来い、恋、好意

雪猫なえ

来い、恋、好意

安宗孝やすむねたかのことが好きだ」


 何度そう確信したかわからない。けど、きっとこれが結局正解なんだと思う。

 何回も巡り巡って何回も同じ答えに行き着くことはざらで、昔から「結局最初に戻る」癖があった。そういうときは結局それが正解なんだと思う。

 最初っから、自分がどうしたいのか、どれが好きなのか、その答えは出ているってことなんだろう。理屈も頭の中で構築するけど、最終的に直感優位で生きてきた気がする。


鞠花まりか?」


 電話口で親友の留衣るいが不思議そうな声を出す。高校時代から聞き慣れたこの声とは、もう五年の付き合いになる。

 緑アイコンが特徴のSNSアプリが定着したのはもはやすっかり前のことだけれど、私たちが生まれた後の出来事だから最近と言えば最近で、つまり、時の流れってすごく早い。


「ごめん、ぼーっとしてた」


「またぁー?頭の中、あの人のことでいっぱいじゃーん」


「まあ、一応恋患ってますから」


 留衣が楽しそうにケラケラ笑っていられるのは恋患いの辛さをわかっていないからだと思う。でも、こんなにしんどいもの、経験しないならしない方がいいと思う。むしろ留衣にはこんな思いを経験してほしくないかもな、とまで思う、かもしれない。

 留衣は片思いを含めても恋愛経験が少ない。話を聞いてはくれるしアドバイスもくれるし頓珍漢なことは言わないけれど、共感性にはいまいち欠ける。でもそれは仕方のないことで、どうしようもないことで、批難することでも直してもらうことでもないので、毎日のように、ただただ愚痴を聞いてもらっている。

 この時点で十分感謝するべきではある。


「恋患い。恋患いですよぉ!んもうしんどい!」


「毎日言ってるよねー、本当しんどそー」


「他人事だと思って」


「まあ、よくわかってはあげられないから」

 ここまではっきり割り切ってくれているとむしろこっちとしても清々しい。


「こちとら恋愛脳で毎日毎日大変だってのにさー」


「ははは、ご愁傷様です」


 留衣とはほぼ毎日連絡を取るし、私は秘密にしたいことなんて何もないし、一番情報開示している親友で、通話も頻繁にしている。うだうだうだうだ、意味も内容もないような会話は日常茶飯事だ。

 中高生の時は、朝の情報番組で特集される、用事がなくても毎日のように電話を繋いで何を話すわけでもない女子大生の実態に驚愕したし、理解不能だと思ったし、そんなに一人は嫌かと心底見下したものだが、今なら理解できる。

 私の場合、別に一人が嫌とか寂しいとかではない。それこそ春先、一人暮らしを始めたての頃は、そういう感情があったのかもしれないが、寂しいから通話といったシンプルで明瞭な理由ではなく、「なんとなく」と言った方が正しい。

 もちろん、それが「寂しい」ということなのかもしれないけれど。

 何をするにしても自分の作業効率は著しく下がるし、正直切りたいと思わないこともないときもあるのだが、なぜだか言い出しにくい。一種の現実逃避でもあるのかもしれない。


「私、告白しないってこの前言ったじゃん?」


「あぁ、言ってたねえ」


「あれ、撤回しようかなって最近思い始めた」


 何かを決心したとき、留衣に宣誓することも日常茶飯事だった。数日前も彼、宗孝には思いを告げないままインターンシップを終える、それでバイバイだと言い放ったばかりだった。

 留衣は、聞いたら答えてくれるが、良くも悪くもお節介をするタイプではない。だからこの前も「まあ、あんたがそれでスッキリすんなら、いいんじゃない?」なんて言ってさらっと受け止められたところだったのだ。


「ほう、告白するとな」


「うん、やっぱり、私言わないと気が済まない性分みたい」


 過去の恋愛もそうだった。成就の有無は関係ないのだ。自分が相手を好きだったことを知ってもらえないまま記憶から消えるのが耐えられない。ある意味エゴではある。


「うん、頑張って」

 案の定、淡泊な感じの留衣の返答が液晶画面から流れる。


「うぉ、えると思ったらテンション上がってきたー!」


「ははは、良かった良かった」


 留衣はいっつもこんな調子で、私ばかり子どもみたいだと思わないこともない。しかしそれも、恋愛の沼にハマっている今は仕方ないと自分に言い聞かせる。


 ***


 安宗孝は、同じインターンシップに参加しているインターン生だ。

 春休みなんてまだ先に感じていた年明けの夜中、正月帰省から帰ってきた一人のベッドでLINEの通知音が鳴った。通知音が他のSNSとは異なるので判別可能だ。睡眠に良くないとわかっていながらもブルーライトを浴びに行く。


『鞠花、久しぶり!えっとね、私が参加してる学生団体でインターンシップの募集があったんだけど、興味ない?』


 そんな文面だった。

 非対面授業ばかりでろくに友人もできない状況下での数少ない(唯一と言ってもいい)同学部の友達だった。私がメッセージを送信してからの返信タイミングが、爆速だったり三ヶ月以上空いたりとよくわからなくて距離を詰め切れずにいたのだが、私にインターンシップを持ってきてくれる程には仲良し認定されていたようだ。

 たった今届いたメッセージなので、すぐ返信する。もしかしたらこのまま会話が続くかもしれない。業務関係でやりとりの日にちが空くのは正直困る。と、言いつつ私も後回しにしたい業務連絡は少し遅くに返信してしまうのだけれど。


『とりあえず説明は聞いてみたい』『声かけてくれてありがとう』


 最後の文章の末尾には時代遅れかもしれないが顔文字を追加してそう返信した。一分後に『了解した!』と威勢の良い返事が返ってきたのでひとまずやる気は受理されたと安堵する。

 彼女の声は本当に元気が良かった記憶がある。会いたいが、何やら通念忙しいやらなんやららしく、授業も意外と被ることがなく、入学式後のガイダンス以降会えていない。

 本当は嫌われていて、毎回の好意的な文章は社交辞令かと疑いたくなるが、少なくとも文面上での「会いたい」は本心に見える。自分がチョロい自覚はあるから、騙されていたとしてもまぁいいかとも思う。

 今のところ返信に面倒くささや悪意は窺えないので大切な友人の一人であることに違いはない。

 どんなインターンシップになるのだろうと想像を一巡させてまぶたを閉じた。

 朝起きたら、担当の人に連絡先を教えてしまってもいいかと訊かれていた。自分が返信に気付かないなんて珍しいと思いながら『大丈夫』と送った。

 しばらくして了承の旨の返信が来て、担当者が女性だと知った。


 私は男子が得意ではない。小学校の頃苦手だなと感じて以来ずっと引きずってしまっている。克服したい気もするのだが、日常生活にも学校の活動にも支障がないので結局放置してしまっている。苦手ではあるがコミュニケーションは問題なく取れる。

『緒方さくら』という名前の連絡先が送られてきた瞬間、性別を間違えようのない名前にほっと胸をなで下ろした。


 連絡先を交換してから話はトントン拍子に進み、説明会を設けてもらうことになった。参加の是非はともかくとして、とりあえず説明を聞けることになったのはありがたい。進行が手早い辺りに信用度が上がる。

 説明会は、大学に入ってから頻繁に使用することになったzoom会議を使用しての遠隔会議形式で行われた。入室すると既にカメラオンの担当さんが画面上にいた。素朴な顔立ちのショートカット女子。第一声のはつらつとした挨拶からオープンそうな性格が窺えた。感じが良いかと訊かれたら、正直気だるそうで、人生要領よくこなしてきたんだろうなという印象が強かったが、雑談をして説明を受ける分には問題ない。こちらも適当に済ませればいいだけの話だった。細かいことは気になるが、気にした者負けだということもわかっている。この世は、上手く生き抜いた者勝ちなんだと思う。

 完全な偏見に基づいた予感は的中で緒方さんはバスケットボール女子だった。ヘアスタイルといい細身の体格といい、繰り返すが、完全な偏見ではあるし、なんなら中学生時代のバスケットボール部の部長ちゃんに似ているという引力もあってのことだったが、「っぽいな」と率直に思った。

 自己紹介ではこちらの話も広げようとしてくれたのだが、興味もないのに無理矢理訊かれている感じが否めず、原則深掘りする規則なのかもしれないがそんなに無理しなくてもいいのになと思った。まだ参加するかどうかもわからないのに。無理するにしても、それなりに興味がありそうな相づちを打ってほしいものだ。

 休憩は適宜とっていいこと、飲食も自由にしていいこと、何より肩の力を抜いて気を楽にして話を聴いてほしいことを一通り説明され、ここからが本番だという流れが見えた。

 いよいよ本題に入り、主催団体のことやインターンシップの内容などを大雑把に聞いていく。このインターンシップは全国で最もメンバー数が多い学生団体の主催であり、スタッフは全員現役の大学生であることがわかった。支部は全国各地にあるが、一部支部がない地域もあるとのこと。分布図を見たところ、地元の青森と、現在一人暮らしをしている新潟は見事に支部がなく苦笑した。ゆかりのある土地が見事に例外に該当している偶然が酷く可笑しかった。

 団体の説明の後で活動内容が一通り紹介された。正直この段階になっても全くと言っていいほど活動のイメージが湧かないのは先方の説明が下手なのかこちらの想像力が乏しいのかどちらか、両者か。

 インターンシップの主内容としては、協力してくれる各議員の事務所に数名ずつ学生が配属され、仕事に同行させてもらうというものだった。具体例が挙がらなかったのは、活動内容が事務所によって大幅に異なるためだった。それにしたってもう少し具体的な活動を紹介してほしいと思うが。資料であるパワーポイントには一応活動写真も貼り付けられていたが、こういうものは大方楽しい場面だけを切り取ったものであるから油断はできない。


「どうかな、ここまで聞いてどう思った?率直な感想を貰えたら嬉しいな」


「~たら嬉しい」と言いながら実質は強制募集なところが日本語の嫌なところだなと思いながら必死に頭を回す。

 私は説明会の類いは大いに気を抜いている節がある。そのため質問や感想を求められる場合、はなから用意する姿勢で臨まなければいけない。突然の投球にしどろもどろしながらも言葉を探す。


