第32話 過去⑧
梅雨が明け、ジメジメと湿気を大いに含んだ熱気に包まれる七月がやってきた。
「暑い……テスト……無理……」
「いつにも増して語彙が死んでいるわね……」
期末テストが明日に迫り、勉強が佳境を迎えていた桜は、暑さも相まってなかなかにひどい顔をしていた。
「すごい顔してるわよ今」
そう由依が笑うと、
「やめて見ないで!」
と、桜が元気に返す。
そのやりとりはいつも通り。二人にとって普通で、そこにはなんの違和感も存在しない。
この一月、二人は距離を計りつつ今まで通りに過ごそうとしていた。決して踏み込まないで上辺だけのやりとりを続け、様子を見る。
それが正解だったのかはわからない。けれどギクシャクしているよりこちらの方がいいと、由依はそう思っていた。
「テスト終わったらさ、どこか出かけようよ」
桜がふと、そんなことを言い出した。
期末テストは三日間あり、最終日が終わるとテスト休みになる。そこから終業式までは採点期間となっており、通知表と同時にテスト返却が行われる。定期テストが終わった後授業がないのは公立との違いであり、私立の強みだろう。
「私は構わないけれど……勉強の方は大丈夫なの?」
この勉強はテスト勉強の方ではなく、桜の受験勉強の方だ。
桜の志望校は由依が通うことになる高校より偏差値は下がるが、決してレベルの低い高校ではない。夏休みにいかに勉強できるかが、合格の鍵となってくる。
「う……遊ばない方がいいかなあ……」
桜がしょんぼりし、がっくりと肩を落とす。
いつもは桜に厳しい由依だが、そこまで落胆されると少しかわいそうになってくる。
「まあ、一日ぐらい息抜きしてもいいんじゃないかしら」
咳払いして少し頬を染めながら由依はボソッと呟いた。
「だよね!一日ぐらいいいよね!」
「切り替えが凄まじいわね……」
あまりの切り替えの速さに由依が呆れていると、桜が小指を差し出してきた。
「約束ね」
由依も小指を差し出し、指同士を絡ませる。
「ええ、約束」
この約束が果たされることを願いながら、丁寧に。
期末テストをなんとか乗り越えた桜は、帰り支度をしていた。
由依とどこに出かけようか考えながら準備していた時、ふとキーケースが目に留まる。
「あれ……?」
キーケースにつけていたはずの由依とのお揃いのストラップが見当たらない。すぐに周りを見渡すが、どこにも落ちていなかった。
「あんたの探し物これ?」
後ろから威圧的な態度で声をかけてきたのは折本里香だ。
桜が後ろを振り返ると、里香の手の平にあのストラップがあった。
「あ、それ……!」
そう言いながらストラップに手を伸ばすと、里香は手を握ってそれを桜から遠ざけた。
「さっきそこで拾ったんだよね〜。でもこのまま返すのもムカつくから、返して欲しかったらさ、『返してください』って言えよ」
里香が口元に笑みを浮かべながら、桜を馬鹿にしたような態度でのたまう。
「あ、ついでに『いつも反抗してすみません』って謝って」
桜の取り巻きが横から口を出す。その顔はひどく楽しそうで、桜は腑が煮えくり返りそうだった。
そんなことを言いたくもなければ、頭を下げるなんてもってのほかだ。自分は悪いことなど何一つしていない。
その確固たる思いがあったからこそ、桜は今までやってこられたのだ。
だが、今はそうも言っていられない。あのストラップだけは、取り返さなくてはならないのだ。
あの日、あの場所で、大切な友達と一緒に買った宝物だ。それには値段以上の価値が詰まっている。
買い直しても、決して同じものは手に入らない。唯一無二のストラップ。
どうしてこんなやつにという思いを噛み殺しつつ、
「……いつも反抗してすみませんでした。ストラップ、返してください」
桜はなるべく感情を込めずに、謝罪の言葉を口にして頭を下げた。
その言葉を聞き、里香と取り巻きがくすくすと笑い始める。
「ほんとに言ったんだけど」
「どんだけ返して欲しいんだよ、きも」
カシャカシャとスマホのシャッター音までも聞こえてくる。
どれだけ恥辱を受けようとも桜は耐えた。ストラップさえ返ってくるなら安いものだ。そう考えることしかできなかった。
「ま、いいや」
里香はそう言って握ったストラップを桜に差し出した。
妙に素直な里香を目の前に少し拍子抜けした桜だったが、おずおずとストラップに手を伸ばす。
その時だった。
里香が手の平をひっくり返しストラップを落とすと、勢いよく足で踏みつけたのだ。
ぐしゃり。
プラスチックが粉々になる音が、教室に響いた。
「あ、ごっめーん。手も足も滑っちゃった」
里香に悪びれた様子はなく、楽しそうに笑っている。
取り巻きもそれに便乗し、
「ちょ、手も足も滑るってなんだし」
「聞いたことないから」
と、声を出して笑う。
その様子を目の当たりにした桜は言葉を失った。足元にはバラバラになったストラップ。それを見て笑う折本里香とその取り巻きたち。
怒りも悲しみも、なんの感情も湧いてこない。
ただひたすらに無だった。
このやりとりが始まった頃は少し残っていたクラスメイトも、今は誰一人としていない。みな逃げたのだ。
心が壊れるとはこういうことを言うのだと、桜は身をもって実感した。
何も感じない。何も言葉にできない。
涙も流れない。怒りさえしない。
目から正気が失われ、世界がモノクロになる。
もう何もかもどうでもいい。
粉々になったストラップを一つ一つゆっくりと集め、桜はその場を去った。
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