第4話
幽霊の和也を家に連れて帰ってきてから、一夜が明けた朝。秀平は家の台所に立ち、せっせと朝食を作っていた。
売れない占い師の仕事一つだけでは、秀平と玲子、親子二人で食べていくことはとても出来ない。
なので秀平は昼間の占い師の仕事の他に、夜は居酒屋の厨房で働いている。その居酒屋は秀平の数少ない旧知の仲の友人が経営しており、秀平の話し下手も充分に理解している。
今まで接客を任されたことは無く、「お願いだからホールには立たないでくれ」と言われるまでだ。つまりずっと厨房を担当してきた。
そのおかげと、もともと料理がそこそこ好きなのも相まって、秀平は非常に料理が上手い。父に対して辛辣な物言いをすることが多い玲子も、「お父さんの料理は、数少ない褒めるべき部分」と言う程だ。
出汁の匂いや白米の香りが、部屋の中に漂う。湯気の立つ白米と味噌汁、艶のかかった目玉焼き。ほうれん草のおひたしまでついている。玲子は目を丸くして、それらの献立を見下ろしていた。
「なんかいつもより豪華だね。大体お握りだけなのに……」
「しーっ!」
秀平は人差し指を口に当て、和也のほうへと振り向いた。昨夜からずっと、居間の隅に正座したままほとんど動かない和也は、きょとんと首を傾げた。
私は肩をすくめた。おおかた、和也というお客のいる前だから、見栄を張りたかったのだろう。
「まあいいや。いただきまーす」
「ああ、いただきます!」
二人はぱちんと手を合わせ、朝食を食べ始めた。玲子が味噌汁のお椀を両手で持ち、覚ましてから一口啜る。秀平が目玉焼きをごはんの上に乗せ、醤油をかけてから箸をつける。
食器がこすれる音や咀嚼音を聞きながら、私は天を仰いだ。
なまじ、見た目や匂いから情報が直接伝わってくるだけに、こういうとき幽霊という体は不自由だと感じる。空腹を抱くことはもうない体なのに、腹の虫が鳴りそうだ。
見れば和也も、親子二人の食卓風景にじっと視線を注いでいた。彼も気になるのだろう。すると、見られていると思ったのか、玲子に異変が起きた。少し顔を赤らめて俯き、ちまちまゆっくりと、食事を口に運びはじめたのだ。
「どうしたんだ、食欲無いのか? いつももっと、もりもり大きく口開けて食べるのに」
「黙って!」
秀平は乙女の恥じらいの仕草を見抜けなかったようだ。なぜ玲子が怒っているのかわからないようで、秀平は困ったように頬を掻いた。
「今日は遠出をする予定だからな、ちゃんと食べて体力をつけておかないと」
「お出かけするんですか?」
和也が聞いた。
「うん。ただしどこに行きたいかは、まだ決めていない。だから、和也くんが決めてくれないか」
玲子は驚いたように目を見開いたが、和也はもっと驚いたようだ。「ぼ、僕がですか?」と立ち上がる。
「行きたい場所があったら教えてくれ。そこに行くからな」
「そ、そう言われましても……」
あからさまに困り果てた様子の和也を置いて食事を再開した秀平に、「ちょっと!」と玲子の声がかかる。
「急に何? 何も聞いてないんだけど……」
「必要なことなんだよ。彼が何を占ってほしいか、気づいてもらうためにはな」
私はこっそり振り返って和也の様子を見た。和也は部屋の隅で、さながら小動物のようにうろうろと視線をさ迷わせていた。
三十分ほど経って、朝食を食べ終え片付けも済ませた秀平が「どうだ? 行きたい場所は決まったか?」と尋ねると、和也は体をびくつかせ、次いで両肩を縮ませた。
「ごめんなさい……。僕、その、どこに行きたいのか全然わからなくて……」
「どんな些細なものでもいいんだ。生前好きだった場所でもいいし、ちょろっとでも行きたいと思った場所とかでもいい。教えてくれ」
和也は目を伏せた。床に這わせた視線は忙しなく動き、落ちている答えをどうにか見つけ出そうとしているようだ。ややあってから、その動きがふいに止まった。
「……ありません」
消え入りそうな声を発した和也は、頭を下げた。
「ごめんなさい、思いつきません」
「一つもないのか?」
「はい。だから、あの、秀平さんか玲子ちゃんが決めてくれませんか?」
「それじゃ駄目なんだ」