「えっと、思ったより楽しそうで安心しました!議員さんと聞いてもっと固い感じだと思っていたので」


 こういうときは想定との比較、要するに「思っていたより~」を使うのが便利だ。頻繁に頼ってしまっている、というよりいつもお世話になっている。


「そっかそっか、そうだよねぇ~。うん良かった。他に、質問とかない?」


 質問、なら結構ある気がする。なんせイメージがつかないのだ。どのように活動が進んでいくのかもよくわかっていない。しかし具体的に何を訊きたいのか思い至らず、思考は脳裏で霧散して無産する。


「いえ、今のところ特には」


 二十年そこらの人生で何回言ったかわからないテンプレートを曖昧な笑顔と共に吐く。緒方さんは安堵したように笑って次に進むことを示した。


「参加した人はみんなやってよかったって言ってくれてるし、本当に貴重な経験にはなると思うから、是非この機会に参加してほしいなぁって思うんだけど、どうかな」


 参加の是非をいきなり迫られて一瞬戸惑ったが、説明を聞く分には堅苦しいインターンでないことは十分伝わっていた。決意が固まりつつあったところなので返答は軽く出てきた。


「はい、是非参加したく思います!」


 そう告げると、緒方さんは内心嬉しそうに笑ってお礼を言ってくれた。

 今後の細かな手続きについて軽く説明を受けた後会議は終了した。選考会が一次二次とあるそうだが、説明される内容や雰囲気から、今の段階で実質参加は決定したと思っていいと見た。

 ほっと一息ついて脱力する。いくら気軽な会議とは言っても初対面の人との会話は緊張ゼロとはいかない。PC画面が暗くなったときに映される自分の顔は、毎回生気を吸われたように疲れている。

 こうして、インターンシップへの参加がほぼ確定した。

 選考会はつつがなく終了し、正式にインターンシップへの参加が決まったタイミングで別の担当者にバトンタッチされた。ずっと緒方さんが担当するものだと思っていたため最初は戸惑ったが、新たな担当者も女子だったのでひとまず安心した。


「う゛っ、男子!」


 招待されて参加したインターンシップのLINEグループにて、メンバーのアイコンを見て血の気が引いた。横山さんじゃない方のその人はどう考えてももう一人のインターン生で、どう考えても男の子だった。命名したであろう両親の趣味や感性が変わっているのでなければの話だが。そしてアイコンに映っているのが友人や芸能人でなければの話だが。

 要するに、どう考えてもインターンシップのパートナーは異性だった。


「まぁじかぁーー」


 静かな部屋で一人叫ぶ。正直この時点でかなり逃げ出してしまいたい。でも今「あ、やっぱりインターン辞めます」と言えるわけもなく、言いたいわけでもなく。可能ではあるが非現実的なことはこの世に山ほどあって、これもその一つだ。石を物理的に食べることはできるけれども、誰もが口を揃えて「石は食べられません」と言う。そういうことだ。インターンシップは辞められない。

 どうにか乗り切るしか私に残された道はないのだ。これもきっと苦手克服の修行なのだ。人生、山あり谷ありとよく耳にする。そういうことなのだろう。


「る、留衣ぃ……」


 たまらず親友に助けを求めたことは言うまでもない。


 ***


 初めての活動はあろうことか宗孝君が不在で私一人だった。担当者、メンバー、そして肝心要の議員さんとの顔合わせミーティングで初回の活動日が決定したのだ。議員さんは名前を外崎とざきさんといい、明るく快活な雰囲気からいかにも仕事ができそうな人だった。

 この手のタイプには、一度見限られてしまうと笑顔のまま切り捨てられる気がして警戒している。もちろん考えすぎな私の性分なのだろうが。

 一週間分の予定合わせを試みたが、ざっくり聞いていただけでも宗孝君は多忙そうだった。正直「多忙」を前面に出してくるタイプの人間は好かないが、実際予定が合わないのだから仕方ない。これは完全に私の感性の問題であって彼は何も悪くないのだから。


 そういうわけで初回は一人での参加となった。前もって聞いていた場所を地図で検索してキョロキョロしながらを進める。こんな狭い道を通っていくのか、他に正規ルートがあるのではないかと思うのは、初見の場所に向かうときあるあるだと思う。

 別ルートの存在率は半々と言ったところだろうか。経験上、足場が悪いと思ってもその道が王道ルートであったことも多い。大通りに面していない限り、案外道なんてそんなものなのかもしれない。日本の歩道事情は金銭的に厳しいのか私が贅沢なのかどっちだろうか。

 行き着いた先は古い自治会館だった。どこの地域にも存在するような木造家屋で、幽霊が出るよと言われても納得するし、まだ地域の人たちで使ってるよと言われても納得するような、そんな建物だ。手持ち無沙汰のまましばらく待っていると段ボールを二個ほど抱えて外崎さんが登場した。私が通ってきた路地から現れたため、今回は狭くても正規ルートの方だったと判明する。


「お疲れ様です!あ、一個お持ちします!」


 真っ先に挨拶をして努めて礼儀正しくと気を張った。仕事モード開始だ。


 玄関の鍵を開けてもらい古戸を横に開くと引っかかりながらも思っていたよりは円滑に入口は開かれた。がらんとしてはいたが、つい最近まで確実に人が使っていただろう痕跡が靴箱の泥や傘立ての底の水滴そして埃の不存在から窺えた。今日私が参加する放課後塾が毎週火曜日に開催されているのだから当然なのだが。

 館内は畳の部屋になっていて、中央にレールが設置されていて部屋を二つに仕切れるようになっていた。もちろん年季は感じるが定期的に人が使っているだけあって生命の息吹は感じられる。全体的に小綺麗に保たれている。住民の使い方が良いのだろう、治安の良さに安心感を覚える。


「机八つ用意して」


 単調な口調でそんな指示が飛んできて一瞬自分に言っているとわからなかった。ハッとするが早いか返事をして「机」こと長テーブルをセッティングする。二列にして四つずつ並べる。その側から外崎さんが雑に座布団を放っていく。その動作を見ていて、改めて仕事が早くて優秀そうだなと思った。雑に放る辺りから、気にするべきところとそうでないところの取捨選択が上手いのだろうと思わされた。要領がいい人間は基本的に生き方上手でもある、と思っている。

 セッティングが完了すると外崎さんが口を開いた。


「さて、と」


 作業中とは打って変わって軽快な口調でそんな転換の接続詞が響く。まるで裏表の顔がそれぞれあるように思えて正直身構えた。こういう移り身の早さが、私は得意ではない。率直に言って、怖い。

 完全なる偏見だが、これが要領人間の得意技だとも思っている。


「改めまして初めまして。外崎わたるです」


 そう言って差し出された名刺は意外なことにピンクの波模様が下半分に施された可愛らしいものだった。シンプルなのは予想通りだったが、青とか黒とかそういう「固い」色彩にお目にかかるものだと思っていた。こういうのを、先入観と呼ぶのだろう。それも、まさに典型的な。

 濃淡の付いた桃色は、地元の桜を思い出させた。全国的に有名で、毎年春になると国内外から多くの観光客が来県してくれる。収益効果を数値的に調べたことはないが、大きく貢献してくれていると思う。地元の学生にとっても楽しみなお祭りで、部活にとっては新歓に、カップルにとってはデートに最適なイベントだった。

 そんな春の風物詩をまさか遠い新潟で、それもインターンシップという堅苦しそうな現場で思い出せるとは思っていなかった。少し心が緩む。


「はい、初めまして。今回インターンシップに参加させて頂く戸田鞠花です。よろしくお願い致します」


 噛まないようにテンプレ台詞を再生し、昨晩大至急作った名刺を差し出す。やらなければいけないとわかっていながらも先延ばしにしてしまうのは万国共通だと思う。極論を言えば、間に合えばよしである。


「お、名刺作ったんだねぇ、凄い凄い」


 昨夜大慌てで作っておいた甲斐があったと思うと同時に、少々あやされているように感じるが、そのくらい下に見てくれた方が私としては助かる。

 上の世代は、簡単に若い世代に斬新さや新規性を求めてくる。みんながみんなそんな革命児だったらこの国はとっくに最先端を走っていると思う。無論、最先端に位置できている分野もあるだろうが。いや、最先端を走っている可能性があると同時に収拾がつかなくなって破滅している可能性もあるだろうが。

 そんなことを考えながら促されるままとりあえず座布団に腰を下ろす。

 外崎さんは定位置なのだろう、迷いなく一つの席に着いて慣れた手つきでパソコンをセッティングした。

 市議会議員の仕事は尽きないのだろう。憧れはしないが脱帽はする。こういう人たちが市の運営をしてくれているのだと改めて思った。

 子供達や他の大人は大抵開場から三十分ほど経った四時半頃に来るという。その事実は、まだまだ時間があってそれまで外崎さんと二人きりの空間を過ごすことを意味していた。気まずい以外の表現があるなら誰か教えに来てほしい。


「そんなかしこまらなくて良いよ、そういう場所じゃないし」


 気を遣って言ってくれたのだろうが、視線は使い込まれているであろうパソコンに向いている上に、序盤の指示同様平坦な口調だったことが重なって、指摘を受けた気分だった。


「あっ、はい。ありがとうございます」


 お礼を口にしながら内心は謝罪の心境だった。

 静まり返っている初見の空間でどうやって「畏まらない」でいられるのか逆に訊きたいが、そんなことは口が裂けても言えない。

 これから二か月濃厚に関わるお偉いさんとの関係をこじらせるメリットなどどこにもない。

 そもそも元々人に意見するような性格構造になっていない。極力平穏に、意見のぶつかり合いなど起きないままに生きていきたい。


 しばらくして、外崎さんの言った通り小学生が登校のように続々とやってきた。彼らは皆勝手知ったる様子で受付を済ませ、各々好きな席へ散っていく。大方同じ学校なのだろう、数人で来て数人で席に着いて駄弁だべり始める。

 放置状態に戸惑いながらも大学生なのだから当然か、甘えるなということかと自分に言い聞かせる。それと同時に誰も私に触れてくれるなと存在感抹消に努めていた。

 こんなんだからだめなのだろうか。誰に言われたわけでもないけれど。

 ただただ呼吸を正常に繰り返すばかりで何も動くことのできない自分の無力さを目の当たりにして心臓が嫌な音を立てている気がした。こういうとき、積極的で意欲的な元気っ子だったら早々にコミュニケーションを図ったり外崎議員に話しかけにいったりするのだろうか。

