とかしないでしょ。する人には当然する、というかしちゃう」
良い人や忙しい人相手に迷惑をかけるのはためらってしまう。鶴屋が悪いやつか、迷惑をかけても全く心が痛まないか、といえば全く違うけど、遠慮とかをするもの違う気がするのだ。
「とにかく、柚希もお前のことは結構気にかけている。同性の方が話しやすいこともあるだろ。演劇の話だろうがなにだろうが、適当に話せ」
「適当にってアンタね」
一応、むしゃくしゃして水たまりに思いっきり足突っ込むくらいには悩んでいた事なんだけど。
でも鶴屋が言いたいことは伝わった。どう切り出したらいいのかは全く分からないけど、それでも柚希さんに話してはみようと思う。
「なんかありがと」
「結局お前の用はなにだったんだ」
「あー、えっとですね」
言うか、言わないか、改めて少し悩んで。言うだけならタダ、ダメで元々、ということで依頼だけ出すことにする。
「鶴屋の手が空いているときでいいから、私の時計を可愛くしてよ。時計は時計だけど、でもやっぱり似合うのがいい。これは少しシンプル過ぎる気がするなって」
「作る時に言え。あと時計屋はサービス業でも慈善事業でもない」
言い終ると同時に鶴屋が手を合わせて、ごちそうさま、と言い残して席を立つ。
目の前に残ったのは、綺麗に食べきられた皿が載ったお盆と、ほんのり温かさが残っている湯飲み。
夏の真昼に熱いお茶飲んでいたのか、とか。当然私の仕事だし良いんだけど、それでもこの置いていき方はなんか癇に障るというか。色々な感情がごちゃ混ぜになって渦巻く。
鶴屋はなにも間違っていないんだろうし、当然のことを言っているだけなんだろうけど。
「やっぱ、アイツ、ムカつく」
鶴屋の話も絶対に柚希さんにしよう、と心に決めてお盆を持ち上げた。
その後は特に問題もなく。残りの時間を働ききって、午後担当の人達と入れ替わって、午後のおやすみの時間に入る。
同じく午前の仕事を終えた人たちがぞろぞろと食堂に入ってくる。それぞれで手を洗い、固まった体をほぐすように伸びをする姿がいくつもあるのは、いかにも仕事場、という感じ。
板前さんが作ってくれているお昼ご飯のお盆を受け取って、適当に空いている席に着く。
「……午後も仕事あるの、ヤバい」
食事が終わってから数時間は休みだったはず。でもその後は、夜のバトンタッチの時間までノンストップで働くことになる。
夜までかかるのは仕方ないことだとはいえ。それでも、働くのは難しいし辛いんだな、と実感していた。お母さんたちに尊敬の気持ちが沸き上がってくる。
「隣、いいですか?」
「はい、大丈夫です!」
「ありがとうございます」
ぼんやりとたくあんを食べながらそんなことを考えていたら、不意に隣から声をかけられて驚いた。
声の主は柚希さん。まるで鶴屋との会話の内容を知っていたかのようなタイミングで話しかけてくれたことに驚きつつ、どうぞどうぞ、とゼスチャーをする。。
「お仕事はどうですか?」
「皆さんがとても優しく教えてくれるんでなんとかやれています。困ったこととかは今のところは無いですよ」
「それは良かった」
ここからどう話を繋げたらいいか分からない。
となれば引き合いに出すのはアイツしかいないだろう。私が話をする原因になったんだし、そうやって使われるくらいは許してほしい。
「その、鶴屋に話した方が良いって言われた事があるんですけど……」
「うんうん」
「その……みんなが空を飛べるの良いなぁって思ってて。この世界の人みたいに私って飛べないじゃないですか。憧れがあるっていうか」
なにと言っていいか分からなくて、思いついた順番に言葉を零していく。それを柚希さんはじっくりと、急かすことなく聞いてくれた。
そのおかげで、ゆっくりと話したいことが固まってきた。
「変な話だなぁとは思うんですけど、私そのために演劇やっていたんですよ。その、下手なんですけど。無理なのは分かってても、諦めたくないなぁって」
