♯1 埃臭い時計屋


 そのまま、一言も話すことなく歩くこと十数分。

 陸、というよりは浮島にようやく上陸し、下に空が見える不思議な世界がようやく視界に入らなくなった。そこからついでに歩くこと数分、石畳の敷かれた、どこか和風っぽい風景が続く。

 すれ違う人の僅かな奇異の視線を感じ、さらに夏とはいえびしょ濡れで冷えてきた体を僅かに抱きしめつつ歩いていると、大きな旅館の横の建物の前で止まった。

 黒が基調の、シックな建屋。少し黒ずんだ深緑の扉には小さなベルがぶら下がっている。二階建ての一軒家というには少し大きめで、それでいてどこか隠れ家のような雰囲気さえあった。

 なにより特徴的なのは、路地から扉までの間にいくつもの懐中時計をぶら下げた小動物の置物があるところだろうか。

 その家の扉を彼は慣れた手つきで開けて、さっさと入っていく。


「ちょっと、扉を開けて待つとか……!」

「出入り口で待っていろ」

「待ってろって、寒いんだけど……?」


 文句をほとんど行ってからようやく待たされる意味を察した。

 家の中は、沢山の時計で溢れていた。

 掛け時計から懐中時計、無骨な置時計からパステルカラーの目覚まし時計。メトロノームのようなもので動く物から、小人が歯車を回す細工付きのものまで多種多様。おもちゃ箱のような、それでいて宝石箱のような、不思議な世界が心地よいリズムと共にそこにあった。

 つまりは、ここは時計屋で、この部屋はまさしく売り場なのである。目の前にある時計たちは商品で、しかも細工が施されているものばかり。

 歩くだけで水を撒き散らしそうな私が歩くのは、確かにまずいかもしれない。

 ドアの外で服や髪からできるだけ水分を絞り、手渡されたライトグリーンのバスタオルを体に巻く。次々と敷かれる雑布たちの上を歩いて、カウンターの脇を通って店の奥に入っていく。

 いかにも作業場と言わんばかりの雑然さと暗さのある小部屋には、脇によけられた物の隙間に、ポツンと置かれたパイプ椅子と電気ヒーターがある。タオルの敷かれたそこに座ると、ツン、と焦げた埃の匂いがした。

 彼が、そこだけは綺麗にしています、と言わんばかりにさっぱりとした作業机の前の椅子に座って、無言で手を差し出してくる。

 具体的には、手の平に乗せた、翠の石を。


「それ、私がさっき出した……」

「ターコイズだな。これ、加工してもいいか」

「へ? いい、けど」


 加工。時計屋が、石を。ってか、ターコイズって宝石だった気がするんだけど、高校生で加工とかできるのかな。

 そんな私の困惑なんて気にもせず、彼はとっとと道具や素材たちを並べて作業を始めてしまう。加工するとか言ったくせに石は放置してるし。


「名前は」

「え、あ、小宮奏です」

「どうしてあそこにいた?」

「いたっていうか、落ちたっていうか。ひっくり返ったっていうか……?」


 水たまりを衝動に合わせて踏みつけたら突き抜けた、と言って信じて貰えるのかどうか。


「時計は?」

「着けてるけど」


 膝を抱え込んでいた右腕をほどいて、袖をまくり、手首を差し出す。

 高校入学の時から着けている、簡素な、アナログの腕時計。

 それを見たコイツは、横目で一瞬だけ見て。


「こういう時計は見たことがないか?」


 差し出してきた時計は、たぶん、懐中時計っていうやつ。この時計屋の出入り口で動物たちが持っていたのと同じ。

 金縁で、私の手のひらサイズか、それよりほんの少し大きいくらい。簡素な長針と短針が時を刻み、それを無数の歯車が支えている姿が透明の部分から見える。ここまではテレビとかで見たものと何ら変わりない。

 その、歯車の奥。

 懐中時計の中心にある、最初の歯車のくっついた金属部の、その中に。

 綺麗に透き通る、それでいて所々が僅かに白く濁った水晶があった。


「……宝石?」

「そうだ。この時計は、宝石の力で動いている」

「宝石の力って」


 見せたいところは見せたのか、彼が懐に懐中時計をしまう。


「この世界では、生まれた人間は産声と共に宝石を吐き出すんだ。声の栓が抜けるようなものだと思えばいい」


 そういえば、水たまりが踏み抜けた衝撃と突然の吐き気であんまり覚えてないけど、あの時の感覚は、言われてみればそんな感じだったかもしれない。喉を塞いでいた蓋を押し出して空気を通るようにした。

 吐くっていうよりは、そういう感覚だった気がする。


「その宝石は特別な力を持っている。その人が産まれると同時に吐き出され、体調や気分によって変わる不思議な波動を出し、そしてその人の死と同時に砕けるんだ。魂そのもののような宝石ということで、この世界の人は魂珠と呼んでいる」