 今日は見学、要するにお客様のつもりで来たのだが、インターン中にそんな心構えでいてはいけなかったのだろうか。でも仕方ないではないか。これからどういう活動をするのかさえ決まっていない状態でどのように「取り組め」というのか。

 理不尽な放置に「話が違う」と内心毒づきながらも、でもこんなものかと自分をなだめる。「お気軽にお越しください」「初心者大歓迎」「年齢不問」「○○不要」、この手のキャッチは大抵の場合「察せよ?」と言われていると思う。よってこの放課後私塾も全然「お気軽に」来れる場所ではないのが現状だろう。いや、私の心の臓が弱っちいだけかもしれないけど。

 大人たちがわいわい話している内容をなんとなく聞きながら「誰のことだろう」や「何のことだろう」を何度も飲み込みながら笑顔を張り付けていた。


 こうして、「相方」不在のまま訪ねた私塾の見学は終わりを迎えた。

 夜空がやけに澄んで見えたのは一人行動の気楽さからかそれとも息苦しさからの解放感のせいか。

 はたまた、今だよく知らない相方がこの場にいない寂しさからだろうか。


 ***


 戸田鞠花は葛藤していた。

 名刺の準備について連絡をした方がいいことは明白で、友人相手だったら躊躇なく送信している気配りメッセージである。

 とりあえず文章を打ってみる。統計的に言うと、文章をとりあえず打った段階で送信する可能性は非常に高い。そしてそれは今回も例外ではなかった。

 つまるところ、結局送信した。


『安君お疲れ様です!インターンシップでご一緒している戸田です!』


『直前で言って&もう言われてたら申し訳ないんですけど、』


『今後、外崎さんが色々な方を紹介してくれるつもりみたいで、名刺を一応準備しておくといいよって言っていました!……っていう連絡です!』


 最後に普段使いの猫スタンプで「ぺこり」と送っておいた。

 連投してしまって大いに不安が残るが、必要事項だけを詰めてこの分量なのだから仕方ない。長文で一つ送られてくるよりはマシだろう。自分にそう言い聞かせてスマホを放った。


 返信は思ったより早かった。

 今までの経験上男子はLINEに無頓着だと思っていたので、返信が早いというだけで株は簡単に上がった。単純な自分に呆れるが、チョロい自覚があるので驚きはしない。

 返信スパンの他に、彼の文章も意外なものだった。


『鞠花さんお疲れさまです!連絡ありがとう!!名刺の準備ね!了解です!』


『ちなみにまだ言われてなかったんで助かりました!』


 改行を用いて一個でメッセージが返ってきていた。文章末尾には汗付き笑顔の絵文字まで付いて。

 過剰なほど多いびっくりマーク、色のある絵文字、そして何より初対面で下の名前をさらっと呼んでくる感じ、そのどれもに衝撃を受けていた。意外過ぎる、と。免疫がない自分には尚更なかなかなインパクトだ。

 緊張が大きくほぐれて好印象を抱くと同時に、この手のフレンドリーさには簡単に懐柔されるので警戒してかかれとアラートが鳴った。

 でも、少なくとも上手くやっていけそうだと思った。不覚にも名前呼びにときめいてしまったことは今は無視させてもらう。


 後から思えばこの段階でとっくに懐柔され済みだったのかもしれない。


 次の活動は、第二回目にしてバスツアーに参加させてもらうというビッグイベントになった。前回の活動時に外崎さんの知り合いがチラシを持って募集をかけたのだ。

 そのときその場にいた大人子供のほぼ全員が参加することとなり、ご厚意でインターン生まで混ぜてもらう運びになった。宗孝君にはその時外崎さんが連絡を取り、返信が早かった彼もその場で参加が決まったのだった。

 集合場所になっていた駅の南口は普段あまり使わないどころか初めて行く場所なので朝から緊張していた。「駅の○○口」と一口に言っても幅がある。「『○○』という店の前」よりも遙かに幅がある。

 参加メンバー自体は前回の活動で顔見知りになったため、一箇所に集まってくれていればすぐわかるはずだが、イベントに不測の事態はつきものなので油断はできない。

 不安を胸いっぱいに抱いて集合場所にそろそろと向かうと、明らかに誰かを待っているだろう男の子が一人いた。もしやと思っていたらビンゴで宗孝君だった。なんて呼びかけるべきか、敬語かタメ口か、安君か安さんかはたまた下の名前で行くべきか。

 色々悩んでいるうちにどんどん対象者に近付いていってしまう。お互い顔を伺ってから同じインターンシップに参加しているその人だと改めて確信する。

 さぁ第一声、というところで向こうがニッと笑った。不覚にもドキッとした矢先に軽い調子で挨拶が飛んできた。


「おはよぉ-」


 気さくなノリは、乗らない方がむしろ難しいくらいで、ほとんど反射で返していた。


「おはようー」


 なんてことのない普通の挨拶で、宗孝君はきっともはや記憶に残ってすらいないだろうが、後々考えてもこの時点でハートを掴まれていたのかもしれない。


「今日思ったより寒いね」


 無意識に気候に触れていた。人間のDNAに組み込まれている性質なのかもしれない。


「んね!もっと寒いところこれから向かうのにねー」


「あ、そうなんだ?」


「そうそう、もう雪がすっごい深いところ!」


「流石地元民」


「まぁ市は違うけどね」


 和やかな雰囲気と軽いテンポで会話が自然と進んでいく。ギクシャクのギの字も浮かばない空間に驚きっぱなしだった。

 こんなに会話が弾むと思ってなかったし、こんなに二人だけの時間が長く確保されるとも思っていなかった。もっと気まずい感じで、「もう一人のインターン生」も会話なんて望んでない様子で、大人の会話に参加する形になるんだろうと思っていた。

 現実は、早く到着したインターン生が二人ぽつねんと集合場所にいて、雑談を飄々ひょうひょうと交わしている。男子が苦手な私としてはとても不思議な空間だった。

 宗孝君の身長は私とほとんど同じくらいだったけれど、私より高いことは明らかで、顔を見るとき自分の目線が少し上がることが新鮮だった。

 平均身長より高い私は女友達と一緒に歩いていても専ら視線は下がるし、町を歩いても私より明らかに高身長の男子は意外といなかった。ヒールを履いてしまえば尚更で、普段人と話すときに視線が上がることがそもそも珍しかった。

 彼の私服はシンプルで、洋服にこだわるタイプか否かはまだわからないなと思った。無頓着だと言われてもこだわりが強いと言われても納得できる気がした。まぁ少なくとも、個性派ではないことはわかった。

 第一印象は率直に言って好印象だった。査定するようだが、これから二ヶ月間二人でやっていくのだからどんな人物か査定まがいのことをしてしまうのは仕方ない気もするので許してほしい。

 カメラオンでzoom会議は行っていたが、やはり画面上から受け取れる情報は限られ過ぎていて、あの数時間では「良い人そう」としか言えなかった。コミュニケーション困難がなさそうなことには安堵したが、よく言えば自由奔放、悪くいえば我が儘で協力しにくい人と言えるかもしれない、そんな不安はあったから。


 少しすると外崎さんがやってきて、それを皮切りに続々とツアー参加者が集まってきた。いよいよ始まるんだと思うと緊張するような気もするし、楽しみな気もするし、とにかく単純な感情ではなかった。

 宗孝君と話しながらバスに乗り込む。車内に入ると、感染対策の都合上一人で二席を占領して座るよう言われた。そんな贅沢に使って全員乗れるのだろうかと思ったがそんなことはとっくに計算済みと明らかなわけで、指示に従う以外の選択肢はない。

 いつもの癖で端に端にと向かうが、席に着いてシートベルトを早々に装着してから気付いた、宗孝君が通路側に座っていることに。

 私も通路側に座って雑談継続の意思表示をするべきだったかと後悔したが、わざわざシートベルトを外して近い方の席に座り直すのが、話したいと意思表示をするようで恥ずかしく、内心焦りながらも結局席はそのまま移動しなかった。


 旅行はつつがなく進行し、バスの中でも不意に目が合うとにこっと目で笑ってくる宗孝君に正直動揺していた。この人には、気まずさという概念はないのだろうか。

(こっちの気も知らないで……)

 懐柔されまい、騙されまい、そう思いながらも、一緒にいて楽しかった事実が全てだった。

 午前中に行く最後の予定地に到着した。歴史を感じる商店街はツアーメンバーのおばさまが言っていた通りシャッター街になっており、開店しているお店と閉店している店舗が半々という感じだった。いや、まだ若干、営業中の店舗の方が多いかもしれない。

 冬の寒さや雪景色と相まって、閑散とした雰囲気という表現がぴったりだった。

 春夏は賑わっているのだろうかという疑問も抱いたが、おばさまの口ぶりからしてここ最近はそれほど賑わいはないようだった。コロナの影響もあるのだろうか。


 バスを降りると、各自自由行動と言われたので、ごく自然な流れでインターンの若者二人で回る形になった。

 ここまで回った場所は基本的に団体で行動していたし、自由行動というより流れに則ってずっと進んでいくという形態をとっていたので、話す機会はそれほど多いというわけではなかった。バスの中でもむしろ外崎さんや他のメンバーの方々から質問攻めにされていたりありがたいお話を聞いたり歴史の話を聞いたりしながらの移動だった。

 宗孝君とどういう感じで話すことになるのか想像がつかずドギマギしてしまうが、きっとこうなっているのはこちらだけなのだろう。



「凄いねー、こんな感じなんだねー」


 どんな感じなんだ、と突っ込まれたら困るのだがとりあえず当たり障りない感じで感想を述べていく。宗孝君は地元民だからこの場所を知ってはいるだろうし、もしかしたら来たこともあるのかもしれないが、私は完全な初見で観光客である。


「んね、久しぶりに来たけど前に来たのも結構前だから久しぶり過ぎる」


 やはりフランクな口調で、こちらとしても良い意味で気が抜ける。


「あ、来たことあるんだね?」


「うん、一応ね。そういえば出身どこだっけ」


「私?青森だよー」


 そんな流れで基本情報の交換に入った。こうなったら私としても得意分野で、過去の部活や現在の大学での様子や趣味、日頃の過ごし方など、どんどん話は進んでいった。

 もちろんこういう雑談は好きだし得意なのだが、胸を張っていつ何時でもスキルを発動できるというわけではなく、相手にも左右される。

 そういう事情もあるので、この状況に正直感激していた。

 相手は実質初対面の、しかも男子で、それなのにこんなに意気投合して軽いノリで、ふざけながら話せている事実に終始内心で驚いている。

 宗孝君との会話では小さな感動のオンパレードだった。そして好印象の塊だった。

 自分の名前が好きなこと、しょうもないギャグやボケについてきてくれちゃうこと、よく笑ってくれること、聞き上手なこと、そして素直に「凄い」と言ってくれるところ、そのどれもが私にとって「そこに共感できてる君が凄いよ」と言いたくなるような細かいポイントだった。


