第5話
「海の、バカヤロー……」
秀平の発した声は、波打ち際に寄せては返す海の音よりも遥かに小さかった。頭上で海鳥の鳴く声が、空高く響き渡った。
「何やってるのよ、お父さん!」
「や、やっぱり恥ずかしいなと……」
「我が儘でわたし達を連れてきてそれ?!」
「い、いや……」
秀平はおもむろに腰を屈め、足下の砂浜をまさぐりだした。貝殻を探しているようで、せっせと拾い集めだした。このままでは、先程述べていた学生時代の失敗と何も変わらないではないか。
「れ、玲子、綺麗な貝がいっぱいあるぞ!」
「なんっなの!!」
怒鳴り声に驚いた秀平は弾みで拾った貝殻を全て落としてしまった。玲子、大層ご立腹のようだ。「帰る!」ときびすを返した玲子を引き留めたのは、遠慮がちに伸ばされた和也の手だった。
「ま、まあまあ玲子ちゃん、どうか落ち着いて? その、気持ちはわかるけど、せっかく可愛い顔なのに勿体ないよ」
「あ、あらやだわたしったら、お恥ずかしいっ……!」
整った顔立ちにじっと覗き込まれ、瞬時に玲子はぱっと顔を赤らめた。
「あの、秀平さんも、どうかゆっくりでいいので。なんだったら僕、席を外してますので」
「いや大丈夫だ!」
秀平の答え方は、明らかにむきになっているとわかるものだった。背まで逸らせて、秀平は先程よりも大きく息を吸い込んだ。
「海の! バカ、ヤローーー!!!!」
大きく波音が鳴り、風が吹き抜け、周辺の木々が一斉にざわめいた。
秀平の声は、天をも抜けていくのではないかと思う程、彼岸にも聞こえるのではないかと感じる程、高く遠く、響き渡った。
肩を落とし、息を吐き出した秀平は、こちらを振り返った。夏空のように、晴れ渡った笑みを浮かべていた。
「いやあ、すっきりした!」
「これやりたかったの……? なんで……? っていうかなんでバカヤロー……?」
ぶつぶつ呟く玲子は、引きつる顔を隠す素振りも見せない。和也も玲子ほど態度に出していないものの、首を少しだけ傾け、何が何だかわからないといった顔をしていた。正直私もよくわからない。
「ずっとやってみたかったんだ、これが! しかしなかなかに爽快感があるな! 玲子もやってみるか、楽しいぞ!」
「絶対に嫌だ! 用事終わったんだったらもう帰るよ!」
「なんだ、いいのか? この辺、大きくて綺麗な貝殻がたくさん落ちてるのに」
貝殻、の言葉に玲子が言葉を詰まらせ固まったのがわかった。しばらくきょろきょろ忙しなく辺りを見ていた玲子だったが、やがて悔しそうに波打ち際に向かって歩き出した。
普段は大人びていることのほうが圧倒的なのだが、こういうのを見ると、やはり年相応だなと思う。
玲子と入れ替わるようにこちらに戻ってきた秀平は、未だにぼんやりとした目で海を眺めている和也に近寄った。
「君は、どうする? せっかく海に来たけど」
「……あっ、もしかしてさっきのですか? 僕はその、特段海を憎んでいるわけでもないですし、遠慮しておきます」
「“バカヤロー”に意味なんて無いんだがなあ……」
砂浜にしゃがみ、一心不乱に貝殻を探しては拾っている玲子は、こちらの様子をまるで気にとめていない。
沈黙の時間が流れる。秀平も和也も積極的に喋る人柄ではないから、必然と言えた。どちらがこの均衡を破るか。先に動いたのは、和也だった。
「どうしてあの台詞を、わざわざ叫びに来たんですか?」
秀平は困ったように眉を寄せ、しばらく唸っていた。すぐに答えられるようなものではなかったということだ。それくらいどうでも良いことを、本当に、なぜわざわざ。そう思う時点で、違うのだろう。
「……和也くんは、未練もないのになぜか成仏できない、と言っていただろう? それを聞いて思い出したんだ。和也くんと同じ年齢くらいの頃、誰もいない海で一人、海に向かって海のバカヤローって叫びたいって密かな夢を抱いていたことを。もし僕が今何かの弾みで死んだら、こういうあまりにもちっぽけな夢でも、叶えられなかったことを後悔して、結果それが未練になって、幽霊になるかもしれない。そう思ったから、ここに来たんだ」
「はあ」
和也は曖昧に頷いた。和也の視線は、ちょうど砂浜から巻き貝を拾い上げた玲子に向けられていた。だが、玲子を見ているわけではなさそうだった。どこを見ているか、まるでわからなかった。
「つまり。和也くんも、こんな風に、案外、自分でも気づかないくらい、どうでもよくて、小さくて、ちっぽけな心残りが、未練になっているかもしれないよ。僕は、たくさんの幽霊を見てきたから、だから、わかる。今の和也くんには、未練がある、と」
