♯2 旅館の中を彷徨ってみる


 時計屋を出て数分後。

 本当にすぐ隣にある大きな旅館の裏に案内され、そのまま中に通される。

 厨房や従業員の作業場、荷物の搬入場所などを超えて、女性従業員のロッカールームに通された。


「とりあえず着替えよっか。サイズは私とおんなじくらいで良さそうかな? とりあえずその濡れてる制服は脱いじゃって、洗っておくから」


 その言葉に促されるままずぶ濡れの制服を脱ぐ。流石に、あの小さな電気ヒーターでは暖をとれても制服を乾かす事はできなかったらしい。 

 濡れて貼りつくのに苦戦しつつ脱衣し終えると、全身を拭かれて、髪にドライヤーをかけられる。旅館のロッカールームはちゃんと空調がきいていて、今の格好でもほとんど寒くない。

 その、乾かしてもらっている間。女子だけともなれば黙っていられるはずもなく。


「ねえ、小宮さんの石はなんだった?」

「石? ……ああ、魂珠だったら、ターコイズです」


 一応丁寧に台に置いていた時計を手に取り、その中心を見せる。

 細かく動くいくつもの歯車の向こうに、翠の綺麗な石。私から出た、というのが信じられない。


「ターコイズか、綺麗でいいね。青なのか緑なのかいまいちわかんないけど、青空みたいな色だね」

「空かぁ」


 私の根っこであり、焦がれる先。魂珠が私の魂なら、確かに空の色はしているのかもしれない。……今は、そのことが少し憎くもある。

 そういえば、鶴屋の魂珠は水晶だった。

 となれば柚希のも違うのだろうか、と気になってくる。


「その、柚希さんの石はなんですか?」


 まだ敬語を抜ききるのは慣れなくて、思わず混ざる。


「私のはこれ。ラピスラズリ」


 そう言って柚希が懐から取り出した魂珠時計は、落ち着いた装飾の小さいものだった。

 秒針の途中が僅かに膨らんでいて可愛らしい。見やすい文字盤、その奥に無数の歯車が見える所まで同じ。

 そして、歯車たちの奥に、ちゃんと見えるように配置された群青の石がある。

 夕日が落ちたあとの空のような、落ち着きのある紫。見るだけで落ち着くその石は、どこか丸みを帯びていて、柚希の雰囲気にとても合っている。

 ブレとかズレみたいなものを一切感じない、一定に奏でられる音が心地よい。

 なにというか、この時計全てから柚希さんを感じるような。オーダーメイドってこういう感じなのかな。


「綺麗というか、引き込まれそうです」

「ふふ、ありがと」


 その精緻さというか、小さな芸術とでもいうべきそれに見惚れているうちに、気がつけば私の髪のもろもろは終わっていたようで。

 ドライヤーはコンセントを抜かれて隣の籠に。

 入れ替わるように、柚希の足元には仲居の制服らしい着物と下衣が置かれている。


「小宮さん、着物は着たことある?」

「初めてです」

「おっけー、任せて」


 得意げな顔で柚希が肌着を手に取る。渡され、リードされるがままに袖を通していく。

 なんというか、和服に触れたことがなさ過ぎて、この肌着ですらどう扱ったら良いか分からない。皴も誇りもつけちゃいけない気がしてくる。

 ……というか、たぶんサイズが合っているからなんだろうけど、ゆとりがある場所としっかり閉まっている部分で変に差を感じてむず痒い。


「あの、動ける気がしないんですが……」

「大丈夫、すぐ慣れるよ。従業員用で動きやすい素材でできてるから意外と動けるし」


 汚れとか。


「肌着はまとめて裏で一気に洗っているような物だし、着物の方も二か月に一回くらい新しいのが届くようにしてるから大丈夫」


 気がつけば着物の上衣があっさりと体の前で合わせられていて、手際よく後ろから結ばれていっている。……美人は、手指まで綺麗らしい。美しい白の肌、ピンクの爪が目に眩しい。


「これで上衣は大丈夫。それでっと」

「ひゃぁっ」


 つつ、と柚希の指が腰を撫でる。


「小宮さん腰高いね。いいなあ」

「それ、柚希さんが言います?」


 どうやら下衣の高さの調整のために高さを確認していたらしい。確かにどう見ても腰の位置で結ぶ構造してるけど、いきなり触られるとびっくりする。たぶん私より腰が高い人に言われても、と思わず恨みっぽい声が出たのは許してほしい。