「良いと思うよ、そういうの。諦めたくはないよね」
そこで柚希が周りを見る。自分たちの座っている近くに人がいないことを確認して、僅かに体を寄せてきた。他の人も多分気がつかないくらいの自然な移動。
そのままの流れで自然と耳元に口が寄せられる。
「小宮さんって、私の登校風景見たことなかったっけ?」
「ないですけど……」
「じゃあ知らないかもだけど、私の翼、実は片方なかったりします」
「え?」
思わず驚いて柚希さんの顔を見る。悲しんだりする風でもなく、見慣れたような微笑み。柚希さんの特異な、少しだけからかうような、美人専用の笑顔。
ただ、言われた内容は、それで流せないほどに衝撃的で。
「じゃあ、どうやって高校に……?」
「鳴に運んでもらってる。……だからね、私も、小宮さんの気持ちは少しわかるの。少し違うかもだけど……」
ちょっとズルいよね、あの人たち。
今までで一番小さい声で、柚希さんが呟く。
たぶんとっくに飲みこんでいるんだろう。その声色に、恨むだとか、そういう黒い感情は一片も存在していない。ただ純粋な羨望でしっとりと濡れている。
「私は幸いにもこの旅館があって、鳴がいる。だからどうにかなってるけど、小宮さんはそうもいかないよね。この世界に来たのにまさか飛べないなんて」
石は持っているのにおかしいよね、なんて続いた。
たぶん何回も考えてきたんだろう。同じようなことを考えて、悩んできたんだろう。そのことが分かって、なんとなく仲間のような気分になる。
「でも演劇かぁ。その手は考えたことがなかったな」
「わ、私だって今では変だなって思ってますよ。演技で空を飛ぶ人の真似をしても飛べないのは変わらないんですから」
「そう? 私は良い考えだと思ったけど。楽しそうだし、他の人になれるのはすごいと思うかな」
「……そう言ってもらえるのは嬉しいです」
そっか、他の人にもなれるんだ。空のことばっかり考えて、他の所に目なんて向けていなかったから。
飛んでいる鶴屋を見て、もしかして私も、って思った。
お風呂と布団の中で背中を触って、恥ずかしいけど鏡まで使って背中を見て、落ち込んだ。
現状はなにも変わっていないし、解決も進展もしてはいないけど。それでも一緒の人がいるというのは、なんだか勇気を貰えた気分になる。
「小宮さん、もしよかったらいつか、私にも演技を見せてね」
「下手ですし、見ても楽しくないですよ?」
「見せたいなって思った時でいいから。ね、お願い」
そう頼まれてしまっては断れるはずもなく。見せる機会があれば、ということで了承してしまった。
了承した後で、自分のできる演目も内容もほとんどない事に気がつく。役を演じることの練習しか考えたことがないせいで、いわゆる引き出しというものが少ないのかもしれない。自分をどう変えるか、どうやって別の人を演じるかしか考えてきていない。
というか、演技は大抵、他の人も交えてする物であって。落語とかみたいに自分一人で作品を表現することはあまりない。もしそういう事をする場合は、なにか道具も使いつつやるか、誰でも知っているような有名な作品の独白部分をやるから。
この旅館の中を歩いた時からなんとなく気がついているけど、この世界は基本的には和風なようで、色々なところが決定的に違う。図書館に行ったときにチラッと見えた童話や絵本の作品名は、どれも知らないものばかりだったはず。
もし、その機会が訪れた時、なにをしたらいいんだろう。
「私、頑張ってるようで実はあまりちゃんとしてなかったのかな」
さっぱりわからなくて考えているうちに、気がつけば休憩時間は終わっていた。
再び慌ただしく動き始める従業員たちに混ざって動き始めた頃には、なんとか頭の中から締め出したけど。ちゃんとやっていたつもりで、実は色々なところが足らなかったのかも、なんてことを考えていた。
その後はしっかりと、予定通り夜まで働き詰め。食堂が大人の時間になるまで動き続けた足の裏は痛いし、腕は筋肉痛に苛まれている。