「その、コンジュの波動? を使って動いてるってこと?」


 そうだ、と言うように頷く。

 大切な魂珠をどうにか肌身離さず持ち歩きたい。ただ、そのまま持ち歩くのは危険すぎるし、かといってガチガチに包み込んでは宝石らしい輝きの意味が無い。何より、波動をどうにか生かしたい。

 その結果、魂珠のケースの役割が果たせて、かつ波動の有効活用ができる方法として時計を作るようになった、らしい。

 そんな、この世界の歴史というか、時計を宝石で動かすようになった経緯を、手際よく時計を組み立てつつ教えてくれた。……名前すら名乗らないくせに、そういう事だけ丁寧に。

 説明が終わった後は特に言葉を続けることもなく。あっさりと黙りこくったソイツを見続けるわけにもいかない私は、部屋を見渡した。

 ただの部屋、と言わざるを得ない。強いて言うなら所々に埃が積もっている。掃除の行き届いていない、使う場所以外はどうでもいい、という意思が見えるような部屋だ。

 ここに来るまでの景色を少しだけ思い浮かべる。雨と暗さに隠れた街は、思ったよりも普通な、ただの街だった。


「……なんか、思ってたのと全然違うなぁ」

「どこかここ以外の世界も知っているのか?」

「いや、知らないけど。でもさ、こういう空に浮いてる島ってさ、なんていうか……広い原っぱと丘があるものでしょ? で、一番高い場所に一本だけ木が生えていて、凄く眺めがいいの。爽やかな風が吹いていて、鳥の鳴き声と鐘の音しか聞こえない、っていうのを想像してたんだけどな」

「どこの世界の話だ、それは」


 私もそう思う。そんな楽園の片隅みたいな場所、漫画の中ですらほとんど見たことがない。

 その話を最後に会話がいったん終わる。

 しばらく、作業と呼吸の音以外が部屋から消えた。

 歯車の填まる音、それに合わせて大きくなる全体の駆動音。

 季節を思い出したように、指が電気ヒーターの熱を訴えてくる。座り方を変えて、芯まで冷えたままの背中が温まるように向きを調節する。じんわりと染み込むような、突然加熱されたような感じが気持ち良い。

 そのまま、椅子の上で体をくるくるとさせつつ待つこと十数分。


「できたぞ」

「ひょわっ」


 ……ちょうど後ろを向いていて、意識してなかったから変な声が出た。友達に驚かされた時ならともかく、コイツにそういう声を聞かれるのはなんか恥ずかしい。

 なんとか椅子の背を掴んで体勢を戻し、声の方向に振り返る。思わず視線が少し警戒を含んで鋭くなってしまうのは仕方ないということで許してほしい。

 彼の手には、正しく新品といった感じの簡素な懐中時計がある。白の文字盤に黒の数字、真っ直ぐの秒針が二本。表からはそれだけしか見えない。

 上にある細いチェーンを以てひっくり返せば、そこには駆動部が見えるようになっている。無数の歯車が絡み合っていて、どこがどう繋がっているのか、どうしてこんなに細かく繋げているのか、さっぱり分からない。

 そして、その駆動部の中心には私の魂珠がある。綺麗な緑のターコイズ。


「お前は、帰るんだろう。元の世界に」

「……当たり前でしょ」

「なら、その帰るまで絶対守るルールその1だ。この時計は自分自身そのものだと思え。信頼できる他人以外に渡すな、無くすな。時計は壊れても直せばいい、中の魂珠は守れ」

「わかった」


 急に空気が少し重くなった気がして、思わず時計を握りしめる。

 ただ、コイツはそんな私は気にも留めず、淡々と道具の片づけをしている。こっちにはもう目もくれない。

 その、あまりにも我関せずというか、仕事をやり終えた感を見て変な気分が盛り返してきてしまった。

 変な世界に来て、びしょ濡れになって。息をつく間もなく宝石を吐き出して、足の下に空があって。助けてくれる人がいたかと思えば、有り得ないくらいに不愛想。一応この人は時計屋で、当然ながら接客もするはずなのに、普段はどうしているんだろう。

