第14話 過去②
本格的な梅雨に入り一週間経った日の練習終わり、二人は部室で着替えていた。
「雨の日の練習は嫌だね」
和希は本当に嫌そうな顔をして彩人に向かってそう言った。
彩人も全く同じ感想であったため、
「本当に嫌だ」
と、こちらも心の底から嫌そうな顔をしてそう言った。
ふふ、と和希が笑い、自分の荷物を片付け始める。
そこで何かに気づいたのか、片付けた荷物を再度取り出している。
「彩人くん、僕の下カケ知らない?」
和希の問いに彩人は少し考えるが、
「いや、見てないな」
と、答えるしかなかった。
「そっか……」
弓道において最も重要な道具の一つに『弽』というものがある。古くから鹿革を用いて作られており、簡単に言えば、親指、人差し指、中指の三本の指を覆うグローブのようなものだ。
諸説あるが、「かけがえの無いもの」という言葉の語源ともされており、自分の手に馴染んだ弽は本当に替えの効かないものになっている。弓ほどではないが値段も張り、水気にも弱いので大切に扱わなければならない。
和希が探しているのはその弽をつける際に、自分の手に直接つける「下カケ」と呼ばれるものだ。自分の汗から弽を守る目的でつけるものであり、比較的安価であるが、こちらも弓道をする上では欠かせないものとなっている。
「無いのか?」
彩人は和希に尋ねた。
「うん……弓道場に忘れてきたかな……」
「まあどちらにせよ、貸せるくらいには予備あるからいつでも言えよ」
「うん、ありがとう」
和希は優しく微笑みながらそう言った。それに続けて、
「彩人くんにも優しいところあるんだね」
と、彩人を揶揄った。
「よしじゃあ今の話はなかったことに……」
「わー!ごめんって!」
和希との会話を彩人はいつも楽しんでいた。和希にとって唯一無二の友達が彩人であるように、彩人にとっても和希は一番大切な友達だったのである。
こんな日々がずっと続くんだろうなと、この時の彩人は根拠なしにそう思っていた。
七月に入り、梅雨も明けようかという日の練習終わり、二人は部室で帰り支度をしていた。暑さも本格的になってきており、袴から制服に着替るだけで汗が滲む。
「あれ、袴の帯変えた?」
彩人は当然のように些細な和希の変化に気づく。
「こんなところに気づくの彩人くんだけだよ……」
「それは光栄だなー」
「全然褒めてないんだけどな……」
いつものノリで会話をして、着替えを再開する。
「……帯はね、二本あったほうがいいかなって思って、片方洗濯中」
「なるほどな。僕も一応買っておこうかな」
「いいんじゃない?」
それはなんの変哲もない、他愛のない会話だった。少なくとも、彩人はそう思っていた。
その日の帰り道、和希は少し暗い顔をしていた。
その様子を見て彩人は、
「どうした?浮かない顔して」
と、声をかけた。
すると和希はその言葉にびっくりしたのか、ばっと彩人の方に顔を向けたが、
「……いや、なんでもないよ」
と、いつもの笑顔でそう言ってきた。
「そうか。でもなんかあったら言えよ」
和希の笑顔に安心し、彩人はそう声をかけた。
「うん、ありがとう」
「最後の大会も近いし、二人で頑張ろうな」
柄にもなく、彩人はそんなことを口走ってしまう。
和希はその言葉に一瞬戸惑うが、
「そうだね!」
と、元気な声でそう言った。
だが、大会二週間前のある日、その事件は起こったのだ。
その日彩人はクラスの用事で職員室に寄っていたため、弓道場には遅れて行くことになっていた。
大会二週間目ということで、メンバーも固まりつつあり、彩人と和希は同じチームになることがほぼ確定していた。二人とも調子は良く、このまま崩れなければきっと上に進めるだろうと、彩人は確信していた。
「失礼しました」
そう言って職員室を出て、彩人は急いで部室に向かう。
階段を降り、靴箱に向かって靴を履き替える。
梅雨が明けたため外は非常に蒸し暑い。
部室に着き、荷物を置いて、袴に着替える。部室には冷房も扇風機も置いていないため、着替えるだけで汗が出てくる。
ようやく着替えを終え、必要なものを持ち、部室の鍵を閉め、弓道場へ向かう。
弓道場に近づくと、少しざわついている。
「どうしたんだ?」
外にいた後輩に声をかける。
「いや……」
後輩ははっきりとしたことは言わず、誤魔化している。
「なんだ……?」
嫌な予感が彩人を襲った。
そしてその嫌な予感は、的中してしまう。
弓道場に入る際の作法も無視し、急いで弓道場に入る。
そこには、彩人が最も危惧していた、最悪の状況が広がっていた。
弓道場の真ん中で立ちすくむ和希。