 結果的に私たちはどのお店に入るわけでもなく、ずっと同じコースを、Uターンをしながら一時間半も歩き回っていた。これは凄いことである。少なくとも私からすれば凄いことだ。

 昼食のために移動するので再びバスに乗る。


「お話楽しかった」


 そう呟いた彼の言葉はちゃんと私の耳に届いてしまった。ほとんど反射で彼の方を見る。

 どうして、そういうことを言ってくるのか。

 恋愛体質の私にとっては、本当に天敵だなと勝手に文句を言った。


 昼食会場は親しみやすい雰囲気の旅館だった。

 食事会場に団体で案内され、外崎さんが手際よく席分けをしてくれた。結果、やはり若者は若者でということでインターン生二人ともう一人若い女性が三人セットで座ることになった。

 個人的には気楽なことこの上ないので大変助かる配慮だった。野心家の人だったら議員さんたちと一緒に話したいかもしれないけれど。

 食事はそこそこの分量で、よく食べる私でもしっかりお腹いっぱいになるほどだった。人によっては全部は食べられないだろう。

 男子でも小食な人は結構いるし、実際全然食べられない知り合いも見たことがあるので、宗孝君はどうなんだろうと純粋に気になった。


「ゆっくりいっぱい食べるのが安家の特徴なんですよね~」


 結構な量だね、と言っていたので、あまり食べない人かと思っていたら、宗孝君は中盤でそう言った。同席している女性が食事の多さに言及した際に発せられた台詞だった。

 宣言通り、宗孝君は私と同じくらいのタイミングで見事に完食し、三人一緒に食事会場を後にした。


 ***


「すっかりほの字だねぇ、鞠花。宗孝君に」


 留衣はそう言うが、私としては不本意だった。

 旅行中の出来事、そしてその後数回あった活動の感想は漏れなく留衣に話した。好きな人ではないからこそ全部話したつもりだった。アイドルの追っかけのような、憧れの先輩について話すような、そんな感覚で「語った」のだ。だから片思い判定されるとはは心外だ。

 このまま何も感じないまま活動を終えたい。平穏なまま、何の激動もないまま、ただの「相方」として終われたら、その方が平和な気がしている。

 しかし旅行から数週間経った現在に至るまで、安宗孝節は炸裂し、ナチュラルボーンキラーのごとく私の琴線に触れてくる。要するに、いちいちツボで不覚にもときめいてしまう事実が全てだった。

 LINEの返信間隔、一緒にいるときの純粋な楽しさ、言葉選びのセンス、何よりよく笑う空気感、そのどれもが紛れもなく好きだった。

 でもまだこれは恋じゃないと言い張れる気力はある。


疑似春ぎじはるだから疑似!疑似なの!」


 何もないのに強く言い張るのは、既に結構な好意が募ってしまっている自覚があるからだ。わかっていた。わかっていたけど、見ないふりをするしかなかった。だってこれは飛び込んではいけない沼だってそう思う。きっと大怪我をする。だから、こんなルートとは、インターンが終わったらおさらばするんだ。

「固く決意する」という盛大なフラグを立てて通話を切った。

「固く決意した」ことを守り切ったことは数えるほどもあっただろうか。

 幼い頃から、「一番はじめの予感」が結局正しいことが多かった。


 本音を言うと、疲れていたのかもしれない。インターンに参加しようと思い立った時期、私は精神的に落ちていた。外に出ることも正直しんどかった。他人の視線が刺さっているような気がして、ずっと怠くて、いつまで経ってもこの暗い底を辿っていくような絶望感と無気力感に苛まれていた。

 インターンシップで半強制的に外出することになり、誤魔化し誤魔化し頑張っていたのも事実だった。

 それがどういうわけか気分転換に散歩に行こうと思ってアパートを一歩出たとき、変革的な感覚に襲われた。風がびゅっと吹いたのは、気のせいだろうか。

 胸を張って歩けると思った。外が怖くないと思えた。この奇跡をくれたのが誰か、一瞬で思い至った。


「うわ……」


 やめてほしい。こうやって私の日常を侵食してくる暴力的な彼の影が正直憎い。どう考えても好意があって、でも「好意」はなくって、私みたいな初心者が入るべき沼じゃない。


「ちがう、これは疑似だから、それ以上の『何か』なんてないんだってば」


 留衣に言い放った言葉を復唱する。頭の中で反芻はんすう「しなければいけない」という現状がもはや「そうではない」ことを物語っているのだけれど、そんな不都合には蓋をする。

 そうしていないと、破滅へのカウントダウンがいよいよ始まってしまうだろうから。

 負けが明白な賭けはしても、勝負すらできないような賭けはしない。そんな無駄なこと、したくない。だって宗孝君は、彼の好意は、私と同じ方向を向いていないだろうから。

 この日を機に、散歩が運動不足解消のための日課になった。

 頭を空っぽになんてできる性格ではないので、日々の散歩はむしろごちゃごちゃの頭を整理する目的で行っているのかもしれない。そんな重要任務なのに、最近の私ときたら別作業を行っている。

 検索対象は赤いスエード素材の古ぼけたスニーカーだ。服装で判断できる自信はないが、不変的な靴なら私の中で比較的特徴的だった。それを無意識に探して目がうろうろする。

 期待に胸を膨らませて動悸を引き起こして落胆する一連の動作は非常に疲れる。しなくていいならしたくない。何も考えずにひたすら右足と左足を交互に前に出していたい。それなのに、宗孝君に出会ってから余計な作業が増える一方だ。

 深い溜息が出る。

 時代柄解除できないマスクの内に、あいの吹溜りができた。

 二人で歩くとき、肩と肩が触れる距離だとあっちは気付いているのだろうか。それが異常だという自覚はあるのだろうか。気付いているとしたら、どんなつもりでけずに歩いてくれているんだろうか。こんなことを思うのは、私が特別恋愛脳だからじゃないと思う。

 無頓着で無神経な君が、やっぱり嫌いだと思いたかった。


「だぁあー---!やっぱなし!あいつ嫌い!!なんなん!?」


「おーおー、今夜はまた打って変わって荒れているんですねぇ」


「留ぅー-衣ぃいいい!だってぇ!ちょっと調べれば出てくんじゃんこんな資料!!なんでいちいち私に言うのさ!」


「ははは、信頼されてるじゃん」


「馬鹿にしてる!?」


 最終発表会が迫っていた。私と宗孝君が参加しているこのインターンは、最後に発表会が設けられている。そこで自分たちのアイデアを発表して順位を競うというものだ。全国大会まであり、その様子は動画投稿サイトで配信されるという。

 私たちはまず地区予選に出なければいけない。本気で全国優勝を目指しているわけではないが、外崎さんの面子めんつを潰さないためにも粗雑なアイデアで出場するわけにはいかなかった。手を抜けない状況が苦しい。

 そんな発表会改め大会では事前にスライドショーとして使用する資料を提出しなければいけない規則だった。そして資料作りは宗孝君に一任していた。しかしあろうことか彼はその資料を提出しなければいけないことをわかっていなかったのだ。締め切り時刻ちょうどに提出メールが届けられたのは担当者の横山さんの声掛けと私のメール作成作業があったからだ。ギリギリまで彼に資料を作ってもらい、私が「そろそろ出して!」とLINEしたタイミングで送信してもらい、私がそれをダウンロード、メールに添付して送信したのだった。

 その場の緊迫感といったら、大学入学試験開始時刻直前にシャーペンの不存在に気付いて隣の席の人を頼ったような冷や汗ものだった。

 なのに「チームワーク感が凄かった。協力してシュートしたみたいな」とかぬかした彼に私がキレたのだ。無論、ぶつける相手は留衣なのだが。

 その他にも、自分で調べたら一瞬で出てくるような資料をわざわざ私に尋ねてきたり以前決めた事項をすっかり忘れてしまったような質問が来たりしていた。忙しくしていたこともあり、精神的余裕がなかった私はいつもよりも堪忍袋の緒が短かったこともあって非常に憤っていたのである。


「でもよかったじゃん。こんだけ株下がってくれたら恋も愛もないでしょ」


「それもそうだけどさ……ってだから、疑似だから!!」


「はいはい」


「本気にしてないな!?」


 留衣に適当にあしらわれたが、実際自分の言葉に説得力がないことは重々承知している。でもやはりこの沼に自主的に入る気にはなれないし、今回の資料事件と締め切り事件で撤退は確定事項になった。


「結局さ、人生上手く生きてく奴っているんだよね。こんなに色々考えて悩んでる自分が否定されたみたいで結構不快というか傷つくんだ」


「そっかそっか」


「末っ子って、本当嫌い。いつもそうだよ、要領よく生きちゃってさ。長子の苦労や苦悩なんて『は?何それ?』って一蹴してくるんだ。本当酷いよ」


「それはまぁ、なんともコメントしかねる」


 同じく長子の留衣は頭ごなしに否定はしなかった。それだけでも救いだった。

 そんな不本意な形で私の疑似春までも幕を閉じた。そのはずだったのだ。


 仰天も仰天で、インターンの地区予選発表会では優勝し、その日のうちに隣県山形に宿泊することになった。宗孝君は実家が山形に近いため一時帰宅することが急遽決まり、私はというと女性スタッフさんの家に泊めてもらうこととなった。

 てっきりお泊りにテンションを上げるものだと思っていたのだが、予想に反して宗孝君は渋っている様子だった。意外と外泊は嫌いなのだろうか。


「宗孝君、お泊り苦手だったりする?」


 こっそり訊いてみた。


「あー、うん、なんていうか、これ以上他人と一緒にいると疲れちゃいそうだなって思って」


 予想外の答えが返ってきてびっくりした。彼にそんな概念があるのかと思った。

 それと同時に浅ましい考えをした自分が恥ずかしくなった。そんなに他人疲れする彼が、インターンの活動中割と長時間私と過ごして平気そうだった、苦痛そうではなかった事実が浮かんだ。妥当でない期待を慌てて振り払う。