秀平は首を左右に振った。
「成仏できないのは、未練がないつもりでも、どこかに思い残すことがあるからだ。自分では些細なことだと思ってる心残りが、成仏の足を引っ張っている可能性が高い。だから、和也くんが決めないといけないんだ。行きたい場所、やってみたいこと、会いたい人……。何かないか? どんな小さいことでも」
和也は泣き出しそうな顔になった。それでも秀平の言いたいことが伝わったのか、目を閉じて真剣に考え出した。だが、唸り声を上げているのを見るに、苦戦を強いられているようだ。たっぷり五分ほどかけてから、和也は目を開けた。わずかに涙目になっていた。
「何も思いつきません、ごめんなさい……。あの、本当に、ごめんなさい」
「ちょっとお父さん!」
俯き肩を震わす和也は、叱られるのを恐れる幼い子供にしか見えなかった。玲子が思わずといった調子で父を咎めると、秀平はふっと笑みを零した。
「僕は、和也くんと同じ歳のころ、訳もなく海に行きたくなった」
「え……?」
「そして、海のバカヤローって叫びたいと思っていた。まあ実際に海に行ったら人がいて、恥ずかしくて貝殻一つだけ拾ってそのまま帰ってきたんだがな」
「何それダッサ……」
玲子がぼそっと言った。
「まあ、こういう感じで。適当でいいんだよ、和也くん。米粒みたいな小さい願いを、どんどん叶えていってみようじゃないか」
だが、和也は顔を青ざめさせ、ふるふると首を横に振るのだった。
「適当なんて、そんなこと、駄目ですよ……。絶対駄目なんです……」
「和也さんの適当は、うちのお父さんの適当より百倍はまともだと思うから。大丈夫だと思いますよ」
「い、いや僕はそこまで適当な人間では……」
「……ごめんなさい。やっぱりよく、わかりません」
答えられない自分を恥じるように、和也は顔を伏せる。そうしてから、目線を横に投げ、窓向こうを見た。夏のぎらぎらとした陽光が、窓ガラス越しに降り注いでいる。
「昨日も言ったように、僕、成仏したいかどうかもわからないんです。……そもそも、中途半端に生を終えた僕に、成仏する資格があるかどうかわかりませんし」
蝉の鳴き声はうるさく響く。活気に溢れた鳴き声は、蝉が生きているとはっきりわかる。反対に、死んだ存在である和也の声は、どこまでも静かだ。室内を漂わず、沈み込んでいくようだった。
「あのトンネルにいる霊達は、皆この世に未練を残している人達ばかりです。あの人達を相手にしたほうが、いいと思います。きっと、占ってほしいこともすぐにわかると思うので、僕なんかよりずっと、良いお客さんになるかと思いますよ」
和也は顔を上げ、笑った。去り際や別れ際に浮かべる笑顔と同じように、寂しげだった。
何か言いたげに、玲子が一歩前へ出たときだった。それよりも先に秀平が、大きく頷いた。
「わかった。じゃあ、僕の好きな場所に行かせてもらう」
秀平は、一体どこにそんな力を隠していたのかと思うほどよく通る声で、宣言するように言った。
玲子と和也が、揃って呆然と目を丸くする。私も、不覚ながら少し驚いてしまった。
「一度乗りかかった船から逃げ出すほど、僕は適当な人間ではないよ」
秀平は詳細を答えず、それだけ言って笑った。悪戯を企てる子供のような笑みだった。
一体全体、秀平は何を考えているのか。秀平以外の、この場にいる全員が思ったことだろう。
外出の支度を終え、家から出て一人進んでいく秀平の後を、その後をわけがわからないという風についていく玲子と、とりあえずついて行っているという体の和也と、最後尾にいまいち状況がよく掴めていない私という順番で追っていくと、秀平は最寄りのバス停の前に立った。
程なくして来たバスに秀平はさっさと乗り込み、一番後ろの席に座った。私達も乗り込んで、幽霊二体を乗せたバスは、再び走り出した。
「ねえ、どこ行くの? わたし、何もわからないんだけど?」
秀平の隣に座る玲子が苛立ったように聞くと、秀平は短く「海だ」と答えた。
「海に行く。それで、海のバカヤローって、大海原に向かって叫ぶ」
「は?」
