第6話
その夜。秀平は再び私と玲子と和也を乗せたレンタカーを走らせ、「藤野峠」に向かった。
和也が、自分が死んだ当時バスに乗っていて、終点を目指していたことと、その終点が「藤野峠」の頂上だったことを話したためだ。
そのバスはもう廃線となっていたので車を使い、昨日とは違って今日は「新藤野トンネル」を通り、藤野峠の頂上に向かった。
辿り着いた頂上には公園があった。といっても、遊具などは置かれていない。木で出来た欄干と、山の上からの風景を眺められるよう並んで置かれた数台のベンチと、弱い明かりを放つ電灯が一つ配置されているだけだ。
この高台の公園は、町の景色と星空を同時に拝めるものの、あまりに何もなさすぎるからか、私達の他に人は一人もいなかった。
「この公園、僕が生きていた頃も、人が全然来ないって、噂に聞いてたんです。だから僕、あの時、ここに行きたいなって思ったんですよ。……秀平さんと同じような感じです。一人になって、ぼうっとしたいなあって。ぼんやりそんなことを思いながら、バスに乗ったんですよね。昼間の秀平さんを見て、ふと思い出しました」
和也はゆっくりと、欄干に向かって歩み寄っていった。暗い世界がずっと続くなか、遠い眼下に、小さな光の粒が混ざり合っている。町の明かりが、鮮やかに夜景に浮いていた。
和也の目が細められる。町明かりを眺めているようにも思うし、どこも見ていないようにも感じられる。和也は額に手を当て、緩く頭を振った。
「……やっぱり、これが未練だとはとても思えないですね。ごめんなさい。違ってました。我が儘言ってしまって、申し訳ないです」
「こんなの、我が儘のうちに入りませんって!」
秀平が口を挟む前に、玲子が前に出ていった。
「一つでも、やり残したことを思い出しただけ、凄い進歩だと思いますよ!」
「ううん、そんなことないよ。こんなの、普通のことだ」
無理矢理作ったような笑みを浮かべた和也は、そのまま顔を上げ、それきり動かなくなった。何があるのだろうと上を向いてみる。暗い空に目が慣れてくると、段々と小さな光の瞬きが、視界に映るようになっていった。
ちかちかと星が瞬く音が聞こえてきそうで、耳を澄ませてみる。瞬きの音は聞こえてこなかったが、その代わり風に乗って、別の音が耳に届いた。
それは音楽だった。風に紛れるように、虫の声の影に潜むように、静かで控えめな鼻歌。
昼に海で聞いたものと、同じ曲調だった。
「和也さん、とても歌が上手ですね……!」
昼間聴いたときは、あまりに突然だったものだから、呆気にとられて歌のことについて誰も何も言わなかった。だが今回は、目を輝かせた玲子が言及した。
ところがその瞬間、歌は不自然な形で止まった。和也が片手で口を覆ったためだ。
「……僕、歌ってた?」
「はい! 凄く綺麗な歌声だなって! 昼間もそう思いました!」
「嘘、昼も……?」
口を覆う手は震えている。それだけでなく、体全身が、小刻みに震えている。顔が、どんどん蒼白になっていく。単に恥ずかしがっているにしては、行き過ぎた反応だった。
「ご、ごめんなさい。下手くそな歌を聴かせてしまって。耳障りですよね、本当にごめんなさい、何と言ったら良いか、その」
「ちょ、ちょっと待って! そんなの絶対に有り得ませんよ!」
「玲子の言うとおりだ、思わず聞き惚れてしまったくらいだよ」
和也はひたすらに首を横に振る。背を丸め、両手で自分自身のことを抱きしめる彼は、明らかに何かに怯えていた。
戸惑う秀平と玲子は、互いに顔を見合わせた。その傍らで、和也が震え続ける。膠着状態だった。それを解いたのは、秀平の一つの頷きだった。
「……あの歌って確か、僕が学生時代に凄い流行った曲だよな。えーと、確かこういう歌だったか!」
秀平は足を広げると、大きな声でその歌を歌い始めた。
「♪~~ ~~」
和也の小さな鼻歌と違い、それには歌詞があった。その上元気よく歌っているのだから、どういう曲調でどういう歌なのかはっきりわかる。
だが、それだけだ。高音は上手く出すことが出来ず、掠れる。低音は歌として伸びていかず、地声で話しているのと変わらない調子。おまけにうろ覚えだからか、歌詞は途切れ途切れ。