「そっかそっか、じゃあ私はお泊りを楽しんでくることにするよ」


「うん、楽しんで~」


 明日の会場まで別行動なのが寂しい、なんてさみしがり屋が過ぎるだろうか。てっきり一緒にいれるものだと油断していただけに落胆は大きいようだった。それほど期待を膨らませていた自分に戦慄した。


 地方大会と称されたそのコンテストは、地区予選とは比べ物にならないほどの大舞台だった。

 一つ前の組の発表、質疑応答が終わり、いよいよという緊張感が全身を襲う。この身震いは怯えか武者震いか。不安のあまり隣の様子を覗うと、宗孝君も顔の前で手を組んでいた。膝に肘をつき前かがみだ。


「緊張するんだけど」


 そう囁いてみると、宗孝君から共感を得ることができた。


「え、宗孝君って緊張するの?」


「してるしてるー。やばいやばい」


 意外だなと思うと同時に、そんなところまで好印象になってしまっていた。もっとも、ここで飄々としていても高得点だったのかもしれないが。

これから二人で一緒に、この大舞台で戦うのだ。


「では次の発表に移ります。『わくわく事業』の皆さん、お願いします」


 粛々としたアナウンスに背筋が伸びる。返事の代わりに起立し席を立つ。決してき慣れてはいないスーツとパンプスを身にまとっていざ出陣である。


 結果は驚くことに優勝で、まさかの予想外、全国大会まで進出してしまった。

 発表中、足は例によって小鹿だったが、膝から崩れ落ちることはなかった。隣に宗孝君がいる頼もしさにつくづく支えられた。なにか失敗をしても、難しい質問が来ても、きっと笑顔で頼らせてくれる、そう思えた。そう思わせてもらえれば十分だった。そのエネルギーで、十分戦える。

 大会終了後、担当してくれた横山さんが感激のあまり涙してくれていた。「二人が顔見合わせてうなずき合ってる姿が本当に仲睦まじくて」というコメントまで頂いて少し照れ臭かった。そうか、無意識にそんなことをしていたのか。

 そんな息ぴったりな感じも凄いと思うが。

 資料請求されたときや資料提出時の苛立ちがスッと昇天した気がした。


 帰りの道中は当然ながらずっと一緒だった。駅に向かい、切符を買い、電車に乗り込んで乗り継いで、ずっと一緒だった。

 お互い疲れ切っているに違いなかった。正直者な宗孝君のことだから、きっと寝てしまうか無言かでいるものだと思っていいたのだが、またしても悲観的な予想は裏切られ、ずっと二人で喋っていた。

 宿泊用の軽くはないリュックと、とっくに靴擦れを起こしている左足の踵、そして暑苦しいスーツは決して心地いい状態ではなかったが、長い帰り道が今だけは頑張ったご褒美に思えた。相変わらず途切れることを知らない雑談が帰路の疲れを緩和してくれていた。



「宗孝君私の家寄る元気ある?ていうか元気出してもらうんだけど」


 ようやく最寄り駅に着いたタイミングでそう言った。


「お?おぉ、いいよぉー」


 いつもと変わらない気ままな返事に安堵する。心底嫌な顔をされると覚悟していたから。もっとも、こんな台詞を言われて何も不審がられないことを喜ぶべきか悲しむべきかはわからないが。

 疲れているところにわがままを言って私の家まで来てもらった。私の家は、駅から向かうと宗孝君の家よりも先なので、わざわざ家を通り過ぎて来てもらう形になるのだ。大した距離ではないのだが、疲れ切っている今の状況では断られる覚悟もしていた。もちろん多少粘る気はあったのだが、必要なくなった。


「一瞬で取ってくるから待ってて」


 インターンももうそろそろ終わるという三月頭の夜中、なんだか愉快な気分になって、勢いで手紙を綴ってみた。その日も活動日で、帰る頃にはくたくただったし真っ暗だった。一人で過ごす部屋の中がなんだかしんみりしていて、でも逆にその静けさが神聖な感じがして、不思議な感覚にふわふわしていた。そんな、気の迷いとも言えるような勢いだった。

 渡さなくても渡してもいい。それどころか今のところ渡す予定はないとそう思った。

 下心は完全に隠した、ただのお手紙。二ヶ月協力し合ってきた「相方」への感謝の気持ちで、それ以上でもそれ以下でもなく、目をつぶっていることはあっても嘘はない。そんなお手紙を書いた。

 もうすぐバイバイなんだな、そう思って。


「本当に一瞬だったね」


 宣言通り数秒で帰還した私に率直に驚く宗孝君に対しておどけて敬礼して見せる。


「次いつ会えるかわからなくない?」


「あ、たしかに」


 そんなこと考えもしなかった、意識すらしていなかったこと丸出しで宗孝君が少し目を丸くする。そういうところも彼らしい。私だけこんな感情を抱いていることもはっきりと突きつけられる。しかしそれをわかっているから、こぼれそうになる色々な感情を封印して書いたのだ。創作者冥利に尽きると言うべきだろう。


「ね?だから、はい」


 背中側で持っていた手紙を差し出す。


「何書いたか、もはや覚えてないけど悪いことは書いてないから。本当、言葉のまんまだから」


 どれくらい早口だっただろう。気を付けて話してはいたが、鼓動が早いことを考えてもまくし立てた可能性は高い。


「ありがとう」


 暗くても、宗孝君が喜んでるのはわかった。疲れ切っているはずなので、そんな中でも本能に忠実な彼が喜んでいるのが嬉しかった。

 疲れを上回って表象した微弱な笑顔が嬉しかった。それがこの手紙の成果だと思った。書いて良かった、素直にそう思った。

 こんな風に小さ過ぎることで喜んでしまう私だから、きっとこのままでよかったんだとそう思った。

 振り返ることのない後ろ姿が角を曲がる前に私も家の中に入った。

 ここから先は、独りで立って歩く道だ。


 ***


 全国大会の成績は散々だったが、どうにかこうにかようやく乗り切った。その現実だけで私にとっては十分自己称賛に値することだった。元々本気で全国に行けると思っていたわけでも、志していたわけでもない。宗孝君の方もそうだ。だから、この時点で十分過ぎるくらい私は頑張ったのだ。

 呑気に友人と楽しんでいるであろう彼の日程を思うと少し意地悪をしたい気分になった。そう、彼は先約のために全国大会を欠席したのだ。私は孤軍奮闘する羽目になった。欠席の相方の分も、と公言した上で。

意地悪をする代わりにわがままを聞いてもらおうと思った。それくらいの権利が私にはあるはずだ。

 二人で臨んでも疲弊するイベントに身一つで一人で臨んだのだ、報酬がなければ見合わない。

 大会の途中、発表が終わった時と順位が出た時の二度連絡は取っていたが、改めて文章をしたためる。


「宗孝君!お疲れ!楽しんでるかい!!」


「発表もパネルディスカッションも終わったよ!!!ちょ、疲れてるとは思うけど帰ってきたら時間をください!電話して下さい!いや電話させろぉ!!」


 一息にそう打ち込んで勢いのままに送信した。彼も、友人との旅行とはいえ疲労はあるだろう。でも、でも今は、少しばかりこっちにも時間を割けとそう思った。

 返信は二分後だった。連絡の取りやすさにはずっとずっと助けられてきた。


『お疲れ様~!!!!』


『よく頑張った!!!!』


『もちろん電話するよ~!!!』


 過剰というか異常というか、そんな「!」の量に思わず吹き出す。


「『よく頑張った』って、どこから目線よ」


 溢れ出る笑いを堪えきれないまま部屋で一人そう口にする。元来、独りごとは多い方だ。快諾を胸に返信する。今日一日空いているから連絡をくれ、と息も絶え絶えを装った文章を送ると、18時からずっと空いていると返ってきた。あと小一時間程度の待機で電話ができるそうだ。


「じゃあ18:00くらいに電話したい!」


 大いなる安堵と共にそう送った矢先だった。移動中だったのか、少し間が空いて三十分ほど経っての返事に度肝を抜かれた。心臓がぎゅっと音を立てた。


『電話でも会うでもなんでも(笑)』


「……は?」


 何かが、この瞬間に倒れた。

 そんな出張サービスが返ってくるなんて誰が思うんだろうか。思い至る人がいるならその推測能力を伝授してほしい。

 会う、という選択肢は今目の前の卓上に置いてあったんだろうか。少なくとも私は気付いていなかった。


「会うって選択肢があると思わないじゃんかびっくりしたわ」


『何でもどうぞ(笑)』


 ずるい。こっちに決定権を委ねて、ずるいぞ。そう思うが、鼓動の加速も止まらないので参った。

 この感覚はよく知っている。痛くて、怖くて、酸っぱくて、幸せな麻薬。

 気付きたくなかった。でも、知らんぷりできないくらい膨らんでしまった。


「とりあえず電話します(笑)大丈夫な時かけてきちゃってもいいよ」


『おっけー!』


 返信の直後電話がかかってきた。わかっていても多少びっくりしてしまうのは私だけなのだろうか。

 意を決しながらも慌てて電話に出る。


「お疲れ」


「お疲れー!」


 聞き慣れたいつもの相方の声に安心感がこみ上げる。ほんわかしている自分を俯瞰から見て焦っている自分も自覚する。


「いや、その……さっきも送ったけど、びっくりしたわ、会えるとか思い浮かびもしないじゃんかぁ」


 少し甘ったれた自分の雰囲気に心底ゾワゾワする。この状態の自分はこんなにも気持ち悪かっただろうか。


「いや、本当何でもいいんやで」


 語尾に「(笑)」を付けて宗孝君が言い放つ。当然ながら「会いたい」ではないし選択権は私にあるのだが、なんだかそんな状況が不愉快ではある。嬉しい感情も事実なので自分に対してもつくづく嫌になる。


「じゃあ、やっぱり会ってもらおうかな」


 言ってしまった、と上空で焦っていた自分が観念する。もうだめだ、もう止まらないだろう。もう、落ちてしまったに違いなかった。留衣にも何て言えばいいのだろうか、メンツは丸つぶれだ。