 そんなこんながありつつ、言われるままに腕を上げて腰に紐を回される。私が一度ではわからないような動きで巻きつけられて、結ばれて、思ったよりキツイなと思う間もなく結び目が内側に入れられる。

 軽く手直しや皴伸ばしをされて、姿見の前に連れていかれる。


「似合うね、サイズもピッタリ、よかったよかった」


 自分で言うのもなんだけど、結構似合ってるな、と思うくらいの仕上がりになっていた。

 姿見越しに改めて僅かに整えた後、髪をほとんど飾りのような感じで小さく纏められる。そのおかげで従業員として締まったというか、いかにもらしくなったと思う。働いたことも着たこともないのにどこか着慣れている感じ。


「これで働くんですよね?」

「うん。とは言っても、今日はとりあえずこれを一人で着れるようになってくれたらいいからね。紹介とか、お仕事を覚えるのは明日から」


 それを聞いて少しだけ安心した。万が一、この後すぐに接客とかをやることになっていたら頭が爆発してしまう。

 第一、紐でしか留まってない服で人前に出るのは、ちゃんと着付けてもらったとはいえまだ怖い。肩とかに重さは感じるのに、袖とか背中がスース―するというか、どこか軽くてドキドキする。

 洋服との違和感が凄い。


「えっと、じゃあ私は今日のお仕事に行ってくるから、ここで着替えの練習していてね。やり方の書いてある紙と着替え用の浴衣はここに置いておくから。慣れたら旅館の中を見回っていいからね」

「あ、はい!」


 思わず返事をする頃には柚希さんは既に出入り口の側にいる。髪を纏めて、仕事人の顔になっているその後姿を見送る。

 扉が閉まると同時に、部屋の中が嘘みたいに静まり返った。

 紐をほどき、やり方通りに気を付けてたたみ、そして一息。持ってきてもらった時のようには畳めず、袖や裾が大いにずれている。直そうとしても、こっちを戻せば向こうが撚れた。

 やっとの思いで整えたそれを、また肌着から崩して袖を通していく。


「……」


 変な日だ。

 随分久しぶりに感じる一人の時間が、着替え。しかも、着慣れていない和服を、こんな大きな旅館のロッカールームで。なにをしているのかさっぱりわからない。

 とにかく、できるだけ無心で。できないけど。淡々と、着ては脱いでを繰り返す。

 ……変なところが多い世界だけど、思ったよりも元の世界と同じで助かった、っていうのが本音かもしれない。

 地面は浮いてるし、あちこちに浮島が漂ってるし。下側に空があるし、地面がない場所も地平線上は歩けちゃうし。水たまりから時計屋に行くまでに見た限りだと、みんな翼があって平然と空を飛んでる。ついでに、自由に出したり仕舞ったりしてる。

 かと思えば、時計が個人の持ち物で一番大切って。


「時計って、こういう細工のあるやつって高いものだと思ってたんだけど。この世界だとそうでもなかったりするのかな」


 鶴屋と柚希さんの見せてくれた時計も、駆動部と石は見えるようになっていた。私が作ってもらった、いかにもノーマルデザインです、ってやつも同じ。

 たぶん、わざとそうしているんだと思う。魂珠が人ごとに違って、それが時計の動きとかに影響を与えるって言っていたはず。本人の心理状態とか、体調で動きが変わるって。

 つまり、たぶんそっくりそのままじゃないけど、魂珠はその人自身みたいに思われているんだと思う。だから、それが見せられなかったり隠れている人は信用ができない、みたいな。


「ターコイズ、かぁ」


 アクセサリーとか、宝石の一種ということで名前は知っている。

 でも見た目は知らなかった。教えてもらうまでは、この石が脆いことも知らなかった。


「みんな宝石とか鉱石持ってるって思うと変な感じ」


 細工されている時計もそうだけど、宝石だって値段をつけたら普通は高いし、持ち歩く物じゃないと思う。常識とか感覚の違いなのかな。

 そうやって、結局色々考えつつ繰り返すうちにだいぶ着替えに慣れてきた。皴や縒れを完全に無くせたりはしていないけど、少なくともこの着物なら一人で着付けができると思う。