玲子の顔が徐々に強張っていくが、代わりに、和也の体の震えが止まっていく。ぽかんと和也が秀平のことを見つめるなか、秀平は一番のみ歌いきった。
「音痴!」
どこか晴れやかな顔をする秀平に、即座に玲子の鋭い声が飛んだ。
「お、音痴かい?」
「音痴だよ! 耳障りにも程がある、ノイズ聴いてるほうがまだましよ! 変な歌聞かされて気分が悪いんだけど!」
「おまっ、ち、父親に向かって!」
玲子は両耳を手で塞いだ。秀平がどんなに大きな声を出しても、玲子は無視を貫いている。徹底的に聞くまいと遮断していた。
「か、和也くん、歌ってくれないか!」
「ぼ、僕がですか?」
「玲子の機嫌を直してくれ、頼む!」
和也は渋っていたが、両手の平を擦り合わせて懇願する秀平に押された結果、「わかりました」と躊躇いがちに頷いた。
喉に手をやり、軽く咳払いをし、息を吸う。だが、そこからなかなか、音が流れ出さなかった。和也は逡巡するように、自分の足下を見つめている。だが、秀平から送り続けられる縋るような眼差しに覚悟を決めたらしく、一つ頷いた。
「♪── ――」
夜の公園に、先程秀平が歌った歌が響いていく。
高音は無理なく澄み渡る。低音は伸びやかに続く。歌詞はすらすらと、淀みなく出てくる。楽器はどこにもないが、音程がぴたりと合っているからか。伴奏の音色を感じる。
何も無い寂れた公園が、まるで命を宿したようだった。星の煌めきも、町の明かりも、今この時は、全てが和也の歌を引き立てる舞台装置と化していた。
耳から入ってくるのではない。心に、直接入ってくる。体の奥深くまで、歌が染みこんでいく。私はそう感じた。こんな歌を聴いたのは初めてだった。生前も、死後を含めても、初めてのことだった。
和也が一番を歌い終わったとき、周りは無反応だった。秀平も玲子も無言だった。不安が集中したような表情で、和也が二人のことをそっと交互に窺った直後だった。
二人分の拍手が重なった。秀平も、玲子も、目はどこか遠くを見て現実世界に戻ってきていないようなのに、手は忙しなく動き続けていた。自分達が持てる精一杯の力で、限界まで音を大きくしよう。そんな手の鳴らし方だった。
「……凄い!」
秀平は、震える声で言った。その目には涙が滲んでいた。言葉を詰まらせている玲子は、何度も何度も頭を縦に振った。
「本家を超えているだろうこれは!」
「プロみたいです!」
「何と言えば良いのか、いや何も言えない! 言葉が出てこない!」
「こんなの生まれて初めてかもしれません!」
唖然と立ちすくむ和也に、秀平も玲子も自分の感想を我先に伝えたがって、捲し立てる。結果、全然聞き取れない音になっており、和也は目を白黒させている。
叶うことなら私も、この二人と混ざって感想を伝えたかった。あんな歌声の持ち主は、都のどこを探してもいなかった。
「私、もっと聴きたいです! 和也さん、お願いです、もっと歌って下さい!」
「ああ、そうだよな! 幸い周りには誰もいないし、思う存分歌って大丈夫だ! しかし皆に聴いてほしいな、もっと観衆が欲しい!」
「たくさんの人に聴いてほしいよね、コンサートとかどうかな!」
「大ホールどころか、武道館も貸し切れるだろうな!」
その瞬間だった。和也の体が、ぴくりと跳ねた。顔から動揺が引いていく。同時に、感情の類い全ても引いていく。
「知らないんです、僕。他の曲。この曲は、学校とかで他の皆が聴いていたのを耳に挟んだだけなので。……音楽を聴くことは、家の事情で禁止されてたので」
抑揚なく、無機質に和也は言った。声量は些細なものだったが、親子は揃って黙った。
和也の様子がおかしいことに気づいたからだろう。彼は目を伏せていたため、表情はわからなかった。その代わり、皮膚に食い込んでいるのではないかと思う程きつく握りしめられた両方の拳が、がたがたと揺れていた。
「観衆も、欲しく、ないです。人の前で、歌いたくありません。僕の歌なんて聴いても、何にもならないですから」
「それは……そんなことあるはずないだろう」
秀平が一歩、歩み寄っていく。
「和也くん。君は少し考えすぎだ。少しくらいは好きに振る舞ったって、大丈夫だ」
