第33話 過去⑨
教室で待っていた由依のスマートフォンに、一件の通知が届く。
『ごめん、先帰るね』
その通知を見た由依は、すぐさま桜に電話をかけた。
普段の桜なら、間違いなく理由を併記する。この二年間も決してそれを欠かしたことはなかった。
そんな桜が由依に理由も告げず連絡だけ寄越すというのは、由依にとって違和感しかない。
だが、桜は出なかった。何度かけても、つながることはなかった。
電話をかけながら由依は下唇を噛んだ。電話に出て話を聞かせて欲しい、そんな思いが由依を急かす。
痺れを切らした由依は桜の家に向かうことにした。幸い家自体はそう遠くなく、何度も訪ねているので場所はわかる。
桜の家は由依の家がある保谷駅から一駅の大泉学園駅にあり、学校がある中村橋駅からは十分ほどで着く。
学校から急いで駅へと向かい、各駅停車の列車に乗り込む。いつもならすぐ着くはずのこの十分も、今か今かと待ち侘びる由依にとっては非常に長く感じる時間でなんとも歯痒い気分になっていた。
大泉学園駅へ着くや否や、由依は全力で駆け出した。二年前桜と江ノ島に出かけてから、日々の運動は欠かしていない。あの時より体力ははるかについたはずだ。
だが今は色々な思いで胸が詰まり、息が苦しい。暑さで流れる汗を拭いながら、一歩一歩確実に踏み込む。
がむしゃらに走っていると、桜の家が見えた、呼吸を整え、インターホンを押す。
『はい』
出たのは桜の母親だった。
「羽沢です。桜さんいますか」
由依がそう声を出すと、インターホン越しの桜の母親は困ったように押し黙り、ようやく聞けたのはこんな言葉だった。
『……桜に由依ちゃんが来ても通さないでって言われてるの』
「っ⁉︎」
彼女のその一言に、由依は言葉を詰まらせる。
どうして。
そう思わざるを得なかった。きっとただことじゃない何かが桜の身に起きているはずなのだ。そんな時に話すことも会うこともできないなんて。
『だから……ごめんなさい』
インターホン越しの声は、無情にもそう告げた。きっと桜の母親も思うところはあり、今は桜の意思を尊重したいのだろう。だから責める気にはなれなかった。
「……わかりました。今日のところはこれで失礼します」
ここで粘るのは得策ではない。だが由依は続けた。
「でも、明日も、明後日も、来ます。桜に会えるまで」
相手が目の前にいるわけではない。インターホン越しだが、その確固たる決意が向こう側に伝わるようにそう告げた。
『……わかったわ。気をつけてね』
桜の母親にも会わせてあげたいという気持ちはあるのだろう。だが今は自分の娘が最優先のはず。
娘を最優先に考える母親を前に、胸がちくりと痛む。これが本来あるべき母娘の関係なのだと、そう感じてしまう。
由依は桜の家を離れ近くの公園のベンチに座り、空を見上げた。
そこには晴れ間はなく、曇天が広がっている。どんより暗く、今の由依の感情を表しているようで、余計に気持ちが落ち込む。
「……」
三十分ほどそうしていただろうか。
空も心も、晴れないままだ。
次の日もその次の日も、由依は桜の家を訪ねた。
試験休みのため、学校はない。
『ごめんね、今日も来てくれたのに』
「いえ。また明日来ます」
インターホン越しの声音は、由依を気遣っているようだった。毎日娘のために来ている人間を追い返さなければいけない苦労もあるだろう。
それでも無理に会わせようとはせず、由依を避けようとしている。学校に関連していること自体に触れさせたくないのかもしれない。
試験休みの一週間、由依は毎日桜の家を訪ねたが、結局会うことは叶わなかった。
終業式。いつもはしばらく学校がないことに胸を弾ませるが、今は全くそんな気分にはなれない。
三十度を超える暑さの中、全校生徒が体育館へ詰め込まれ校長先生や生活指導の先生のありがたいお話を聞かされる。
そんな地獄のような行事にも悪態がつけないほど、由依は桜のことで頭がいっぱいだった。
桜のクラスの列に目を向けたが、桜の姿は見えない。今日も来ていないのだろうか。
早く桜の下へ行かなければいけない。その思いが由依の脳を支配していた。
終業式を終え、それぞれのクラスへと戻っていく中、なにやら教師陣がバタバタしている。いつもは口うるさく注意してくるのに、教室へと戻る列がバラバラでも教師たちは目もくれない。
教室に戻っても、ざわつきは変わらなかった。担任も戻ってくる気配がない。
一体どうしたのだろうか。そう思って五分ほど待っていると担任が駆け込んできてこう告げた。
「ごめん!今日はこれで下校して!通知表は郵送します!」
そう大声で伝えると神妙な面持ちに変わり、由依の元へ歩みを進める。
「羽沢さんは、職員室まで来て」
その暗く重い声色に、由依は胸騒ぎを覚えた。
担任と共に職員室まで行くと、いつも静かな様子とは一転、非常に騒がしく忙しない。
奥の応接間へと連れて行かれ、着席を促された。
「心して聞いて欲しいんだけど」
担任がそう切り出し、息を呑む。
「門脇さんが、亡くなったわ」
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