第7話

 全て和也のため。幼少の頃から両親にそう言われて育ったと、彼は話した。


 学校も、習い事も、友達づきあいも、買うものも、着るものも、食べるものも、全て決められているのは和也のためなのだと。


 窮屈なことは確かだったと、和也は話す。だが窮屈と思うことも許されていなかったと。自分が幸福なのか不幸なのか、考える余裕もなかったと。


 毎日夜遅くまで勉強を強いられ、朝早くから走り込みなどの体力強化の鍛錬を強制され、幾多もの習い事を掛け持ちする。そんな日々だったと振り返る口調は、悲痛にも哀惜にも満ちていなかった。ただ無感情に、そうであったという事実を淡々と述べていく。


 限界を超える生き方を強いられてきたのだから、当然器用にそれらを回していくことなど出来ないだろう。だが、「出来ない」は決して認められなかった。


 少しでも期待に添う動きをしなければ、出来ない子だと責められた。それを和也はノルマと喩えた。

 成績、人付き合い、日々の態度や行動、思想など、それらは多岐に渡った。ノルマを達成しても褒められないが、ノルマに届かなかったら罰を受けるのだと。


「子供の頃は、罰として何度も物置小屋に閉じ込められました。暑くても寒くてもお構いなしです。昔、真夏に閉じ込められた時、熱中症で倒れたことがありまして……。あと一歩遅かったら死んでいたでしょうね。ですが父も母も、僕が弱くて根性がなかったせいだからと、それだけしか言いませんでした」


 星を見上げながらそう言った和也は、うっすらと笑っていた。力の無い笑い方だった。


「トンネルで事故に遭ったことも、僕が悪いんだと思ったでしょうね。父も母も。少なくとも、もし僕が生き残ってたら、そう言われてたと思います」


 そんな、と和也の隣に座る玲子が小さく漏らした。更にその隣に座る秀平は、何も言わなかった。


 やがて、自分の好きなものも嫌いなものもなんなのか、どんどんわからなくなっていった。和也はそう話した。


「本当なら、あの熱中症で倒れたとき、僕は死んでいたのでしょう。でも、どういうわけだか生きてしまった。……毎日毎日、同じような日々だったんですけど……ある日、少しだけ、そんな日々が変わったんです」


 それが、歌との出会いだった。自分にとって、唯一心が安らぐ時間だったのが、歌を歌っているときだった。そう話した和也は、微笑んでいた。本当に幸せそうに、笑っていた。その笑顔が次の瞬間、かき消えた。


 和也は、趣味を持つことも禁止されていた。そんなのは生きていく上で時間の無駄だというのが両親の言い分だったそうだ。人生は短いのだから、和也には時間を有効に使ってほしいのだ、と。


 そんな両親が、歌や音楽を趣味にすることを了承するわけがなかった。和也の歌は下手の一言で一蹴された。歌などやっても稼ぎになんてならないのだから、やるだけ無駄だと厳しく咎められた。二度とそんなことにうつつを抜かしてはいけないと、きつく警告されたという。


「……聞いておけば良かったです。両親の言うこと」


 和也はゆっくりと背を屈めた。自分の喉を覆い隠した。全身が震えていた。和也の体は震え続けているのに、目は無機質で、何も映していなかった。


 和也は、それでもこっそり歌っていたある日、両親にばれたことを打ち明けた。


 歌を歌い続けるというなら、二度と歌など歌えない喉にすると言われたこと。そして喉に、熱湯を注がれたこと。そう語った。


 以後、歌わないようにした。掠れた声で、和也は言った。


 自分の中から、歌を追い出した。歌うことそのものを、忘れようとした。そうしなければ、自分の中の歌を守れないから、と。


 しかし、忘れられなかった。どうしてもまた歌いたくてたまらなくなった。まるでそう思うのが悪いことみたいに、吐き捨てるような口調で和也は言った。


 誰にも見つからない場所で一人歌おうとして、その日和也はバスに乗った。差し掛かった旧藤野峠隧道で崩落事故に巻き込まれ、死んだ。


 話が終わったとき、絶句する玲子の顔は青ざめていた。秀平はきつく口を結び、険しい表情をしていた。


「怖いんですよね、僕。成仏して、あの世に行って、そして生まれ変わることが。多分生まれ変わっても、きっと僕は、何がしたいのかずっとわからないままだろうから。そんな状態で生きても……って、思っちゃうんです」

「歌うことは……?」


 玲子がそっと尋ねた。和也は緩く首を振りながら苦笑した。


「歌は、なんていうか、心の安定剤みたいなものだから。それに僕下手だからね、生まれ変わってもやりたいなんてことは……」


 玲子は何か言いたそうに、口を開けた。しかし、何も言わなかった。俯いて、膝の上に乗せた拳をきつく握りしめ直した。

 和也は顔を上げ、遠くに見える町の明かりを、ぼんやりとした目で見つめた。


「あの光で生活している人達は……いや、この世界で生きる全ての人達は……皆、自分のやりたいことがなんなのか、わかっているはずなんですよ。誰でも出来る当たり前のことが、僕には出来ない。さっき、悪霊になりかけて、二人に迷惑かけちゃいましたしね。死んではっきりわかりました。僕は、人間の失敗作です」