和也が顔を上げた。その目はまるで、硝子で作られているように、無機質な光を宿していた。一瞬私の背筋が、氷を落とされたように冷えた。玲子がびっくりしたように軽く目を見張った。だが秀平は気づいた素振りを見せない。
「本来幽霊というものは、自由な存在なんだ。どの幽霊も未練だったりに縛られてしまっているが、本質的には限りなく自由な存在であると、私は考える。なぜなら、もう死んでいる存在だからだ。生きているときの縁も義理もしがらみも、全て気にしなくて良い。それは寂しいことだが、同時に気楽なことでもある」
「……自由?」
「ああ。だから和也くんも、自由に行動していいと、僕は思っている」
「自由ってなんだ」
地を這うような低い声に、秀平は息を飲んだ。今のは本当に、この少年が発した声なのか。夏の夜だというのに、空気が凍り付いた。
ぽたり。和也の足下に、どろりと雫が落ちた。
「なにそれ、なんだそれ」
「和也くん……?」
「わからない。知らない。聞いたことない。見たことない」
「か、和也さん?」
「わからない。わからないわからないわからないわからない」
和也の頭から、だらだらと液体が流れ落ちる。顔の半分が、ぬらりと赤黒く光るもので染められていく。着ている服が、ぼろぼろになっていく。
玲子が両手で口を覆った。はっと、秀平が強張った表情の中、目を見開いた。
「痛い、いた、い」
和也の体がゆらりと動いた。その足はぐにゃりとひしゃげていた。大きく傾き、よろめきながら、彼は腕を伸ばした。腕は肘から下が、逆方向に折れ曲がっていた。
ずるずると引きずるように、和也は歩く。べちゃり、と水音が鳴る。周辺に血が滴り、散らばる。和也の目は、闇一色に塗りつぶされていた。底なし沼のようだった。
玲子ががたがたと震えだした。玲子を庇うように前に立ちはだかった秀平の足も震えていた。
「痛い、嫌だ、わからない、痛い、やめて、ごめんなさい」
古井戸の底から響いてくるような声だった。彼の声だとは信じられなかった。全く別の人間の声に聞こえた。逃げるように、強い風が吹き抜けていった。
和也の姿をした人間が、秀平と玲子のもとへ向かっていく。私は和也のもとに駆け、羽交い締めにした。
その瞬間、和也は叫んだ。聞くもおぞましい、耳を塞ぎたくなるような悲鳴。同時に怒鳴ってもいるようだった。それらは人の言葉の形をしていなかった。
顔を上げると、秀平の懇願するような眼差しと目が合った。私は頷き、更に腕に力を込めた。和也は腕の中で滅茶苦茶に暴れ始めた。何かに溺れ、もがき苦しんでいるように、歪んだ手足をばたつかせた。
「和也くん、すまない!」
秀平が大声を上げた。
「僕が余計なことを口走ったんだろう、それで君を傷つけたんだろう! 何度だって謝る、本当に申し訳ない!」
電灯の明かりが消えた。周囲が闇に覆われた。その闇の中で、和也の呻き声が、尚も響く。和也さん、と玲子がしゃくり上げながら名前を呼んだ。
まずい、と思った。彼が、元に戻らない。
「だがどうか君はそちらに行かないでくれ、頼む!」
秀平の悲痛な声と重なるように、和也が大きく唸った。獣の鳴き声と同じだった。
幽霊は、悪霊化することがある。悪霊になった霊の大きな特徴は、死んだときの姿に戻ること。そして、人に害を為す存在となる、というものがある。
もしこのまま和也が正気を取り戻さなかった場合、私は「お祓い」を行わなくてはいけなくなる。しかしお祓いは、幽霊を無理矢理追い払う行為だ。秀平と玲子は守れても、和也の魂は救われない。
「自由を知らないなら、一緒に知っていこう!」
芝生を踏む音が鳴った。秀平の足音だった。
「下らないことを一生懸命やって、どうでもいいことばかり喋って、そうやって毎日過ごしていこう! 僕は和也くんと一緒に、それをやってみたい! きっととても、楽しいだろうからな!」
周りが明るくなった。光が場に戻ってくる。電灯の明かりが復活したのだ。秀平が真っ直ぐ、和也のことを見ていたのが明らかになった。
ふっと、腕の中から力が抜けた。
「……わからないんです。ずっと、わからないままだったんです」
和也の声は、静かで、穏やかで、どこか寂しさをたたえたものに、戻っていた。
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