鋭く言い切ったわけでも、決めつけて言い放ったわけでもない。だが秀平のその言葉には、確かな確信の響きが込められていた。和也もそれを感じ取ったのだろう。彼は秀平の横顔を見た。睨んだ、といったほうが正しいか。
「わからないって、言ってるじゃないですか。強力な守護霊もついているし、もう死んでいる人のことなんて、放っておいても別にあなたに不都合なんてないじゃないですか。構い過ぎの領域なんじゃないですか、はっきり言って」
和也の目には、反抗的な光が宿っていた。秀平は狼狽えたように一歩引き、振り向いて様子を窺うように私のほうを向いた。
なので私からも秀平を睨んでやった。そこで腰を引くから情けないのだ。この若造に、ちゃんと自分の考えというものを言ってやるといい。それが大人というものだろう。そういう意味を込めて、顎をしゃくる。秀平は、おずおずと頷いた。
「き、気を悪くしてしまったのなら、本当に申し訳ない。その、誓って言うが、僕は和也くんに説教をしたいわけじゃないんだ。……ただ、なんというかな。生きている人にも、死んでいる人にも、誰にも、未練を残すような生き方をしてほしくないんだ」
秀平の声は震えていた。堅く腕を組み、俯いて、こちら側と目を合わせようとしない和也への戸惑いが。秀平が再度謝ったとき、「なんで」と低い声が発せられた。
「……なんでそこまでこだわるんですか」
「まあ……多くの幽霊を目にしてきたおかげかな。未練のない生き方を。これが僕のモットーなんだよ」
機嫌を悪くしていても、話しかけてきてくれたと安堵したらしい。秀平は顔を緩ませた。
「人に、未練を残さないよう生きてほしい。そんな人生を歩める手伝いが出来る仕事に就きたい。そう思ったから、僕は占い師になることを決めたんだ。カウンセラーになれるほど頭は良くないし、特技とは言いたくないが強い霊感を持っているしな。自分の能力とモットーが上手く噛み合った職業だと思ったんだよ。……ちっとも売れていないけどね。とはいえ、僕は占い師になったことを後悔していない。自分で選んだ道を進んでいるからな。おかげで妻には逃げられたけれど」
秀平は海を眺めながら言った。和也が驚いた顔で秀平の横顔を見た。いつの間にか玲子が立ち上がっており、じっと二人を見つめていた。
「悲しかったし、情けなかったし、悔しかったし、やるせなかった。だが、妻が悔いの無い生き方を選べたのだとしたら、それで良かった。今はそう思ってるよ。……妻に逃げられるような甲斐性無しだからね。僕は和也くんを説教出来るような立派な人間じゃないよ。ただ、やり残したことや、やりたいことを我慢している人間を、放っておけないってだけなんだ」
海は穏やかそのものだった。この海が荒れるなんて見ただけでは想像もつかないほど。それを見る秀平の目も、凪いだ水面のように静かだった。
秀平達の生活も、最初は平穏そのものだった。秀平も、その妻も、玲子も、三人仲睦まじく日々を暮らしていた。
だが、会社を首になり、更にいつまで経っても売れないままの占い師を辛抱して支え続けられるような、心の出来た人間は早々いない。秀平の妻は徐々に、もっとまともな職業に就いてくれと、度々言い争うようになっていった。
秀平の妻の言い分ももっともなのだ。だが、既に中年で、口下手で、あまり空気の読めない秀平は、組織や会社がお呼びとするような人材ではなかった。秀平の性格には問題ないのに、性質が、社会にはとことん合わなかったのだ。
ある日妻は、とうとう家を出て行った。そのとき、玲子も一緒だった。私は玲子の守護霊となっているので、私も玲子について行く形となったが、秀平が二人に連絡を取ろうと試みたり等、そういうことをしている様子はなかった。秀平は恐らく、自業自得だと、一人あのアパートの一室で、考えていたのだろう。
だが、間もなく秀平は、一人ではなくなる。秀平の妻と一緒に出て行った玲子が、戻ってくるからだ。
秀平の妻には、既に恋人がいた。その恋人は、安定した稼ぎを得られる仕事に就いていた。秀平の家を出て行った後に向かった先が、恋人の家だった。玲子はしばらくそこで過ごしていた時期がある。秀平の妻は、恋人と娘と暮らせることを幸せに思っていたようだが、相手の恋人は違っていた。
無視をしたり、当たりが強かったり、妙に玲子と二人の時のみ態度が悪くなる男だと思っていた。抱いた嫌な予感は的中し、ある日玲子が自分のことを睨んだという因縁をつけて頬を叩いたのを皮切りに、玲子に対して暴力を振るうようになっていった。
私はすぐに、秀平にこのことを伝えに行った。守護霊として、男に攻撃をすることは簡単だ。だがそれでは根本的な解決にならないと判断したのだ。攻撃は、これで秀平が何も動かないような真の甲斐性無しだった場合の最終手段に取っておくことにした。