 きっと分が悪い恋愛になる。きっと脈なしな戦況になる。

 でも少し希望を見てしまう関係ではある。


「どうしよう……」


 塗りたてのマニキュアを身支度の過程でぐちゃぐちゃにしながら家を飛び出して会いに向かった。


 集合場所に着くと宗孝君がいた。スマホをいじっている正面にそろーりと登場すると彼の肩がびくっと跳ねた。驚きやすいと言っていたいつかの会話が脳裏に浮かぶ。

 恐怖の対象になった複雑な心境と素直にごめんという気持ちが混合して曖昧に笑うことしかできなかった。宗孝君が驚くことは想定できたのに対策まではできていなかった自分の甘さに、内心で軽く蹴りを入れる。


「びっ……くりしたぁ」


「あは、ごめん」


 自分のこの曖昧な笑い方は好きじゃない。急いで次の言葉を紡ぐ。


「ありがとうね、会ってくれるなんて思わなかった」


 提案したのは宗孝君なのでこっちが謝罪する義理はないと思いながらも迎合してしまうこの感じとこの現象には覚えがある。やっぱりそういうことらしい。友達には、同じ事をしていてもこんな恐怖心と隣り合って話したりしない。


「いやもう本当、何でも」


 何でもするよ、なんて簡単に言ってくれるなと口を尖らせても、このご時世だ、マスクの下の事情は宗孝君にはわからない。今だけはこの白い不織布がありがたいと思った。

 一人でいるときも、自分の本心なんて隠れたまま引っ込んでいてくれたらよかったのに。そのまま永久凍結して、機能停止してくれてもよかったのに。

 とりあえず歩きながら全国大会の様子を共有した。もともと大会でのダメージが大きくて宗孝君を頼ったのだ。浮かれている場合ではない。この話をしなくてどうする。


「もうね、すっごく会場の空気が本気ガチだったよ。めっちゃ怖かった」


「そうなんだね。流石全国まで行くと空気違うんだなぁ」


 宗孝君のコメントは、なんでか全部全部当事者のように響いてきた。全国大会に出席していないから厳密には「当事者であって当事者でない」立場で、それなのに、「知った口きかないでよ」という苛立ちが湧かなかった。そんな空気感が凄いなと思った。

 宗孝君じゃなかったら私は同じように話せていたのだろうか。検証する方法なんてないけれど。


 宗孝君の家の前に来てしまって、遂にお別れするんだなと思った。

 地方大会が終わってからは常に「今日で会うのは最後かもしれない」がつきまとってスッキリ晴れない感情で彼に対峙していた。全国大会も終わった今、本当に今日が最後かもしれない。

 悲しいような漠然とした不安のようなそんな感情が一層強く渦巻く。あっさりし過ぎな別れの予感になんとも言えないやるせなさを感じる。

 多分、こんなに落胆しているのは私だけなんだろうけど。

 空気もお別れの支度をし始めたかなと感じた頃に、宗孝君が口を開いた。別れを切り出したくない私は、別れが近付くとなんと言っていいかわからず、というよりは何も言いたくなくて大人しくなることが多い。だから、思えば家の前まで来ると会話を切り出すのはいつも宗孝君だった気がする。先にお別れを言われたくなくて、悲しくなる前に自分から「バイバイ」を威勢良く引っ張り出したこともあった気はするけど。


「満足した?」


 その一言は引っかかるものだった。そりゃあ確かに私のダメージ修復に付き合ってもらったわけではあるけれど。でも。

 こういうところに、分の悪さを痛感するのだ。


「なんその言い方ぁー、嫌々付き合ってもらったみたいじゃんー!」


「いや、そういうわけじゃないけど」


 ちょっと焦った風を装いながらもニヤニヤしてるのだから絶対面白がってる。というより何も考えていないのだろう。そういうところだぞ。


「まぁ、ありがとうね」


「うん、じゃあ」


 そう言ってすぐに背を向けるのはお互い様なのだが、動機はきっと全然違う。その後振り返っているのも私一人なんだろうと思う。

 どんな心境で振り返っても、やっぱり好きだなぁと思ってしまうのは相変わらず悔しかった。


 ***


 三月末日、二か月間ずっとお世話になった横山さんが新潟に出向いてくれるというので、三人で会う約束を取り付けた。宗孝君と横山さんの方はわからないが、私は是が非でも会いたかったので、半ば強引に横山さんに約束してもらったのだ。

 集合場所に着いてしばらくすると横山さんが到着し、無事合流することができた。最後に地方大会で会った時よりも髪色が暗くなっているのは就職活動のためだろう。改めてひと学年上なのだと実感する。

 宗孝君は例によって早めについているわけがなかった。頑なに電話には出ない彼だったが、文章で連絡を取りながらようやく合流できた。この二か月話した会話の端々から察するに、外ではあまり通話したくないのかもしれない。


「お疲れー!」


「お疲れぇ~」


 横山さんに会えて元気溌剌な私とは対照的にいつもどおりゆったりマイペースな調子で宗孝君が登場した。座る場所もなく外もあいにくの雨なのでそのまま目の前のスタバに入る運びとなった。

 店内に入ると横山さんが奢ってくれると言った。バイトをしていることも知っていたため、ここはご厚意に甘えることにした。買う素振りを見せなかった宗孝君にもその旨を話すと、レジ上部に掛けられているメニューボードに目を走らせ始めた。

 かなり見にくそうだったので、一緒に来ればと提案すると意外なことにすっと席を立ち、結局レジまでの列に一緒に並んだ。

 各々が各々の飲みものを手に先に着く。横山さんから二か月間の感想やどういう点が良かったか、そして悪かったか、人に勧める可能性はあるかなどを尋ねられ、私と宗孝君が順番に答えていった。アンケートがひと段落した後雑談を少し挟み、この後外崎さんに挨拶に行くということで時間が差し迫った横山さんを筆頭に店を出た。


 横山さんを見送った後で意図せず宗孝君と二人の時間が確保できてしまった。この後帰省する彼はロッカーに荷物を預けていたのでこれまた意図せず雑談する時間を確保できてしまった。思い出話をネタの中心にして笑い合う。この時間がやっぱり好きだと改めて思ってしまう。

 そうこう話すうちに駅の改札内に入り、あっという間にホームに上がるためのエスカレーター前まで来てしまった。

 この後、彼はすぐ帰省する。だから一緒にいられるのはここまで。今日はホームが違うため、乗るエスカレーターさえも違う。ここでもう、お別れなんだ。

 別れの空気を察する。


「じゃあ、また」と宗孝君が言った。


「また」の部分に希望を見出してしまった。そんなちっぽけな希望に背中を押されて、これからがあることを願って、割り込み予約で畳みかける。


「あのさ、私恋煩いしてるって言ってたじゃん?」


「うん」


 一瞬意表を突かれたようではあったが、結局相変わらずの淡々さで返してくる彼に正直ムカつく。

 今を逃したらきっと後悔するし、次のチャンスはいつになるかわからない。だって、今日で本当にバイバイだ。もう本当に、終わってしまう。私と宗孝君との間に、関係性に、名前がつかなくなってしまう。「以前一緒にインターンシップしてた子」?そんなの悲し過ぎる。そんなの嫌だ。


「私が恋患ってた相手、宗孝君だから!」


 言った。った。言ってやった。

 そして私は逃げた。宗孝が振り向くよりも早く、エスカレーターに飛び乗った。

 脇目も振らなかったけど最後にちらっと宗孝君のことを見てしまったのは惚れた弱みだ。ちょうど彼もこっちを見ていて不意に目が合った。ただでさえ心臓に悪いのに、彼は手を振ってきた。本当、そういうところだぞ。

 やめてほしい、勘弁してくれ。そう思いながら笑って振り返してしまう自分もチョロくて心底嫌気が差した。

 告白の返事は、どうなるんだろうか。そんなことを考えながら、「言ってやったぜ……!!」と留衣に送信した。


 留衣からは速攻返信が来たためそのまま今日の活動報告と状況説明をした。

 伝えたいことが多いので後で電話をしようかと思ったが、留衣に時間があるならこのまま文面でも説明してしまおうかと思い立った。

「後で」と送った直後「いや」と滑り込ませ、「時間あるなら文面で『も』言うけど」と送る。予想通り、「ドンと来い!」って言ってくれたので説明することにした。どうせ五駅分の時間はある。

 幸い時間帯的のお陰で車内は空いており、席に座れていたので悠々と文章を打っていくことにする。連投するのはいつものことで、シチュエーションを説明すると言っているのだから大量送信はきっと留衣の想定内だろう。甘えさせてもらうことにする。元々メッセージの連投を気にする間柄ではない。

 告白の舞台セッティングが最高だったこと、予想外に二人きりで長距離話しながら歩けたこと、終始楽しい雰囲気でふざけた会話もできていたこと、彼は帰省すること、そして行き先が分かれるエスカレーターの前で告白したことを報告した。

 ざっと全て送り終わった頃合いを見計らって、留衣から「青春やね」と返ってきた。「マジで漫画のワンシーン」と返信し、会話は一段落した。

 留衣に今夜予定がないことを確認して、最後に「詳細演劇はのちほど上演です」「絶対観劇してね!」とダメ押しをしてスマホを閉じた。通話で私が一人芝居をすると前々から話していたのだ。

 今回の劇の臨場感には自信がある。きっと白熱した芝居になることだろう。私の青春は、どこに向かうんだろうと、向かいのホームに見えるはずのない宗孝君の姿を探した。


 ***


「っぽい人がいるなぁ」と少し目で追いながら進んでいった。すると本人だった。

 凝った言葉で演出できないほどに仰天する。

 言葉にならないとはこのことか。

 「散歩帰りにばったり偶然会う」という初めての体感に追いつけない脳内は、次の言葉を探しもせず呑気にそんなことを考えていた。だって、実家に帰っていたのではなかったのか。もう帰ってきていたのか。

 学生マンションを煌々と照らす大仰な照明にあぶり出されているであろうボロボロの我が身について思い至るが、それ以上にいかにスマートにこの場を「こなす」かに意識が持っていかれていた。

 笑顔というべきかにやけと言うべきかわからない表情の止め方がわからなかった。


「え、凄い奇遇だね。なに、お散歩行ってきたの?」


「うん」


 それ以上の言葉が見つからなかった。


「よかったね」


 何が「よかった」なのだろうと心底思いつつも同意を表す。


「宗孝君は、これからコンビニ?」


 方向的に、今から道路を横断して向かうのだろうと思って訊いた。


「かなぁ?」


 外出先を決めずに家を出る人などいるのだろうかと一瞬思ったが、周囲の視線を全く気にしない人種ならそういうこともあるのかもしれないと尊敬の念に変わる。いややっぱりそんなこと滅多にないと思うけど。


