夏とラムネと、空の音

棗御月

prologue──空と空の境に落ちる


 空に憧れたのは、いつだっただろう。


 小さい頃に男子に混ざって遊んでいた時にはもう、ぼんやりとこの感覚を持っていたと思う。小学校の少し高い場所から飛び降りる度胸試しは、足が痛いし、怖かったけど、それでも楽しかった。テレビでパラグライダーの特集をしていた時は齧りつくように見ていたのを覚えている。

 女子高生になって、何かに挑戦しようと思った。

 相変わらずどこかで空に近づきたい気持ちは変わっていない。小さい頃にドキュメンタリーか何かで見た、演技者は何にでもなれる、という文言につられて演劇部に入って、一から勉強をした。学生生活のなかで、視線を向ける事さえ稀だった技術書なんかに手を出して、ドラマを見漁って。人一倍、努力をした、はず。

 ……はず、だったんだけど。

 あるレベルから成長している気がしなくて、私は何にもなれないでいた。

 私の台詞はどこか空々しくて、中身がない。それっぽい言い方をしているだけ。役に入り切ることも、それっぽい何かになることもできていない。同級生達はとっくに得意な分野を見つけていたりするのに。

 せめて、才能がないと割り切れるならともかく。小道具づくりには、興味が持てなくて、別の道すら見つからない。

 クラスで会う中学の時からの友達は、気がつけば想像以上に「女の子」をしていた。校則の範囲で髪を巻いて、染めたりしてる。休み明けやSNSでは、どこに行った、どこで遊んだ、って話してた。

 まるで、一人だけ全てに置いていかれているような。そんな気がしてしまう。

 雨だからかな。気分が落ち込んで、良くないことを考えたくなっているのかも。夏のくせに冷たい雨なんか降らせてさ。湿気で変に靴が止まるから、今日の練習でも盛大に転んだし。雨のせいだ、全部。

 そんな、理不尽なイライラをぶつけようとして。

 目の前の大きな水たまりに向けて、力強く右足を踏み込んで。

 そのまま、足が地面を突き抜けた。

 

 ぐりん、と回る感覚に襲われる。


 抵抗なんてできない。

 踏み込んだ足が水たまりごと地面を突き抜けて、真反対に突き抜けたような不思議な浮遊感。そのまま全身が水たまりに落ちて、腰も濡れて、顔が突き抜けて、体を支えていたはずの左足が浮いて、体全体が浮遊感に包まれて──ついでに尻餅をついた。

 思わず閉じた目。衝撃をもろに受けて、胃が、揺れる。


「う、ぇっ」


 喉が詰まるような感じがして、反射的にそれを吐き出した。妙に重いそれは、反射的に受け止めようとした指の隙間を抜けて落ちていく。

 パニックになりつつ視線を向けた先に、力なく転りながら遠ざかっていく小さな物があった。

 口から出た、青のような、翠のような綺麗な塊が、いつの間にか手から離れていた傘の元まで転がっていく。

 思わずそれを追いかけようとして。


 雨が波紋を作る足元の水たまりの下に「空」があることに気がついて固まった。


「落ちっ……⁉」


 反射的にあわあわと手を動かして、掴むものがないかと周りを見渡して、ようやく自分が空に落ちていないことに気がつく。不思議なような、有り得ないような感覚に襲われて動けないまま座り込む。

 そこで、水を踏む音が聞こえた。水たまりを歩く、足音。

 その音の主はゆっくりと近づいてくる。


「本当に変な踊りをしている奴がいるとは思わなかった。しかも境界から出て来るとは。……柚希の勘は本当に怖いくらい当たるな」


 その、妙に落ち着いたぶっきらぼうな声の方向には、一人の男子がいた。

 どこかの高校の制服に身を包み、黒い傘を差しつつ似合わない和傘を持って、つまらなさそうに立っている。

 もう一つの傘はいらなかったな、とつぶやきつつ私の傘と翠の石を拾う彼はどこまでも普通。そこらの道ですれ違いそうな、そして駅のホームですれ違っても特別覚えようとしなさそうなくらいに普通。

 その背中に、薄く光って揺れる翼があること以外は、どこまでも。


「濡れたいなら好きにしてくれ。柚希に言われたから来ただけで、本当に面倒なんだぞ。放置して帰っていいならそうするが」


 その、あまりに不遜というか、適当な態度と言い回しがどこかカチンときた。

 勢いよく立ち上がって、その手から傘を受け取る。何も言わず、どこかに翼をしまってさっさと歩き始めるその背について行く。足の下に空が見える水たまりの上を歩くのは変な気分だったし、踏み込むたびに少し沈む感覚には全然慣れなかったけど。


 ──この時は怖さみたいなものを感じなかったな、と思ったのはずいぶん後になってからだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る