だが、秀平は真の甲斐性無しではなかった。彼はその日のうちに、私から聞いた男の家に、直接乗り込んでいった。
「玲子の人生は玲子のものだ。お前なんかのものではない!」
自分が男としても人としても情けない奴なのはわかっていると。だが、玲子の人生を傷つけるものは、誰であっても許さないと。そこだけは決して譲れないと。そう言ったのだ。
「玲子を傷つけるような奴とは、今すぐに別れてくれ」
元妻にそう言った秀平に、玲子は首を振った。その必要は無い、と。「わたし、お父さんと一緒に暮らすから」
この一件を思い出す度、私はこの子孫に呼び出されて良かったと、つくづく思う。
「玲子の人生を守ってほしい。玲子が悔いの無い人生を歩めるように」
私を呼び出したときに言っていた秀平の眼差しを見て、此奴は面白い人間だと直感した。
普段は話し下手の性格が枷となっているが、その枷が外れた瞬間、人が未練を残すことを嫌う秀平にしか出来ないことがあり、言えない台詞が生まれるだろう、と。
そう感じたのが、二年前のことだ。私としては、未練がわからないと主張する和也の相手に、秀平は適任だろうと考えているのだが。
「やりたいことなんて、ないです。……生きている間も、自分が何をしたいのか、わからないままだったのに」
頑なに視線を下げ続けたまま。和也はぽつりと、風にかき消されそうな声で言った。
秀平は、何かを口にしかけた。けれど、開いた口から音は発さず、そのまま閉じた。
「和也さんっ!」
静寂を破り、玲子がぱたぱたとこちらに駆け寄ってきた。その手には、大きめの巻き貝が握られていた。
「海の音がしますよ、これ。ちょっと聞いてみて下さい。他のと聞き比べてみたんですけど、これが一番、海を感じました!」
ずい、と差し出された巻き貝に、和也は戸惑いを露わにする。なかなか貝を手に取らない和也に痺れを切らしたのか、玲子は「ちょっとしゃがんでくれます?」と頼んだ。
和也は言われるがまま腰を落とし姿勢を低くすると、和也の耳に、玲子は巻き貝を当てたのだった。和也は驚いたのか目を丸くしたが、やがてしばらくすると、少しずつ瞼を下ろしていった。
「……どうですか?」小さな声で、玲子が聞く。
「……聞こえるね」更に小さい声で、和也は答えた。
そのまま和也は、身じろぎ一つしなくなった。ただじっと目を閉じ、貝殻から聞こえてくる海の音とやらに、耳を澄ませている。耳に貝を当てている玲子も、そのまま動かなかった。
二人の様子を眺めていた秀平は、おもむろに足下の砂浜をまさぐりだした。砂浜から見つけ出したのは巻き貝で、軽く砂を払うと、己の耳に当てた。
「海の音、か。……あ、昇明さんも良ければ」
いきなり耳に貝を押し当てられたので、さすがの私も驚いてしまった。だが、耳を澄ませると、驚きにより取り乱された心が、徐々に静まっていくのを感じた。
なるほど、確かにこれは海の音だろう。波の音というよりは、海中の音だ。底から響いてくるような海の中の音に、目を閉じたくなる気持ちもわかる。
目を閉じると、深い海の底を漂っているような気分になってくる。貝を当てていないほうの耳に届く波音や海鳥の音が、また雰囲気を盛り上げてくれるので、尚更目を開けるのが惜しくなってくる。
潮の匂いのする風に乗って、海の音とは別の音が、聞こえてきた。本当に海の中にいるなら、決して聞こえてこない音。
それは、歌だった。
吹けば儚く飛んでいきそうな。触れば脆く零れていきそうな、小さく頼りない歌声。鼻歌であることを抜きにしても、それはか細かった。けれど、弱々しさは感じられなかった。重かったはずの瞼があっさりと開いてしまうほどには、その歌声には存在感があった。強く気を引く何かがあった。
私は、音のするほうを見た。既に秀平はそちらに顔を向けていた。玲子は音の発生源に釘付けになっていた。二人とも、呆然の二文字がよく似合う表情になっていた。
和也は、私と二人に見られていることに、全く気づいていない。目を閉じて、薄く口を開けて、そこから歌詞のない旋律だけを流している。
その調べは、海の深い青色と、空の澄んだ水色と比べても、なんら遜色ないほどには、美しかった。
和也の鼻歌は、人気の無い砂浜に、いつまでも響き渡っていた。
和也がぽつりとその台詞を言ったのは、帰りのバスの車内でのことだ。
「一つ、思い出しました。これが心残りなんじゃないのかなっていうもの」
席に座ってうつらうつらと船を漕いでいた秀平は、その瞬間大きく目を開けた。
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