「うん、おかえりってことですね」


「え、おかえ……あ、そっか、俺帰ってたんだもんね」


 帰ってたんだもんね、と私が言うならまだしも、帰省していた本人が言うことがあるのだろうか。いや現実目の前で言った人がいるのだが。

 それよりも、帰ってきたのはきっと今日のお昼か夕方かそこらだろう。ほんの数時間前の出来事なのに、もうそんなに他人事のような感覚に陥っていたのか。まぁそういうこともあるかもしれないが。

 やっぱり変で、やっぱり面白い人だな、そしてやっぱり、とそんなことを思っているうちに話のタネも尽きた。


「じゃ、じゃあまた連絡します」


「あ、うん、はーい」


 相変わらず間の抜けた返事を貰い、その場を後にした。

 彼は本当にわかっているのだろうか。


「意味はわかってる?」


 ばったり出くわした二日後に通話の約束を取り付けた。いざ話し出すと雑談が弾み、結局「そんなところかな」と彼が通話終了の雰囲気を切り出すまで言い出せなかった言葉だった。

 あのときエスカレーターの前で思いは伝わった、そう思いたいが一応訊いてみる。宗孝君のことだから、とりあえず笑ってその場を去りはしたけど実は意味はわかっていませんでしたということもあり得ると思った。

 しかし予想は外れて模範解答がきちんと返ってきた。


「わかってるよ。つまり、鞠花さんの恋煩いの相手が、俺ってことでしょう?」


「そ、ういうこと、です……」


 返事の正常さがここでは悲しかった。それは、彼が正確に私の告白を認識し、答えを多少なりとも考えた末に正式に私を振ることを意味している。

 すなわち、長らくどん底だった私の片思い終了の合図が鳴り響くということ。

 人生三、四度目の振られを覚悟して身を固くする。物理的にでもこわばっていないと、心の芯から崩れて溶けてしまいそうで。でもこの際いっそのこと抗うことなく溶けてしまった方が楽かもしれない。そうできないから人間というものは大変な思いをして失恋を乗り越えなきゃいけない。

 明日からも日常は続き、授業もテストも夏も冬もそして春もまたいつかは絶対巡ってくるのだ。

 怖くても、はっきりさせなければいけない。聞かなければいけない核心が残っている。


「で、返事をい、頂ければと……」


「あー……」


 気まずそうな第一声で、叶わなかったことを悟る。続く言葉を待期するほかないので玉砕の準備を内心で整える。


「俺さ、好きとか、よくわかんなくって」


 衝撃。その一言に尽きる衝撃的な砲撃だった。

 そんな文章が返ってくるとは思わなかった。

「そんな気はなかった」「そんなつもりはなかった」そんなありきたりな振られ文句なら何個だって想像したが、こんな斜め上ベクトルで返ってくるとは思いも寄らなかった。

 私の想像力もやっぱりまだまだだななんて悠長なことを思ったのはきっと驚き過ぎて脳がショートしたからだと思う。

 とにかく今言える言葉は限られていた。


「……おう?」


 その先どんなやり取りをしたか、脳が記憶することを拒否していたのだろうか、あまり覚えていない。必死に強がって平気そうな明るい声を発していたことくらいしか。

「三十までお互い独りだったら」なんてふざけたような常套句を口に出した気がする。何をやっているんだ私は。

 誕生日に振られるというイベントは映画やドラマの演出だと思っていたし、現実にあったとしても自分の身にそんな悲劇的な出来事は降りかからないと思っていた。だって、二十年以上切望してるのに私の人生には恋愛色れんあいしょくが一向に塗られない。だから、多次元の話だと思うのも仕方ないではないか。

 私にはきっと一生ドラマなどなくて、漫画のネタにもならないような、つまらないけどそこそこ楽しい恋愛人生を歩んでいくのだと思ってた。振られた後も仲良しです、なんて現象も起こらないと思っていた。


「告白後も仲のいい友達でいましょうねって言葉、まさか私が吐くなんて思ってなかったな」


 ***


 やんわりと、しかししっかりと振られた後に控えていたのはゴールデンウィークと呼ばれる大型連休だった。負傷した胸の傷を抱いてしっかり帰省した。

 どうしてお土産を買うときに無意識にリストに入れたのかは自分でもよくわからないが、「仲のいい友人」に買うこと自体は別に不自然でもないので違和感はそのまま放置した。

 結果的に、お土産を渡すために現在絶賛待ち合わせ中なのだ。


「お待たせ」


「ううん、大丈夫」


 挨拶もそこそこに歩き出した宗孝君の言動に戸惑いつつ調子を合わせて一歩二歩と前に踏み出す。いよいよ彼の家の前も過ぎそうになったので制止した。


「あ、あの、歩く?この後の予定とかは?」


「え?あぁ……」


 本当に何も考えていなかったようで、まさに今考え始めたという顔をしていた。無意識で一緒に散歩してしまいそうになる天然っぷりは、一度好きになってしまっている身としては大変心臓に悪い。勘弁してくれ。まるでこのまま一緒に歩きたかった、歩いてもいいと思われた、そう解釈してしまうじゃないか。


「用事、特にないよ。このまま歩こっか」


「まじか」というツッコミは声にならなかった。代わりに目を見開く。


「あ、鞠花さんの方が用事あったりした?」

 そこに思い至る細やかさにやっぱり惚れ直す。


「いや、私は、なんもない、から大丈夫!」


 上手く言葉を継ぎぎできている自信がなかったがコミュニケーション上の支障はなかった。同意を得た宗孝君はそのまま歩を進めていく。

 複雑な心境を置いてけぼりにしたままそれでも前を向くのだと隣に肩を並べた。


「やっぱり好きだ」と思うのに時間は必要なかった。一度捨てても何度でも帰ってくる人形のようだった。さながら呪いだ、呪縛だ。

 いてもたってもいられなくなり、結局連絡を取ったのは二日後の話だがこれでもよく一日耐えたと思う。思い出の品を自分の縄張りに入れながらよく生活できたと自分を褒めたい気分だ。もっとも、その一日はお世辞にもしっかり生活できたとはいいがたい品質のものだったのだが。メンタルはぐちゃぐちゃ胸中は攪乱かくらんの後に散乱といった有様でそれは酷いものだった。

 通話をお願いしてみたら案の定あっさり受諾された。「案の定」ではあるのに飛び跳ねて喜んでしまうのが悔しい。しかしこれが惚れた弱みというやつなのだろう。

 夕方、約束の時間に再度連絡して通話を開始した。


 ***


「しっかり振られてきたよ!」


 こんな風に元気に近況報告するのは内心かなり悲しいのだが仕方ない。空元気でも出していないと折れてしまう感じがする。

 今は全然元気で、「スッキリ!」という感覚が勝ってるけれど、宗孝君と電話した直後だからであって、正直いつまでもつか自信はない。

 留衣からはいつも通りすぐに返信が来て、このスパンの短さにいつも救われている。こんなへんてこりんな状況、独りじゃ耐えきれないと思った。

 結局先日の通話で二回目の告白を擦る運びとなった。前回と違うのは、開口一番私が「単刀直入にいいます。はっきり振ってくれない?」と刺されにいった点だろうか。宗孝君は「え、俺何すればいいの?」と不甲斐なく戸惑いつつもその要請に応じてくれたのだった。しかし異様なのはその後で、二人でわいわいキャッキャと二時間通話を繋いでいた。そんな事実もまた、失恋の傷口に塩を塗ることになっていた。

 そこから数日間、体調が優れなかった。気分が塞ぎ、何も手に着かず、どうしようもない状態になりたまらず母親に電話して初めて失恋の痛手であることを自覚した。あんなに元気ですっきり終わって、今も仲がいいままなのに、こんなにボロボロだと思い知って落胆した。

 本当に、いつから自分の感情にこれほど無頓着になってしまったのだろう。

 思えばまともな失恋は今回が初めてだったのかもしれない。小中学生の頃長年好きだった人に振られた経験はたしかに「失恋」だったが、今回のように仲がとてもいい状態での失恋ではなかった。「小学生の頃一時期仲が良かった」程度で完全に脈なしで、高校の頃の片思いは完全に私の一方通行で、向こうは私の気持ちなんてこれっぽっちも知らなかっただろう。だから、「返事は要らない」と言ったこともあって、告白は告白でも「振られる」にすらならなかった感じだった。

 そんな恋愛ばかりしてきたから、今回の失恋は思いのほか痛かったのかもしれない。母の慰めがこんなに効いたのは初めてだった。

 教育熱心だった母に恋愛について慰められる日が来るとは思っていなかった。


 ***


 久しぶりに会える留衣との会合場所は少々お洒落なカフェ「カルーセル」だった。「お洒落」と言っても、大学周辺で学生が普段使いするようなラフな普通のカフェではある。茶化し半分で「カルーセル好きなんて流石だねぇ!洒落てんね!」って言われるのがネタになっているのだ。

 隣県にいる留衣とは、LNEで頻繁に連絡を取るだけではなく互いの家をよく行き来する。高校を卒業してからもこんなに会えることは本当に恵まれていると常々思う。


 待ち合わせ場所は戸田家の前で、集合時間直前に「少し早く着いた」と連絡が入った。「私が勝手に早く着いただけだから急がなくていいよー」と発言するあたりの細やかさが留衣らしくて笑みがこぼれる。「わかった」と返し、わたわたと家を出る。

 家を出るとすぐに留衣の姿が見えた。いつも通り綺麗にまとまったストリートファッション風のカジュアルコーディネートだった。はっきりした顔立ちの彼女にとてもよく似合っていると毎回思う。黒のタンクトップにシアーの羽織もの。厚底のスニーカーサンダルは日頃から気にしている低身長をカバーしたい気持ちの表れだろうか。

