第20話 存在

 朝目を開けると、眼前には奇跡みたいな光景が広がっていた。

 長い睫毛に鼻筋の通った綺麗な鼻。ほんのりピンクに色づいた唇がスースーと寝息を立てている。少しはだけたパジャマからは透き通るような白い素肌が見える。世界の百景にランクインしそうな由依の寝顔は、彩人の目を一瞬で覚ますのに充分すぎる威力を持ち合わせていた。


「……顔を洗おう」


 纏わりついた雑念を落とすように顔を洗い、身支度を整える。

 時刻は八時半を回っていた。そろそろ由依を起こさないと間に合わない時間なのではないか。先ほどから由依のスマホがけたたましくアラームを鳴らしているが、由依は一向に起きる気配がない。

ベッドの方に目を向けると、由依はまだスヤスヤと寝ていた。無音カメラで写真に収めたい欲をグッと堪え、本能を押し殺し由依に声をかける。


「先輩、起きてください。もう八時半ですよ」


 声をかけたついでに接地面をできるだけ減らして揺らすが、まだダメらしい。今度は強めに揺らすと、


「んー……。あと五分……」


 と、寝ぼけた声でそう言った。

 これはあれだ、朝が弱いタイプだ。彩人は由依の反応を見てそう確信した。ようやく由依の完璧ではないところを見つけて少し嬉しくなったが、同時に由依が彩人の家に泊まったときのことを思い出していた。

あの時は確か、由依が彩人より早く起きて朝ごはんを作っていてくれたはず。学校がある日の朝だったため、かなりの早起きを強いられる。

ということはあの時由依は、朝が苦手なのにも関わらず早起きをして、彩人のためにわざわざ朝ごはんを作ってくれたことになる。

 それ、めちゃめちゃ可愛いのでは?などと彩人が考えていると、由依がガバッと急に起きた。そして寝起きのためか照れのためか、真っ赤になっている顔を両手で覆い、


「死にたい……」


 と、まるで世界が終わるかのような声でそう言った。


「僕は可愛いと思います」

「うるさい!着替えるから出てって!」


 由依はさっきよりも顔を真っ赤にして、由依らしからぬ大声で彩人のことを追い出した。


「やっぱりあの人、可愛いな」


 指示通り廊下に出た彩人は、数分前の出来事を一つずつ丁寧に思い出し、そう無意識につぶやいていた。

 一人でニヤニヤしていると、スマホに「もういいわよ」と由依から通知が来ていた。

 部屋に戻ると由依は平静を取り戻していて、すました顔をしていた。とても先ほどまで取り乱していたとは思えないほどだ。


「倉木くん、さっきのは忘れなさい」

「あれを忘れられる男子高校生なんていないですよ」

「いいから忘れなさい」


 忘れる気は毛頭ない彩人だったがここで不機嫌になられるのも怖いので、


「努力はします」


 と、とりあえず場を収めた。


「じゃあ行くわよ」


 二人は部屋を出てエレベーターで一階に降り、ホテルをチェックアウトした。フロントで従業員に部屋のトラブルのことを謝罪されたが、色々と素晴らしい経験をしたので彩人は心の中で感謝していた。

 和希の家は仙台駅から電車で三十分ほど行ったところにあるらしい。

 在来線に乗り込み、座席に腰をかける。土曜日であるためか、車内は少し混んでいた。

 和希の家の最寄りに着くまで、二人の間に会話はなかった。話さないと決めていたわけではない。ただ、自然とそうなったのだ。

 自分の過去と向き合うにはかなり気力が必要になる。由依はそれを身をもって知っている。だから彩人に話しかけなかった。彩人も彩人で、話しかけられてもまともに返事できなかっただろう。

