第36話 過去⑫

 由依はそれから、目的もなく生活を続けた。

 勉強にはまるで身が入らなかったが、ある程度の実力は持っていたので志望校には当然合格。

 その志望校には、生前桜が希望していた進学先、都立井荻高校を選んだ。

 校風は自由。髪染めもピアスも禁止されてない。制服すらない今時珍しい高校だ。正直、この校風が自分に合っているとは由依には思えなかった。

 それでもこの高校を選んだのは、桜が選んだから。それだけだ。

 彼女が見るはずだった光景を、得るはずだった経験を、自分が代わりに体験する。この行為が意味があるのかはわからない。意味なんてないのかもしれない。ただ、この酷く利己的で傲慢な行動に今は縋るしかないのだ。ここにしがみつかなければ、今にも心が折れてしまうから。

 そんな思いで入学して三ヶ月、茹だるような暑さの七月を迎えていたが、友達もできなければクラスにも馴染めない、そんな日々が続いていた。

 学校に行く意味も見出せず、惰性で学校に向かう。そんな生活にも嫌気が差してきた頃、桜の一周忌を迎えた。

 本来なら喪が明けるとされている日。だが由依の心はあの日以来、閉じこもったままどころか日に日に悪化の一途を辿っていた。

 日を重ねるほど、自責の念が強くなる。

 そして、なんで自分が生きているんだという思考に次第に変わっていく。

 本当の自分を見てくれたのは桜だけだった。

 その桜がいない世界に生きていたって意味がない。楽しくない。嬉しくない。何もいいことなんてない。

 自ら命を立てばこの苦しみから解放される。桜の下へ行ける。向こうでなら誰にも邪魔されることなくずっと桜と一緒にいられる。

 一度そう考えたら止まらなかった。そしていつの間にか、由依は電車のホームに立っていた。

 ホームドアがなく、すぐそばを電車が通る駅。各駅停車しか停まらないため、準急や急行は通り過ぎる。

 次の急行が来るまで十分ほどだ。急ぐ必要はない。

 由依がそう思っていると、不意に後ろから声をかけられる。


「あの、もしかして自殺する気ですか?」


 声をかけてきたのは、学ランを着た中学生くらいの男の子。身長は由依と同じくらい、全体的に細めで覇気がなく、目は死んだ魚のような目だったギリギリ生きている、そんな様子が感じられる。

 今から命を絶とうするというところで声をかけられた由依は、最後の気分を邪魔された気がして、らしくもなく少しイラついて返事をした。


「だったらなに。止めようとしても無駄よ」


 確固たる意思があった。誰に何を言われても、やめない自信があった。

 しかしその少年が言ったのはこんな言葉。


「いや、止める気はないです」

「じゃあなによ」

「もし自殺するんだったら飛び込み自殺はおすすめしないです」

「……どういう意味?」

「飛び込み自殺は家族に尋常じゃないぐらいの損害賠償がいくんです。自殺するってだけでも迷惑かけてるのに、死後も迷惑かける気ですか?」


 さらにその少年は続ける。


「樹海とかどうです?でも僕急いでるんで、あなたがいいなら飛び込みでもいいですけど、とりあえず後にしてもらっていいですか?どっちかっていうとこっちが本音なんですけど」


 少年は一方的に話すと、ホームに来た各駅停車に乗り込んだ。


「じゃ、失礼します」


 そう言って少年を乗せた電車は去ってしまった。

 止められると思っていた由依は完全に呆気に取られた。それどころか飛び込みという方法を咎められ、違う方法まで提案された。極め付けは急いでるから巻き込まないでくれというお願い。

 少なくとも、自殺を考えている人間に向かって言う言葉ではない。

 その少年の登場により、由依の心に疑問が生まれた。

 この自殺になんの意味があるのだろうか、と。

 確かにこの苦しみからは解放されるかもしれない。けれど、それは逃げているだけではないのか。桜の死と向き合おうともせず、ただ我が身可愛さに楽な選択肢を取っているだけではないのか。