その手には、ズタズタに引き裂かれた弽。
目にした瞬間、彩人は血相を変えて激昂した。
「おい!誰だよこんなことしたやつは!」
それは恐らく、人生で一番大きい声だった。
「これがどんなに大切なものか、お前らだってわかってんだろ!」
弓道部員ならば、これがいかに大事なものか、理解しているはずだ。故に、これを狙うことができるのも、弓道部員になる。
「誰だって言ってんだよ!」
声を荒げるが、誰も、答えない。
誰も何も言わない。
場にそぐわない静かな空気がただただ流れている。
真夏にも関わらずその空気は冷え切っていて、まるで今の弓道部の熱量を表しているようだった。
「もういいよ、彩人くん」
その静かな空気を切り裂いたのは、和希の声であった。
「こんなことされていいわけないだろ!」
「もういいって言ってるんだ!」
それは、初めて聞く和希の大声だった。
「……っ!」
聞いたことのないその叫びを聞き、彩人は何も言えなくなった。
「もういいんだ……」
和希の声は、今にも消えそうなほど、細く、弱かった。
「和希……」
なんて声をかけたらいいのか、そもそも声をかけるべきなのか、彩人はわからなかった。わからなかったから、そこに立ち尽くすことしかできなかった。
「でも、彩人くん……」
和希が口を開く。彩人の方に、涙で濡らした顔を向け、こう言った。
「僕もう、頑張れないよ」
それから和希は部活に来なくなり、次第に学校にも来なくなった。
彩人は何度も和希の家を訪ねたが、今はそっとしておいてくれと、和希に会うことは叶わなかった。
彩人はことの全てを後から聞いた。
和希が話し方や態度から部員に疎まれていたということ。
少しずつ嫌がらせやいじめが始まっていたこと。
それが彩人がいないところで行われていたこと。
クラスでも仲間外れにされていたということ。
悪口だけにとどまらず、暴力や和希の持ち物を隠すというところまで発展していたこと。
そして、その行為を見ていた部員に和希が、彩人には伝えないでと言っていたこと。
それらを聞き、彩人は自分を責めて責めて責め続けた。
自分にもっとできることがあったんじゃないか。なんでもっと和希に話を聞かなかったんだ。そんな後悔が容赦なく彩人を襲う。
『彩人くん、僕の下カケ知らない?』
後悔をすればするほど、和希との会話を思い出していた。
『彩人くんがいないの心細いけど、なんとかやってるよ』
もっと聞き出せていたなら。
『……この前の練習で破れちゃって、新しいのを買ったんだ』
なんで嘘を見抜けなかったのか。
『……帯はね、二本あったほうがいいかなって思って、片方洗濯中』
変化には気づいていたのに。どうして疑わなかったのか。
そんなことを考えていても後の祭りだということを、彩人はわかっていた。
ただそれでも、自分ならどうにかできたんじゃないかと、そう思うことしかできなかった。
実行犯はもちろん、何もせず見ていた周りの部員のことも彩人は許せずにいた。
この状況を知っておきながら何もしなかった。そしてあの惨状を見ても、部員たちは何もせず、静観しているだけだった。
しかしそんな奴らよりも許せなかったのは、自分自身であった。
次の日には部活をやめ、人と関わることをやめた。
人を信じることをやめた。
それがなんの意味もないことも、彩人はわかっていた。こんなことをしても、和希が救われる結果にはならないということも。
全てがどうでもよくなって、惰性のまま残りの学校生活を過ごした。この間のことを、彩人はほとんど何も覚えていない。自分が何を考えてどんな行動をしたのか、はっきりとした記憶がない。そのくらい、彩人にとって和希の出来事は大きかったのだ。
しかし中学三年生なので、当然受験はやってくる。
乗り気ではなかったが、離れて暮らしている両親に高校は行っておけと言われているので行くしかない。
「どこでもいいな……」
部活を頑張りつつも勉強はしていたので、ある程度勉強すればそこそこの高校には入れるくらいの学力を彩人は持っていた。
「……ここでいいか」
彩人の目についたのは、自由な校風が売りの都立の学校だった。髪染めもピアスも自由で、制服も存在しない。満員電車に悩まされることなく、家から三十分程度で着く立地も彩人にはちょうどよく思えた。
部活に関しての情報は、一切見なかった。どんな部活があるのか、知ろうともしなかった。
何があろうと部活には入らない。そう心に決めて、彩人は高校に入学した。
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