 普段なら長いと感じる三十分という乗車時間も、今日だけは短く感じていた。二人を乗せた列車はあっという間に目的地に到着した。

 列車を降りた二人は、改札を抜けて住宅街に入っていった。由依はスマホを確認しつつ進み、彩人は金魚の糞のように後ろにくっついている。この間も、会話はなかった。

 彩人が空を見ながらぼけっと歩いていると、由依が足を止めた。


「着いたわよ」

「ここが和希の家……」


 その一軒家は、閑静な住宅街の中に建てられていた。都会と少し離れた、静かな時間が流れている。


「私は基本静観してるつもりよ」

「はい、わかってます」

「……」

「……」

「なんでインターホン押さないの?」

「いや、心の準備が……」

「はぁ……」


 由依はそう大きくため息をつくと、有無を言わせずインターホンを押した。


「あ、ちょっと!」

「しょうがないじゃない、このままだと日が暮れそうだったもの」


 彩人が由依に抗議してると、インターホンから声が聞こえた。


『はい。どちら様ですか?』


 インターホンに出たのは和希の母であった。


「こ、こんにちは。突然すみません。以前近くに住んでいた倉木彩人です」

『倉木さんのところの彩人くん!?』

「あ、はい、そうです」

『ちょ、ちょっと待っててね』


 和希のお母さんはそう言って一旦インターホンを切った。


「ふぅ……」

「なに一息ついてんのよ」

「つきたくもなりますって。忘れられてたらどうしようとか、帰れって言われたらどうしようとか色々考えてたんですから」

「あなたらしくないわね。私としては狼狽えてるところが初めて見られて面白いのだけれど」

「なんも面白くないですよ……」


 今後由依にバカにされそうなネタを作ってしまったことを彩人が後悔していると、玄関のドアが開いた。


「ごめんねー待たせちゃって」

「いいえ、突然押しかけたのはこちらなので」

「あら、そちらの女の子は?」

「ああ、学校の先輩です。色々手伝ってもらっていて、今日はわざわざ付き添ってくれたんです」

「初めまして。羽沢由依です」

「初めまして。和希の母の智子です」


 智子はそう自己紹介して、


「すっごい綺麗な子ね……」


 と、由依を見ながら感嘆の声を洩らした。


「でしょう?」


 彩人はなんだか嬉しくなり、思わずそう言った。


「なんであなたが自慢げなのよ……」

「ふふ、仲がいいのね。こんなところで話すのもなんだし、中入っちゃって」

「お邪魔します」


 智子に案内され、早宮家に足を踏み入れる。落ち着いた雰囲気のリビングに通され、ダイニングテーブルの椅子に座るよう言われた。

 智子も同様に腰をかけ、ふうと息をつく。


「久しぶり、だね」

「はい、お久しぶりです」

「引っ越して以来かしら……」

「そう、ですね……」


 智子もあまり触れたくないのか、声に先程のような張りがない。

 ただ、今日はそこに触れなければいけない。向き合うためにここに来たのだ。


「引っ越し先も言えずにごめんね」

「いえ、関わりたくない時期だったと思うので」


 すると智子が深呼吸し、改めて彩人の方に視線を向ける。


「……実はね、和希に言わないでくれって言われてたの」

「和希に……?」

「ええ、理由はわかんないんだけど……」

「そうですか……」


 やはり避けられているのだろうか。もう会いたくないと思われてしまっているのだろうか。

 来る前に考えていた不安が、ここに来て爆発しそうな気分に彩人はなっていた。思わず考え込み、自然と体に力が入る。


「落ち着きなさい」


 由依が彩人の手の甲にそっと手のひらを重ねる。その手のひらはとても暖かく落ち着くもので、彩人の心は徐々に平穏を取り戻していった。


「すみません、もう大丈夫です」

「そう」


 そう言って由依は手を元に戻した。

 そうだ、こういう展開になることも承知の上でここに来たんじゃないか。今更焦ることはない、彩人はそう思い直す。


「和希は今どこに?」

「自分の部屋にいるけど……」

「行っても、いいですか?」


 彩人は怖めず臆せず、力強い声でそう言った。智子の目をしっかりと見て、彩人の意思が伝わるように。

 智子は一瞬困ったような顔をしたが、すぐ彩人の目を見て、


「わかったわ。こっちよ」


 と、腰を上げた。

 とにかく和希に話を聞かないと始まらない。話してくれないかもしれないが、その時はその時だ。まずはきちんと話をしなければならない。

 智子は二人を和希の部屋まで案内し、部屋の中にいる和希に声をかけた。


「和希、お客さんよ」


 そう言って、智子はリビングへと戻っていった。


「和希、僕だ。彩人だ」

『彩人くん!?なんで……』

「住所は人伝に聞いたんだ」

『……ごめん』

「いや、いいんだそこは」


 中学時代の思い出は和希にとって辛い思い出だ。それを思い出させるような材料はなるべく遠ざけるだろう。きっと彩人自身も、和希と同じ立場だったらその選択をするはずだ。だから和希のことを責める気にはならない。


「……」

『……』


 二人の間を気まずい沈黙が流れる。

 約二年間、話してこなかったのだから当然かもしれない。最後に会ったのも、いじめが発覚した日だ。

 どうやって話しかけようか頭を悩ませていると、由依がふくらはぎを蹴ってきた。

 抗議のために顔を由依の方へ向けると、しっかりしなさいと言わんばかりの顔で彩人のことを見ていた。

 蹴る必要はなかったんじゃないかと思いつつも、彩人は深呼吸をし、なんとか落ち着くことができた。


『……どうしたの?』

「ん?ああ、今隣に学校の先輩がいてな。この人のおかげで、僕は今日ここに来れたんだ」

『そう、なんだ』

「いつか、会ってみてほしい」

『……』


 会話がなかなか続かない。昔はあんなに話せたのに、今とのギャップが彩人の心をもどかしくさせる。

 ただ、それを言い訳にして話さないという選択肢は取りたくない。取ってはいけない。彩人から話しかけるしかないのだ。


「……顔見て話せないか?」


 ドア越しの会話では表情がわからないため、いまいち感情がわからない。こちらの感情を伝えるためにも、顔を見て話したいところだ。

 ただ、和希の返事はそれを拒否するものであった。


『……ごめん』

「そ、っか」


 今日はこれ以上は無理だろうと彩人は判断した。無理に話せば彩人の印象も悪くなる。一日でどうにかしようと思わないでもいいのだ。ドア越しでも話せたことをポジティブに捉えよう。彩人はそう考え、今日は帰ることに決めた。


「和希、今日は一旦帰るよ。でも、一週間後にまた来る。一週間、考えてみてくれ」


 なにを、とは彩人は言わなかった。彩人が和希に会うために時間が必要だったように、和希にも時間が必要なのだ。一週間経っても、和希が彩人に直接会ってくれる確証はない。ただ、どこかで良い方向に転ぶと、彩人は思っている。

 返事を聞かずに彩人はその場を去った。

 リビングに戻り、智子に一週間後にまた来ることを告げて、家を出た。

 和希の家が見えなくなるところまで歩き、緊張が解けたかのようにその場でよろめいてしまう。


「ふぅ……」

「お疲れ様、あなたにしては頑張ったじゃない」

「お褒めの言葉ありがとうございます……」


 もっと素直に褒めてくれれば良いじゃないかと思いつつも、それをここで言うような恩知らずではない。由依がいなければそもそもここには来られてないのだ。


「お腹空いたわね」


 時刻はすでにお昼を回っていて、体力は使ったのか彩人のお腹もぺこぺこだ。


「牛タン食べに行きましょう」


 彩人がそう言うと、


「ふふ、言うと思った」


 と、由依が微笑んだ。




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