 答えはわかっていた。それを認めるのが、自分の弱さを認めることが怖かったのだ。長年積み重ねた結果のプライドがそれを邪魔していた。

 自分が前を向けなくなるなら。前に進めなくなるなら。そんなプライドは捨ててしまった方がいい。


「世の中には変な人もいるものね……」


 気づいた頃にはそう呟き、自殺しようとしていた自分が馬鹿らしく思えてきていた。

 どうするのが正解だったのか。これからどうやって生きていけばいいのか。今の由依にはわからない。

 だったら、生きるしかない。その答えを知るために。

 自分が死んだところで、誰が得するわけでもない。自分一人がいなくなっても、世の中は変わらず回っていく。だったら、少しでも長く生きようじゃないか。

 この一年間の自分をもし桜が見ていたら、確実に怒られているだろうなと由依は思った。

 そのくらいこの一年間は酷かった。いつまでも前を向かずに後ろばかり見ていた。

 桜のために、なんて言ってもきっと彼女は納得しない。

 だからあえて言おう。

 桜のためではなく、自分のために、残された人生を生きようと。


 そこから由依は変わった。勉強に今まで以上に力を入れ、周りの人たちともうまく付き合うようにした。もちろん最初は受け入れてもらうことは難しかった。けれど根気よく、あの頃の自分にケジメをつけるように関わっていくことで、一人、また一人と友達が増えていった。

 この学校には絶対に部活に入らなければいけないというルールがある。けれど由依は何かと理由をつけて入っていなかった。

 そんな時、現代文を担当していた小竹瞳先生から相談部への入部の打診があった。


「相談部?」

「そう!今年は入部希望者ゼロでね〜。羽沢さんさえよかったら。どう?」

「そうですね……」

「きっと、あなたのためになるよ」


 そう言った瞳の目は真剣そのもので、適当に言っているようには見えない。最近の由依の様子から何か感じ取ったのだろう。普段はおっとりしているが、見てるところは見ているのだと感心させられる。

 誰かの相談に乗る資格があるだろうかと、由依は悩んだ。自ら変わることを選んだが、桜のことを救えなかった事実は消えていない。


「誰かのためにすることが、自分のためになることもあるのよ。自分の人生なんだから、自分を中心に考えてもいいと私は思うわ」


瞳はそう付け加え、職員室へと戻っていった。


「自分のため、ね……」


自殺をやめた際、自分が何を決意したかを由依は思い出していた。

正直、自分が誰かを救えるとは全く思っていない。けれどもし、自分と同じような思いをした、あるいはしそうな人がいたら、その人に手を差し伸べることぐらいはできる。

まずはやってるべきかもしれない。由依はそう判断した。

 相談部に入部した由依は、先輩たちと様々な相談に乗っていた。持ち込まれる相談は些細なもので、時には雑用だと思われるようなものもあった。

 しかし由依は、その活動に一定の充実感を得ていた。誰かのために何かをしている自分に満足しているだけかもしれないし、偽善かもしれない。それでも、何もやらないよりはマシだと、由依は考えていた。

 その相談で役に立っていたのは、桜との会話で培っていた人の話をよく聞くというスキルだ。最初は桜の見様見真似だったが、次第に会話の流れやコツがわかるようになり、スムーズに相談に乗れていた。彼女が自分に与えた影響が凄まじいと改めて思う反面、この成長を見せることができないと思うと、寂しいものがある。

 そんな調子で一年生を終えて、二年生になった。先輩たちが卒業し、部員は一人だけとなったが、一人の方がより真摯に相談者向き合えるのではないかと考え、部員は募集しなかった。

 二年生の三学期、定期テストが終わりあとは春休みを迎えるだけとなったある日、職員室で顧問である瞳とある男子生徒と話しているのを見かけた。


「あれは……」


 そこにいた男子生徒は、二年前駅のホームで話しかけてきたあの男の子だった。あの死んだ魚のような目は間違いない。背は少し伸びただろうか。けれど表情は冴えないまま、あの時のままであった。

 彼もきっと、惰性で生きている。由依はそう確信できていた。だからこそ、行動に移るのは早かった。

 瞳とその男子生徒が話し終えたのを見届け、彼女に声をかけた。


「あの子は?」

「ああ、部活入ってって言ってるんだけど頑なに入ってくれなくてねー。困ってるの」

「そうなんですか…じゃあ、相談部に連れてきてください」

「え、いいの?募集したくないんじゃなかった?」

「大丈夫です。お願いします」


 そう瞳に言って、新学期に彩人を連れてきてもらうことにした。

 新学期初日、HRを終え、由依はすぐ部活に向かった。椅子に座って文庫本を広げていると、ドアをノックする音が聞こえる。


「どうぞ」

「失礼します」

「あなたが倉木彩人くんね」


その再会は、感動的なものでもなんでもなかった。ただ、その男子と長い付き合いになることを、この時の由依はまだ想像もしていなかった。



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