 そんな、違和感と不安感が綯い交ぜになった浮遊感が、私をどうにか突き動かそうとしてくる。あっさりと片付けを終えてどこかに行こうとする背に向けて、声を絞り出した。


「ちょっと、待って!」

「なんだ。時計は作っただろ」

「自己紹介とか、その、いろいろ全然分かんないから、その……!」


 何を言うかなんてまったく決めていないから上手くまとまらない。

 なにか話さないと。ってか、未だにコイツの名前すら知らない。このまま放り出されたら、たぶんなんにも分からないままどこかで倒れる。


「……名前とかいろいろ、教えてよ」

「名乗ってなかったか?」

「知らないよ! 名前も年齢も!」

「鶴屋鳴。十七歳、学生」

「めっちゃ堂々としてるから結構年上なのかなって思ったら一年違いだったし。何か少しだけエラソーって思ったら本当に偉そうなだけだった……」

「お前は最初から遠慮とか無かったな」


 うぐ、と少しだけ言葉が詰まる。

 鶴屋の態度はともかく、自分がかなり無遠慮だったのは認めざるを得ないからだ。失礼なことも言ったかもしれない。というか正直、よく覚えていない。

 その、ようやく落ち着いたせいで不安になっているのはお見通しだったようで。


「なんでこうなっているのか、どうしたら帰れるのか。俺は信用できるのか、元の世界はどうなっているのか。今日、この後どうしたらいいか」

「……」

「とまあ、そういった諸々を考えたり調べるのは後だ。生憎の雨だしな。最後の、この後どうしたらいいかだけ準備はしてある。……柚希、入ってきていいぞ」


 ユキ、と落ちた場所でも聞いた名前が呼ばれると共に、控えめに作業部屋の扉が開かれる。

 入ってきたのは一人の女子。

 長い黒髪を首のあたりでまとめて邪魔にならないようにしている。紅唐色の着物に代赭色の下衣を穿いている、いかにも仲居らしい装いの少女だ。

 歳は恐らく鶴屋と同じくらい。小柄な顔とはっきりとした目が可愛い。


「鳴、流石に愛想がなさ過ぎだよ」

「愛想ねえ」


 困ったなあ、とでも言いたげな表情で鶴屋を見ている。

 ただ、言っても聞かないらしく、柚希はさっさと諦めてこっちを向いた。和服の似合う美人と視線が合うのは、正直、困る。どんな反応が正しいのか分からないし、なによりまともに話せる気がしない。


「えっと、アナタがこっちの世界に来ちゃった人ですよね。私、この時計屋の隣にある旅館の娘の中野柚希です。鳴と同じで、十七歳です」


 よろしくお願いします、と礼儀良くお辞儀をされて慌ててお辞儀を返す。なんとか名前と年齢だけの簡単な自己紹介を返す。

 にしても、二人とも十七歳か。私の一つ上。


「小宮さん、よろしくね。で、一つ提案なんだけど……元の世界に帰れる時まで、私の旅館で働かない?」

「旅館で、ですか?」

「うん」


 旅館。

 仲居さんがいて、食事が出てきて、温泉がある感じ……ということしか知らない。行ったことなんて無いし、そもそもどこにあるのかも知らない。

 第一、通っている高校はバイトが禁止だから働くということをしたことがない。

 そんな風に悩んでいると、横から鶴屋が口を挟んできた。


「……二週間後、星拾祭というものがある」

「星拾祭?」

「一年に一度、世の中の安定を祈願する祭りだ。この時期崩れやすいバランスや色々な均衡を、祭を通した儀式で整えるのが目的なんだが……お前がこの世界に落ちたのは、このバランスの揺らぎのせいだろう」


 その揺らぎの間、文字通り世界が不安定になる。

 私がこの世界に落ちたように。


「その間、拾った人間を宿なしのやることなしで放り出すほど酷で変な世界じゃない。かといって、そのまま何もしなくていいわけでもない」

「だから、帰る方法が見つかるまでの間、私の旅館で居ていいよ、っていう話です。その代わり、ちょっと従業員として働いてほしいなって。ちゃんとやり方とかは教えるので」


 ……鶴屋は学生服だし、この二人は私と同じ学生なのだろう。

 なら、この夕方とかの時間帯はともかく、日中まで私に構っていられない。じゃあ私が日中動き回って帰る方法が見つかるかというと、たぶん難しい。

 だから、泊まる場所を決めつつ、どうにもならない時間にやれることを用意してくれているのだろう。


「よろしくお願いします。働いたことなくて、迷惑かけると思いますが……」

「いいよ、大丈夫。最初はみんなそうだしね。あと、敬語もいいよ」

「というか今更敬語にするな、違和感が凄い」


 この男は、遠慮とかそういう言葉と無縁なんだろうか。でも、そう言うのなら少なくとも鶴屋には絶対遠慮とかしない。

 ──何はともあれ。

 元の世界に変える方法はわからず、助けてくれたのは翼がある人たち。

 魂珠時計とかいう分からない物も増えるし、旅館で働かないといけないし。正直、何が起こってるのかほとんど分かっていない。地面が浮いてるのも、下にも空があるのも、理解できない。

 それでも。まず、間違いなく。

 ここは、元の世界よりは空に近いはずだから。なら、折れるわけにはいかない。


「じゃあ、行こっか」

「はい! ……あ、ところでさっきの帰るまでのルールって、時計を大切にする以外に何かあったりするんですか?」

「ああ、それね」


 鶴屋と柚希が、一拍置いて。


「夜にできるだけ出歩かないこと。特に灯のない場所はダメ。徘徊者……わかりやすく言うと怪物に喰われるよ」

「あとは世界のバランスを乱さないようにすることだな。なんせ、この時期はさっきも言った通りかなり揺らぎやすい。長年この世界に居る俺達でも何が起きるかわからん」

「…………」


 なんというか、その。

 折れないって決意を、折らないように頑張ろうと思った。

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