 そうなると、途端につまらなさというか、退屈さが出てくる。仕事だし慣れないといけないとは思うんだけど。


「……旅館の中、見回ってもいいって言ってたよね」


 着物だと従業員に間違えられるかもしれないから、ということで最後の着替え。

 仕事用の着物を脱いでたたみ、隣の籠に置いてあった浴衣とその着方が書いてある紙を見る。白と水色が基調の、柔らかそうな色合いだ。

 どうやら、さっきの着物とは上下が繋がっているところ以外はほとんど変わらないらしい。これなら、間違えずに着られそう。

 さっきとはまた少し違う肌触りで、僅かに重くなったのを感じながら身に着けていく。

 慣れもあるのだろう。大きさのせいで多少は手間取りつつ、それでもあっさりと着替えを終える。姿見で乱れがないことを確認して、なんとなく部屋の中を見わたす。


「書き置きとか、できないよね」


 ペンも紙もない。鞄とかは、濡れているからということで制服と一緒に柚希に預けたはず。用意してあるわたし用の部屋に置いてあるんじゃないだろうか。

 多少引き出しの中とかを確認して、やはりロッカールームなだけあってそういうものは置いてないのを確認した。

 となれば仕方ない。困ったら従業員を探すか、この部屋に戻ってきたらいいはず。

 支えや保証になる物がない、どこか冒険のような気持ちでドアノブを掴んで外に顔だけを出した。


「改めて見ると、大きいなぁここ」


 廊下の広さはそうでもない。ただ、真っ直ぐで長いし、その脇にいくつもの道が繋がっているのがよく見えるし、そこをなに人もの従業員が出入りしている。

 当然従業員たちはみんな統一された色の着物や作務衣。その中で一人だけ浴衣でここを通るのは、ちょっと、恥ずかしい気もする。

 今からでもロッカールームに戻ろうか。

 そんな考えが浮かんできて、ドアノブを掴んだままだった手に力が入り始めたその瞬間。


「あの、なにかありましたか?」


 と、後ろから声をかけられて飛びあがった。

 目の前をなに人も従業員たちが歩いているのが見えるのだ。そりゃ、後ろにもいるだろう。しかも、その人からしたら、客用の浴衣を着た人がなぜか裏側にいるわけで。人に声をかけられたのは至極当然なんだけど、驚いてしまった。


「あのっ、はい、その……迷い込んじゃいまして」

「迷い……?」


 バイトの子らしい、同年代っぽいその少女が首を傾げる。そりゃそうだ、迷うにしても裏に入ってしまう人はまずいない。

 ただ、そこまで深く気にしないというか、深くは追及をしないでくれるようで。


「えっと、たぶん表の方に戻れたら大丈夫ですよね。ご案内しましょうか?」

「お願いします!」


 仲居さんの後ろについて、本当に長い廊下の中を歩いていく。

 板前さんとすれ違い、いくつもお盆を重ねて持っている人とすれ違い、何枚も洗濯物を詰め込んで持っている人を見送る。店の従業員とかとは違う、初めて近くで見る、人が全力で働いている姿。この一員に突然なれるのか、という気持ちが強くなってきた。

 そんな風に裏を眺めつつ歩くこと数分。

 従業員用出入り口、と書かれた暖簾付きの扉まで連れてきてもらった。


「ここから出られますよ。館内は大きな柱に案内図があるので、それを見て動いたら大丈夫だと思います」

「ありがとうございます!」


 たぶん、内心どうやってあそこにいたんだろう、とは思われているはず。それを全く出さず、丁寧に教えてくれるのが本当にありがたい。

 しっかりとお礼を言って、近くの柱にもあった案内図にさっそく向かう。

 これだけ広い旅館ということで、当然案内図もかなり大きい。色分けをされて、フロアごとに分かりやすい図にされている。

 今いるのは一階で、二階と施設の奥が個別の部屋になっている。旅館のリラクゼーション施設とかが多くあるらしい。温泉を筆頭に、食堂が複数種類、そして卓球場などの娯楽ゾーン。旅館、ではあるが大型温泉のような事もしているようだ。

 私のような、別の場所からの流入者のためでもあったりするのだろうか。

 置いてあるものをやるかどうかは別として。気になるし近くて行きやすそうだから、ということで娯楽施設の方から行ってみることにする。さっきまで濡れていて寒かったから温泉も気になるけど、今入っていいのかわからないから今回はパス。

 そうと決まれば、さっそく行ってみよう。

 時計だけはちゃんと持って。

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