「和也くん」


 そのときだった。秀平が立ち上がり、和也を見下ろした。


「君を、占っていいだろうか」

「えっ……?」

「玲子、手伝ってくれ」


 目を丸くする和也を置き、狼狽する玲子を連れて、秀平は公園の外に止めているレンタカーまで進んでいった。


 トランクから取り出したのは、折りたたみ式のテーブルと椅子。そして鞄だった。和也のもとまで戻ってきた秀平が、鞄を開けて中身をどんどん取り出していくと、鞄の中身が紫色のテーブルクロスや灯籠、水晶玉ということが判明した。秀平が占いの仕事をするときに使用する道具一式だった。


 立ち上げたテーブルを挟んで椅子を向かい合わせるように置き、テーブルに布をかけ、水晶玉を置き、灯籠型のランプのスイッチを入れる。ぼんやりとした橙色の光が灯るなか、椅子に座った秀平は、正面の誰も座っていない椅子を手で示した。


「どうぞ」


 和也の目を見ながら、静かな声音で、秀平は促した。和也は迷っているのか、しばらく固まっていたが、やがてそろそろと、慎重な足取りで近寄り、椅子に座った。


「占ってほしいことなんてないですし、そもそもわからないんですよ」


 居心地悪そうに肩を縮める和也は、どこか憮然としている。だが秀平は首を左右に振り、毅然と言い放った。


「結構ですよ。私が、勝手に占いますので」


 秀平の口調が大きく変わったことに驚いたのか、和也は目を丸くした。


 勝手に占うと言ったとおり、秀平は和也を放って、水晶玉の上に両手を掲げた。ゆらゆらと揺蕩うように手を動かし、弧を描きながら、聞き取れない声で何やらぶつぶつ呟く。


 じっと目を閉じている秀平は、時折一瞬眉間に皺を寄せたり、手の動きを止めたりなど、仕草に緩急をつける。それが実に、“らしさ”を醸し出していた。


 厳か、神秘的、不可思議。今、秀平が纏っている空気は、そういう類いのものだ。普段の秀平には程遠い位置にある空気。それを今、彼は着こなしている。


 秀平が、静かに目を開けた。


「ふむふむ。なるほど。なるほど。……見えましたよ、和也さん、あなたの未来が」

「未来?」

「今私が占いましたのは、和也さんの未来です。正確には、和也さんが生まれ変わった後、どんな未来を送るか、です」


 秀平はゆっくりと、人差し指を立てた。


「この水晶玉によりますと――あなたは、生まれ変わった先の未来で、数えきれない程多くの“やりたいこと”を見つけます。その見つけた“やりたいこと”を、あなたはどんどんやり遂げていきます。それが大きな事でも、小さな事でも、意味のあることでも、意味のないことでも。

……いえ、違います。本来、意味のないことなど、何もないのです。和也さんがやりたいと思った時点で、そのやりたいことは、意味のあるものに変わりますので。そうして和也さんは、時間がいくらあっても足りないほどの、やりたいことを見つけていき、行動に移していきます。水晶玉は、一日一日を幸福に過ごすあなたの、眩しい笑顔を見せてくれましたよ」


 雫が滴り落ちていくように。秀平は、とうとうと語って聞かせた。それを聞く和也は、言葉を失っていた。

 はくはくと口を開け閉めしているところからして、何か言いたいことはあるのだろう。しかし、二の句が継げない。そんな状況に陥っているのだろう。


「どうでしょうか? 成仏してみるのも、案外悪いことではないのでは?」


 ところが秀平がそう笑いかけたとき、我に返ったように眼を険しくさせた。素早くかぶりを振り、「いんちきだ」と断言する。


「そんなの有り得ない。そんな未来、起こるはずがない。そんなの、どう生きていけばいいと」

「そうそう、もう一つ。生まれ変わった和也さんはですね、私達と、もう一度出会います」


 なんてことのないように、あっさり秀平は言った。両目を伏せ、水晶玉に両手を添える。ぴくりと和也の動きが硬直した。


「私達ともう一度出会って、そして、仲良くなります。友達になります。友達になって、毎日をもっと楽しく、幸せに過ごします」


 秀平はついと視線を上げ、固まっている和也と目を合わせた。


「幽霊は基本、ものを食べることが出来ないからな。もう一度会えたら、僕と玲子と一緒に、美味しいものをいっぱい食べたりとかしたいと思っているんだが、どうだい? ほら、僕が作った料理も食べてみてほしいしな! 料理の腕にはそこそこの自信があるんだぞ!」


