第35話 過去⑪
由依が去った後、三年A組のクラスの雰囲気は文字通り最悪だった。
折本里香のグループ以外は誰一人話さず、当の本人たちは苛立ちを露わにしている。
「くそ、なんなんだあいつ」
里香が悪態をつくと、
「まじムカつくよね」
「正義の味方気取り?きっしょ」
と、取り巻きたちも一緒になって悪口を吐く。
しばらく黙っていた里香だったが、なにか思いついたように顔を上げる。
「そうだ、いいこと考えた」
「なになに?」
取り巻きたちが食いつき、里香が詳細を話す。
「里香、もしかして天才?」
「さすがだわ」
その話を聞いた取り巻きたちが里香を賛美し持ち上げる。
「これであいつも大人しくなるだろ」
由依が三年A組のクラスに来てから一週間。
里香が課した情報統制は絶対的で、口を割る者は誰一人おらず、由依は証拠集めに苦しんでいた。誰も口を割ろうとはしない状況に、根をあげそうになる。
反対に里香のグループは、ある程度由依を泳がせ、その様子を見て楽しんでいた。
「そろそろいいんじゃない?」
取り巻きの一人が、里香にそう進言する。
「そうだな。じゃあタイミング見計らって頼むわ」
里香は取り巻きの内二人に由依を見張らせた。
狙いはトイレ。
直接何かを言うわけではない。あくまで間接的に由依に伝えるのだ。
そして五限目の休み時間、由依がトイレに一人で向かったのを確認した二人は、由依の後についていった。
由依が個室に入ったこと、由依以外に誰もトイレに入っていないことを確認し、大きな声で話し始める。
「つかさ、最近うちらのクラス嗅ぎ回ってるやつうざくね?」
「あ、それな。羽沢?だっけ?」
「あー確かそんなような名前」
二人は由依のことを心底馬鹿にしたような声音でケラケラと笑う。由依を傷つけることに重きをおいたような感じだ。
「門脇がああなったのも、元はと言えばあいつが悪いのにな」
「そうそう。里香のグループにいればよかったものをわざわざ離れてあんな地味な子と仲良くするから」
「そんなん里香が黙ってる見てるわけないのにね」
「それな」
全くもって道理が通っていない話だった。しかし今はそこが重要ではない。羽沢由依が責任を感じるように仕向ければいいだけ。整合性など彼女らにとってどうでもいいのだ。
「なのにどんどん仲良くなっちゃって。里香もどんどん機嫌悪くなっていったよね」
「まじ怖かった」
「でも羽沢が見てないところでちょっかいかけるようになってからマシになったよね」
「ガス抜き的なね」
「クラス一緒になってからはほぼ毎日だったし」
「終いにはあれでしょ」
「そう、ストラップ潰し」
不快な笑い声がトイレに響く。
「あ、そろそろ授業じゃん。戻ろ」
二人は里香の作戦通り最悪な空気を作り出し、できる限り由依を追い詰めるような発言を残してトイレを去った。
トイレにいれば、耳を塞がない限りどんな会話でも聞こえてきてしまう。前もそうだった。
一年生の時。クラスで同じグループの女の子に陰口を叩かれていた。それがきっかけで由依は桜と知り合うことになったのだ。
だが今回は、前回の比ではない。
聞こえてきたのは桜がなぜいじめられていたのか。由依がずっと探し回っていたがわからなかったところだった。
由依は完全に言葉を失っていた。それも当然だ。探し求めていた原因が、自分だったのだから。
あの二人の話が嘘という可能性もある。だがあの口ぶり、内容からして実際に見てきた者の発言だということが由依にもわかった。
「私の……せい……?」
ようやく口にしたのはそんな言葉。
水道の鏡に自分が写る。そこにはかつてないほど酷い顔をした羽沢由依がいた。
自分が桜を自殺に追いやった。
自分が関わらなければこんな結果にはならなかった。
もしあの時桜に対して仲良くするという選択肢を取らなければ。
自分の立場というものをもっと理解できていたなら。
もっと上手く友人関係を築いて学校生活を送れていたなら。
時折複雑な表情をしていた桜に勇気持って話しかけることができていたなら。
そんな後悔が一気に由依を襲う。
悔やんでも悔やんでも、その後悔の矢は延々と由依の心に刺さり続ける。
もう何もかも手遅れなのだ。
何も思ってももう桜は帰ってこない。
その事実が、より一層由依を追い込む。
動悸が止まらない。
息が苦しい。
もう前を見ることはできない。
いや、許されない。
自分がいなければ桜がこうなることはなかった。
だから自分には前を向いて歩く資格なんてない。
そうしても償いにはならないことは分かっている。
けれどそう思うことしか、今の由依にはできなかった。
学校には通い続けざるを得なかった。もちろん行きたくないという思いは由依の中にあったが、母親からその許可が降りるとは到底思えない。
ただ一つだけ心に決めたことがあった。
この学校を辞め、違う高校に進学すること。
環境も空気も、由依には限界だった。味方は誰一人いない。唯一の味方も、自分の手で殺したようなものだ。
そんな学校に居続けられるわけがない。
一刻も早く、ここから逃げ出したかった。
「違う学校に進学したい?」
その日の夕食時、由依は母親の静香に自らの希望を告げた。
「……はい」
「自分が何言っているか分かってる?」
静香が反対するのも当然である。自分の子供には自分の敷いたレールを歩いていって欲しいのだ。
それと同時に由依もここだけは譲れない。どうしてもこの環境から離れなければならないのだ。だが、ことの顛末を静香に話す気にもなれない。話したところで無駄だからだ。きっと理解されない。
「厳しい倍率を勝ち抜いて手に入れた権利を自ら放り出すというの?」
「……」
その問いには答えなかった。その代わり、意を決したように席を立ち、自分の親に向かって頭を下げる。
「お願いします。お母さんの望むレベルの大学には絶対に行きます。だから、どうか、違う高校に進学することを許してください」
「由依……」
子供が親に頭を下げる事態がどれだけ異常か、さすがの静香も理解していたようで動揺を隠せない。
由依は頭を下げ続けた。この願いが聞き届けられるのなら、どんなことでもする。その覚悟を由依は持っている。
沈黙を破ったのは静香の声だった。
「……わかったわ。そこまで言うのなら、それ自体は認める。ただし私が指定する大学に必ず進学すること。それが条件よ」
「……はい、ありがとうございます」
人生で初めて母親に逆らった。初めて要求を呑んでもらえた。
ただ、嬉しいなんて感情にならないのは、どうしてだろうか。
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