第46話 問い
翌日、五月十一日の火曜日、彩人はいつものアラームではなくスマホの着信音で目覚めた。
寝ぼけ眼を擦って液晶に目を向けると、『羽沢由依』の文字が目に飛び込んでくる。突然の出来事に困惑した。そもそも、由依からの電話など初めてなのだ。だが、出ないという選択肢もない。出来るだけ気分を落ち着けて、いつも通りを心がける。
「もしもし」
『あ、もしもし。おはよう。私からのモーニングコールで起きる気分はどう?』
「先輩の声で起こされたかったです」
『それは無理な相談ね』
「先輩、寝起き悪いもんね」
以前、彩人と由依で和希の家を訪れようとした際の宿泊で発覚した事実だ。一緒のベッドで寝るという珍事が発生したが、寝ぼけている由依を見られるというなかなか稀有なイベントも発生した。
普段はしっかりした人が見せるギャップが忘れられず、今でもすぐに思い出すことができる。
『今すぐその記憶を抹消しなさい』
「無理ですって。あんなに可愛い先輩、忘れられるわけないですよ」
『はあ……一生の不覚だわ……』
心の底から落ち込んでいるというトーンでそう呟き、由依はため息をついた。気にしているところを他人に見られるのは不愉快だろうが、彩人にしてみれば他の人が絶対に知ることができない部分を知ることができたわけで、優越感に近いものを得られている。
ただ、これ以上話を掘り返すと本格的に由依の機嫌が悪くなりそうなので、彩人は由依の電話の目的を聞くことにした。
「それで、どうしたんですか?こんな朝早く」
そう言って枕元のデジタル時計に目を向けると、時刻は朝六時を示していた。いつもの起床時間より一時間も早い。
『体育祭の放課後練習が始まったから、体育祭終わるまでは部室開けないって昨日言い損ねたのよ』
「あー、なるほど。……それ、メッセージでよくないですか?」
由依からの電話は確かにありがたいが、メッセージを飛ばす方が遥かに楽で簡単である。少なくとも、彩人ならそうする。
『うるさいわね。朝から私の声が聞けたんだからいいじゃない』
なんとも理不尽な理由である。今日もまた由依は由依らしい。
「そうですね、朝から先輩の声が聞けて幸せです」
『最初からそういえばいいのよ』
少し不貞腐れた、それでも満足しているような声音で由依は言った。このやりとりだけでも、由依との会話はただただ楽しくて、一生していたいとさえ思ってしまう。
だがそんなわけはなく、
『じゃあ、用件これだけだから。じゃあね』
そう言って電話を切られてしまった。
時計は先ほどあまり変わらず六時を少し過ぎたところを表示している。今から準備しても学校に着くのは早すぎるぐらいだが、このまま寝たら寝過ごすことは確定している。
「……行くか、学校」
◆ ◆ ◆
一時間のんびり準備に使っても、家を出た時刻はいつもより一時間も早かった。駅まで向かう道は普段より人気がなく、朝の爽やかな天気が彩人を包んでいる。気分は天気と同じく晴れやかだ。
中学校の横を通り、駅に向かう。サラリーマン、OL、様々な人々が彩人と同じく駅に向かって歩いているが、心なしか、その人たちの歩みは重たく見える。
「将来は専業主夫がいいな……」
彼らを見て、思わずそんな言葉を呟いてしまう。
駅に着いてホームに上がると、いつもより人が多いように見えた。普段彩人が乗る時間の電車はガラガラで、座れないことなんてない。その時間に電車に乗ったら間違いなく遅刻するような場所で勤務している人が、今この時間帯の電車に乗っているのだ。そう思うと、ますます働く気が失せてくる。
石神井公園駅に着くと、バス停で並んでいる見知ったシルエットを発見した。黒髪ボブの美少女。白くて華奢な体付きには思わず視線が行ってしまう。
視線を送りながら近づくと、それに気づいた美少女がこちらを見た。
「朝からエロい目で見るな」
そう言いながら持っていたスクールバッグをぶつけてきたのは、彩人の友達にして、彩人の友達の彼女である旭丘凛だ。
「そんな短いスカート履いてて見るなは無理だろ」
「倉木に見せるために短くしてるわけじゃないから」
彩人が通う井荻高校は制服こそないが、なんだかんだでなんちゃって制服を自前で用意している生徒が多い。特に女子はそれが顕著で、約八割の生徒が制服を着ている。そしてそのほとんどが、今目の前にいる凛と同じようなスカートの長さだ。階段で上にいようものなら、かなり目のやりどころに困る。