 快活に笑った秀平は、声音も口調もすっかりもとに戻っていた。先程の占い師の秀平が幻の姿だったと思うほどの変わりようだった。

 だが、幻でないことは確かなのだ。占い師の秀平が語った言葉は、和也の中に根付いている。


 違う、と和也は首を振った。力の無い振り方だった。嘘だ、とも続けた。震えた声だった。


「そんなの、嘘に決まってます。だってこの水晶、ただのガラスにしか見えないですし」

「おいおい、和也くんは疑うのか? こうやって、普通に幽霊の君と会話を交わす程には霊感のある僕の力を」


 秀平は、おどけたように肩をすくめた。だが、すぐに姿勢を正し、真剣な眼差しを和也一人に届けた。


「和也くん。生まれ変わった君の人生は、光に溢れたものになる。希望に満ちたものになる。道を阻むものは何も無い。占ったら、そんな未来がすぐに見えたよ。確かに、見えたんだ」


 頼もしさを感じる言葉を紡いだ秀平は、にっこりと微笑んだ。


 和也は、嘘だ、と言った。続けてもう一度、同じ言葉を口にした。だが二回目の「嘘だ」は、最後まで発せられることなく、その言葉尻は夜の闇に溶けて消えていった。


 背を丸め、項垂れた和也の頭に、秀平の手が乗った。そのまま手を、左右に優しくさすった。


 少し離れた場所で二人を見守っていた玲子が、小さく息を漏らした。


「守護霊さん。話、聞いてないかもしれないけど……」


 私に対して話しかけられた言葉に、私は玲子の頭を見下ろした。


「今わたし、お父さんがとても格好いいなって思ったよ」


 私は笑い、首肯した。彼が私の子孫で良かったと。なんと面白い占い師なんだろうと。呼び出されて良かったと。心の底から思った。


 風すら空気を読んだように、静かに吹く。そっとざわめく草木の音に紛れて聞こえてきたのは、ある一つの音色だった。


 先程と全く同じ歌詞、曲調だった。なのに、違った。先に歌ったものよりも、ずっと澄んでおり、ずっと伸びやかで、そして自由だった。


 わずかに震える声で、夜風に歌詞を乗せ、虫の音色と共に、星空へと一つの曲を鳴り響かせる。

 現実の世界にいるようで、現実から離れた世界にいる。そんな錯覚を抱かせた。呆然とする秀平も玲子も、きっと同じ錯覚を見ていることだろう。


 顔を伏せたまま、和也は歌った。最後の一小節まで歌いきっても、和也のもたらした音の魔術の効果はしばらく漂っていた。私の頭はぼうっとしていた。秀平も玲子も、夢見心地な目をしていた。


「やりたいこと、見つかりました。今」


 和也が口を開いたのは、少し経ってからようやく目が覚めてきて、現実世界が輪郭を取り戻した頃だった。彼は無表情だった。


「僕、もっと歌いたい」


 絞り出すように、その声は紡がれた。しかし、そこに弱々しさはなかった。欠片もなかった。和也は顔を上げた。真っ直ぐな目は、両方とも潤んでいた。


「もっと、歌いたかった。秀平さんと、玲子ちゃんと一緒に、歌いたかったです。守護霊さんとも」

「おおっと。玲子はともかく僕はなあ……。昇明さんも喋れないし……」

「歌、練習しなきゃだね。和也さんがこう言ってるんだから。守護霊さんは……観客になっちゃうかな?」


 首を傾ける玲子に、安心してほしいと伝えたい。私が観客になるからには、最高に舞台を盛り上げる観客となろう。拳を胸の辺りに当てて軽く体を反らすと、私のことが見えている秀平は苦笑いを浮かべた。そうしてから玲子を手招きし、自分の隣に立たせる。

 和也は秀平と玲子、二人を交互に見てから、まなじりを決した。


「だから。生まれ変わっても、また歌います。僕」


 芯を感じる、堅い声。ところが一転、突如和也は落ち着かなさそうに視線を下げた。


「また歌いますから……僕にまた、会いに来てくれますか?」


 語尾の小さい、自信なさげな和也の問い。問われた相手が何と答えるか、それはもう決まっているようなものだった。


「ああ、もちろんだ。探し続けるよ、和也くんのこと」

「わたしもです! というか見つけた後も、和也さんの追っかけになっちゃいますからね!」


 和也は二度三度、瞬きを行った。その後、笑った。目を細め、口元を緩ませ、顔を綻ばせた。


「良かった」


 和也の声は、言葉通り、心の底から安堵しているとわかるものだった。


 その彼の姿が、徐々に、透明になり始めた。あ、と声を上げた玲子が、慌てて口をつぐんだ。


 少しずつ少しずつ、向こう側の景色が透けて見え始める和也は、まだ笑っていた。その目には、涙が浮かんでいた。玲子は片手を挙げ、左右に振った。秀平は何もせずただ、和也に笑みを送り続ける。


 大きく風が吹いた。公園や、峠の木々を激しく揺らめかせながら、風はその場を走り抜けていった。


 その風にかき消されたようにして、もしくは、その風と一緒に連れ立って、和也の姿が消えた。


 パイプ椅子には、誰も座っていない。どこを見ても、和也という名前を持ってこの世に生きていた人間の姿は、見当たらない。


 けれど一瞬、本当に一瞬だけ、和也の歌声が、聞こえたような気がした。

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