「いやあ、そういえば学生時代、通学途中のバスに乗りながら、何度もこのまま学校に行かずにバスにずっと乗って行って、海にでも行きたいなあと考えていたのを思い出してね。結局実現できずに大人になっちゃったけど、まあせっかくの機会だし、叶えようかなと」
「……遊びに行くの?」
「そうだよ?」
玲子は愕然とした、というより幻滅した。有り得ない、と零し、バス内に盛大なため息を響かせた。
「まあ海に着くまで時間がかかるから、この時間はのんびり過ごそう。和也くんも」
玲子を適当に宥めた秀平は、和也に向かって言った。他の乗客に聞こえないよう、小声で。
和也は躊躇いがちに小さく頷いた。あやかしを見たような目で、秀平のことを見ていた。
それから程なくして、揺れる車内が心地よかったのか、秀平は眠ってしまった。釣られるように、玲子も眠った。和也を意識している玲子の場合、眠る意外に時間を潰す方法が思い浮かばなかったのだろう。
さすが親子と言うべきか、そっくりな寝息を立てる父娘を私は眺めていた。和也に話しかけることはしなかった。もとより守護霊だし、第一私は生前から、さして他人に興味がある性格ではない。秀平と玲子に危害を加えなければ何でも良いのだ。
その和也は、じっと座席に座って俯いたまま、微動だにしなかった。バスが目的地に着くまでの間、ほとんど車窓を眺めるために顔を上げることすらしなかった。
一時間弱経って、バスは終点に辿り着いた。外出を提案したのは秀平なのに、結局彼は先に起きていた玲子に叩かれるまで、ぐっすりと眠りこけていた。
バスから降りると、海鳥の鳴き声が潮風に乗って聞こえてきた。バス停の目の前には道路があり、その先にガードレールがあり、その向こうに陽の光を反射させて煌めきが浮いている、青い海が広がっていた。
バスから降りるとき、かかった運賃を目にして渋い顔をしていた秀平だったが、その青色を目にした瞬間、おお、と感慨深げな声を上げた。
「いいなやはり! 夏と言えば海だ!」
見ると、玲子もおおっぴらに喜んではいないが、海を食い入るように見つめていた。その目がきらきらと輝いているように見えたのは、夏の日差しだけが原因ではないだろう。
和也は、ぼんやりと海を眺めていた。和也にとっては、川も池も海も、同じように映るものなのではないかと思う程、ただ見ているだけの無感情な瞳をしていた。
秀平は道路を渡ってガードレールから身を乗り出し、下の砂浜を覗き込んだ。
小麦色の砂浜に、赤や青や緑といった、数多くの鮮やかな色彩が散らばっている。どれもビーチパラソルやビニールシートだった。地元で有名なこの海水浴場は、夏休みでしかも休日とあって、実に多くの人で賑わっている。水着を着た人間達が、砂浜や海で騒いでいる声と活気が、こちらに届いてきた。
人が多くいることは秀平も想定していたようで、「やっぱり大賑わいだな」と一人言を零すと、ガードレールに沿って歩き出した。
しばらく歩いて行くと、右手に見える海水浴場のある砂浜が途切れ、岩場が続く光景に切り替わった。だがそこも、釣り人とみられる人で賑わっていた。秀平は頭を掻きながら、どんどん進んでいった。
夏こそ海だと思っているのは秀平だけではなく皆が思っていることのようで、海辺のほとんどには人がいた。結局ようやく海に降りられたのは、バス停から三十分以上歩き続けてからのことだった。
明らかに人が通ることを想定されていない雑木林と藪を突っ切る羽目になったので、玲子の機嫌は最高潮に悪くなったが、その先に広がっていた海を見た途端、怒りもしぼんだようだ。
海水浴場からも岩場からも随分離れた場所まで移動した甲斐あって、周囲を森と藪に囲まれた面積の小さい浜辺であるそこは、私達以外の人は誰もいなかった。まるで青い海と小麦色の砂浜を一人占めしているようだ。
よし、と一つ頷いた秀平は、一人胸を張り、波打ち際まで歩を進めていった。何をするのかと思った後で、秀平が海に来たがった理由を思い出した。私と玲子と和也が見守るなか、秀平はゆっくりと息を吸い込んだ。
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