風呂で温めた体を布団に預け、和紙越しに伝わるシーリングライトの淡い灯を見ながら、小さく呟く。
「演じるってなんだろ。誰にでもなれるって、どうやったらいいのかな」
分からなくなって目を閉じる。思ったより体は疲れていたようで、簡単に眠りに落ちていく。
緩い温もりのような感覚の中。ここ数週間の部活の風景が浮かび上がってきた。
「小宮さん」
部長が私の名前を呼ぶのが聞こえる。
台本を持って近づいてくる姿は、どこか、言葉を選んでいるようで。視線を彷徨わせて、言いにくそうに、さっきの演技の感想を伝えてくる。
「小宮さん」
友達が私を呼ぶ声が聞こえる。
先輩たちに言われて回していたカメラを片手に、小走りで近づいてくる。先輩たちが見た後で見せに来るからなにかと思えば、私の演技の部分を再生して見せてくれた。
……どこを見ているんだろう。
先輩が演じる貴公子に話しかける私は、その人を見ているようで、どこか視線が外れている。演じている瞬間はこの上なく見ていたはずなのに。
お嬢様の役はこの上なく空虚。高貴でも、庶民でもなければ、悪役にもなれていない。ただ、私がドレスっぽい衣装を着て、誰でもないなにか演じている。
「小宮さん」
演劇の先生が、眉を寄せながら私の名前を呼ぶ。
「小宮さん」
担任の先生が私を呼ぶ。
「奏」
お母さんが私を呼ぶ。
みんなが、難しい顔で私を呼ぶ。困って、悩んで、その末に、とても言いにくそうに。
努力はしているはず。演劇の動画も、解説もたくさん見ている。スタイルのために運動も増やして、発声練習もして。
学校で置いていかれないように自宅学習の時間も増やした、高校生になってかなり難しくなった勉強について行くべく、ネットの解説動画やサイトも見漁っている。それでも、点数や成績は思ったように上がっていかない。
みんなが私を見て複雑な顔をする。
なにを言うかを考え、私の表情を見ながら、絞り出すように名前を呼ぶ。どう言えば私が傷つかないかを考えてくれているのだろう。
そんな顔をして欲しいわけじゃない。演技を始めた大本は確かに自分のためだけだけど。でも、なら他の人が見てどう思ってもいい、だなんて思っていない。
じゃあどうしたらいいのかも分からない。
物語のお姫様ってなんだろう。私には姫様の友達なんていなければ、実際に見たこともない。せいぜい、外国の皇族の人をニュースで見たことがあるくらいだ。
知らない人を、どうやって演じたらいいんだろう。真似事というか、想像はできるかもしれない。それっぽい話し方もできるかもしれない。じゃあ私の演技でその人が表現できているか、その人になれているか、って聞かれたら、たぶん違う。
物語みたいな経験は、それこそこの世界に来た事くらいで、それ以外はとことん平凡で振うな女子高生なんだ、私は。勉強も運動も必要で、朝は起きなきゃいけなくて、仲のいい子には挨拶をするくらいの普通の人。
ドラマチックな人間の見ている世界なんて知らない。ジュリエットを想像して嘆き声を出すことはできても、それはきっと嘆き声を出している私で、ジュリエットじゃない。
頭の中で響く声と、浮かんでは消える顔が、あまりにも痛い。
『いつか、私にも演技を見せてね』
柚希さんのその言葉が響く。
新しく夢の中で響き始めたその声に耳を塞ぎながら、届かない空を見上げた。
「空、飛びたいな」
夢の世界でくらい許してくれたらいいのに。
どこまでも広がる空を自由に飛べたらきっと、このくらいの悩みなんてすぐに消える。疲れるまで翼を動かして、好きな速さで風の中を遊べたら、きっとそれだけでいいのに。
気がつけば手の中にあった魂珠と、その外側で動く時計を見つめる。
一定のリズムで無機質に動いていたその秒針が、少しだけズレた気がした。
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