さらに驚くべきは、一年中その長さが変わらないところだ。どんなに寒くても長さは同じで、生足を貫き通す。その根性は賞賛に値する。
「なんか今、心の中でバカにされた気がする」
「気のせいだ」
「というか、なんでこんな早いの?いつももっと遅いよね?」
凛が至極真っ当な質問を彩人にぶつける。だが、本当のことを言えばめんどくさいことになるのは間違い無いので、ここは適当に誤魔化す。
「なんか目が覚めてな。二度寝したら遅刻しそうだから早めに来たんだよ」
「ふーん。まあ、言いたくないならいいんだけど」
「……」
できるだけ平静を装って言ったはずなのに、しっかりと看破されてしまった。秀馬といい凛といい、特殊能力でも持っているのだろうかと疑いたくなるほど勘が良い。
なんとも居た堪れない気持ちになった彩人は、気を紛らわすために凛にも同じ質問をした。
「凛はどうしてこんな早いんだ?」
「私?朝練だよ、弓道部の」
弓道部の朝練は毎日あるが、参加は自由らしい。それで人は集まるのかという疑問はあるが、どうやら全員とは言わないまでも全体の半分以上は参加しているのだとか。その中でも凛は高い参加率を誇っており、練習も非常に真面目にやっていると本人から聞かされたことがある。
さすが二年生にして女子のエース、そして次期部長候補といったところだろうか。このくらい自信がないとやっていけないのかもしれない。
「大変だなこんな朝早くから」
「まあ、好きでやってるからね」
「そうか」
「うん」
「……」
「……」
二人の間に沈黙が流れる。普段凛と話す時は隣に秀馬がいるので、彩人は凛と二人で話すという機会はあまりなかった。かと言って、今のこの状況が気まずいわけでもない。一緒にいて楽しいのも友達だろうが、一緒にいて落ち着くのもまた友達なんだなと、彩人は今更のように思う。
ふと、凛が口を開いた。
「倉木は、さ、弓道はもうやらないの?」
凛が口にしたのはそんな言葉だった。一年以上友達をやってきて、初めて聞く言葉。
和希とのことを話す前も、中学の頃弓道をやっていたという話自体はしていた。だが、凛はそれ以上踏み込んではこなかった。凛のことだからあえて踏み込んでこなかったのだろう。
不思議と、驚きはなかった。いつかこういう話になるだろうと、無意識にそう思っていたのかもしれない。
だから、準備していた言葉をスムーズに言うことができた。
「弓道は、もうやめたんだ」
未練がないわけではない。だが、思い出してしまうのだ。袴を着たら、弓を持ったら、矢を持ったら、あの頃の非力で不甲斐ない自分を。何もできなかった自分を。
そんな彩人を見透かしたように、凛は相槌を打った。
「そっか。葵ちゃんがね、倉木の射がすごい綺麗だったって言ってたから」
「葵って、僕と中学が同じだった?」
「そう」
広瀬葵。凛の後輩にして、彩人の中学の後輩でもある女子だ。和希とは親同士の付き合いがあり、由依が和希の家の場所を知り得たのも彼女がいたからだ。和希の件の裏のMVPは間違いなく葵だ。
「だから見たかったなーって思って」
そう言って、凛は場を和ますように微笑んだ。
「悪いな」
「それ、一ミリも思ってないでしょ」
「バレたか」
「バレバレだよ」
数分待つと、上石神井駅行きのバスがやってきた。乗客は井荻高校の生徒が少ない分いつもより少なめ。彩人たちは二人がけの席に座った。
「彼氏じゃない男と登校なんていいのか?」
「だって、倉木だし」
「僕、男として見られてないのか?」
「秀馬とじゃ比べ物にならないし……」
そんなどうしようもないことを言われながら、彩人と凛はバスに揺られた。
「あ、そういえば、明日話あるんだって?秀馬から聞いたけど」
「ああ、時間もらって悪いな」
「私への告白?」
「彼氏持ちの友達にその彼氏の前で告白する馬鹿がどこにいるんだよ」
「あはは。まあ、楽しみに待ってるよ」
踏切に捕まることもなく、本来の所要時間で学校に着いた。時刻は午前七時三十分。一時間目開始まであと一時間以上ある。
どう時間を使おうか頭を悩ませていると、
「じゃ、私こっちだから!またねー」
そう言って凛が駐輪場の奥へと消えていった。
取り残された彩人は周りを見渡すが、靴箱には人っ子一人いない。
「とりあえず、教室向かうか」
しれっと後輩ちゃんの名前を変えました。あまりに普通だったので。
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