 自分が選ばない系統の洋服の着こなしを見るのは楽しい。


「留衣」


「お、鞠花」


「お待たせしました」


「いや全然。私が早く着いちゃったんだし、むしろすまんな、急がせて」


「うんにゃ全然!よっしゃ行こっか!今日めちゃめちゃ楽しみだった。久しぶりだも

んね」


「うん、私もだよ。『カルーセル』だったよね、あっち?」


「そうそう、だんだんここら辺覚えてきたんじゃない?」


「普段からどんだけ会ってるかがわかるね」


 テンポの良い会話を弾ませながら歩き始める。普段歩き慣れた風景の中に、普段いないはずの留衣がいても違和感がないところに付き合いの長さを感じる。

 入店し、席を選んで座る。おひやとおしぼりを渡されたらさっそく近況報告会の開始だ。


「最近どうですか」


 お決まりの切り出しで留衣に発言を促す。


「実は……ちょっと春来ちゃったかもしれない」


 思いも要らない方面の話題ですぐには言葉が出なかった。

 私自身は恋愛話が大好きだが、周囲に自分ほど恋愛体質の人が居なかったため、いつもその手の話を我慢する形になっていた。

 留衣の発言にどれほど気分が高揚したかは言うまでもない。

 留衣の話を聞くと、淡々と過ごしていく日常の中で何かに取り組もうという衝動に駆られ、勢いのままに新しい学生団体に所属した。その際案内係としてやりとりをした男子が好印象であり、少し気になっているということだった。

 前回の活動で初めて対面し、話したところ出身地が同じで話も多少弾んだらしい。


「なんか、鞠花に話してたら恋心が加速した気がする」


 言葉に出して誰かに話すと気持ちが確定したような感覚になってその情熱が加速する現象には覚えがある。留衣の現状には、酷く共感するところがあった。


「そっかぁ~、私が知らないところでそんな物語が動いてたんだねぇ。もっと早く言ってよー、水臭いなぁー!」


「ごめん、私もこの気持ちに確証が持てなかったから」


 その気持ちもわかると思った。恋愛初期には「私ってこの人のことが好きなのかな」という問いかけ期がある。「この人のことを好きになってもいいのかな」もここで考えることになる。少なくとも私はそうで、確固たる安心感をもって全力投球、要するにアプローチをしていきたいのだ。

 もっとも、これが恋は盲目を加速させる要因になっているのかもしれないが。最初に懸念材料は振り払ったことになるこの構成が恋愛体質を加速させると言えなくもない。


「え、じゃあさ、詩月しづきとは何もなかったの?」

 詩月というのは留衣との共通の友人で、同じく高校の時に同級生だった男子だ。詳しいことはさっぱりわからないが、一時期留衣と詩月の仲がいいらしいと噂が立ったことがあった。大々的に広まってしまったわけではないが、少なくともクラスの中ではちょっとした話題だった。その後私も留衣も詩月も留衣も大学に進学したのだが、留衣から聞いた話だと詩月も同じ大学の違う学部に進学したはずだった。


「あー……うん、詩月とは、何もなかったんだ」


「そうなんだ?でも今も交流あるんじゃないの、仲良かったんでしょ?」


 ここまで訊くと留衣が少し黙った。言いたくなかったら別にそこまで無理に聞き出そうとは思わないのだが、そう言おうとしたとき留衣が口を開いた。


「実は、これは誰にも言ってないっていうか言っていいのかもわかんなくて黙ってたんだけど……」


「うん」


 重々しい空気で、今から開示される情報が機密情報であることを察する。


「私、詩月に告白されてるんだよね、一回」


「そう、だったんだ」


 驚かなかったと言ったら嘘である。留衣からこんな話を聞くと思っていなかった。むしろ、今日は新しく想い人ができたとそういう話じゃなかったのか。私より全然恋愛先輩じゃないか。

 そもそも私はクラスの情報に疎い。クラスで私だけ知らなかった恋愛物語も数知れずである。

 中学生のとき、ある女の子が転校することになった。担任からその発表がなされた際、クラスメイトが一斉にある男子生徒の方を見た。その異様な光景に目を白黒させたことはもう遠い昔のはずなのに鮮明に思い出せる。そう、その男子生徒の片思い事情はクラスの誰もが知っているような情報だったのだ。私だけ知らなかったのだろう。

 少し苦々しい思い出を脳裏に再生しながら留衣の話に耳を傾ける。

 留衣によると、高校生の頃、留衣と詩月はたしかに仲が良く、なんならそこらの倦怠期カップルよりも頻繁に遊びに出ていたという。そして某大手テーマパークに二人きりで出かけた帰り道、詩月が留衣に思いを告げた、とのことだった。

 当時の留衣の心境としては「驚愕」の一言だったらしい。彼女は男女の友情を信じているし、実際詩月に対しても唯一無二の親友のように思っており、それ以上の感情は抱いていなかったらしい。


「思わせぶり、っていうやつだよね、俗にいうさぁ」


 こんな形でしんみりと弱っている留衣は初めて見るかもしれない。こんなに長い付き合いといえども、見える側面はやはり限られるのだと実感する。

 自身の行動を振り返って自己嫌悪に陥っている様子の留衣はやっぱり良い子だなと思ってしまうのだが、相棒の贔屓目だろうか。


「ま、まぁそうかもしれないけど、そうとも言うかもしれないけど、留衣は悪くないし、ねぇ」


 言葉選びに慎重になりながら自分の意見を出す。私は恋愛体質で恋愛脳で、私側としては男女の友情なんて考えられない。これはその存在を否定しているわけではなく、私の中にはない観念というだけだから留衣とは相いれないのだ。だから簡単に共感してあげられないし、詩月の気持ちはよくわかる、気がする。

 なんだかどこかで見た構図というかデジャブを感じるというか。


「そっかそっか、そんなことになってたんだね。長い付き合いなのに全然知らなったよ、やっぱり私疎いなぁ」


「まぁ鞠花は詩月と仲が良いってわけでもなかったから把握してなくて当然だよ」


「はは、ナイスフォロー」


「で、さ。そこから音信不通になっちゃった」


「えぇ、ああ、そうなんだ」


 何て言っていいかわからず言葉をろ過しすぎる。何も言えなかった。

 こういうとき、恋愛観の違いが恨めしくも感じる。私じゃ何もできない、励ましてあげられない、わかってあげられない無力感に少し苛立つ。

 私だったら、きっと行動してしまっている、と思う。それとも私でも音信不通になるのだろうか。わからない。予想図が立てられないだけに下手なことも言えない。もどかしさばかりが募っていく。


「まぁ、詩月とはそんな感じ」


 はにかんだ留衣の眉が悲しく諦めた表情を作っていた。


「今は、林君に集中集中!」


 振り払うような空元気に、それでいいのかなともそうだねとも思って肯定しきってあげられなかった。曖昧に笑った私の顔も、さっきの留衣とおんなじになっているんだろうか。きっとそうなんだろう。私たちは、相棒で、いろんなものを共有する間柄だから。


「でも難しい!恋久しぶり過ぎて何もわかんない初心者レベルだよ」


「ちなみに結局のところ留衣はどうしたいの?」


「わっかんない」


 つっけんどんに聞こえたのは、私に対する苛立ちではなく、煮え切ることができない自分自身に心底うんざりしていると見た。そんな留衣の様子を考慮するに、詩月のことも、「林君」のことも、相当悩み考え、一人で抱えて今日に至ったのだろう。そう思うと胸がキュンと鳴いてしまう。私に高鳴られても困るというのに。


「でもまぁとりあえず仲良くなる分には損がないわけじゃん?今後も一緒に活動していくわけだし。仲間同士の仲が良いに越したことないよね」


「うん、それはそうだね」


 こういう類いの話では、親しき仲にも礼儀ありと言うように、気を付けなければいけない点が幾つもあると思っている。少なくとも私がそうだから。

 まず、大抵の場合は本人の中で答えが決まっていると想定するべきだというのが持論である。確信が欲しかったり背中を押して欲しかったり、とにかく知った顔で「こうすればいいんじゃない!?」としゃしゃり出ることは避けるべきだと思っている。目の前の留衣のように、相当悩んだのが窺える場合は尚更だ。「んなこと、とっくに考えたことだよ」というものも多いだろう。特に、詩月のことも少なからず気にしているはずだ。

 私としては、まだ深く知らない林君とのことも、まだまだ未練があるだろう詩月とのことも応援する。留衣が行きたい人の元へ、全力で送り出す。

 自分の娘でも妹でもないのに、勝手にそんなことを思った。


 結局留衣の恋愛に対しては「とりあえず親睦を深めていこう」程度の結論にしかたっせなかったけれども、仲間ができたような気分で私としては嬉しかった。


 ***


「詩月と付き合うことになったよ」


 報告にはさほどというか全然驚かなかった。そりゃそうだ、むしろそうじゃなかったらびっくりだと自然とそう思った。


 時は数日前、二人でカフェ「カルーセル」で恋バナをした日の夜に遡る。

 留衣はその日私の家に泊まることになっていた。カフェからの帰り道、距離が延びるにつれ徐々に覇気を失っていく留衣の様子に気づかないはずがなかった。


「留衣、大丈夫?」


 見かねてそう声を掛けたのは家に家まであと二百メートルといったところだった。


「うん……ううん、やっぱり駄目かも」


「違ってたら本当ごめんだけど、多分詩月のこと、気になってるんじゃないの?」


「……ご名答」


 溜息を盛大に吐きながら留衣が白状する。私が思っている以上に仲が良かったのだろう。二人で夢の国に行ってしまうほどだ、「相当」なんて言葉じゃ足りないのかもしれない。


「もうさ、砕ける覚悟で連絡とってみたら?」


「……」


「向こうの方が留衣より連絡しにくい状況でしょ?気になってるんなら、留衣の方が動いてあげないと。それとも、一生このままにするの?それは留衣も嫌なんじゃない?」


「そう、だよね」


 留衣だってわかっている、振られた側の詩月は留衣に連絡を取れないでいることくらい。今二人に、留衣に必要なのは、多少強引な後押しではないか。そう思ってぐいぐい押してみる。


「聞いた限り、二人すっごく仲良いんじゃん、きっと大丈夫だって!」


「私、自分の気持ちわかんないよ?でも、詩月がいなくなって、ぽっかりとした喪失感は、正直すごいある」


「うん、それで十分なんじゃない?それ全部詩月に話してさ。きっと彼なら受け止められるでしょ。それで、もし一緒にいて、やっぱり無理だってなったら、それはそのときまた考えればいいよ。私でよかったらいくらでも話聞くし」


「……そう、だね。ちょっと、勇気出してみようかな」


「ふふ、今度は留衣が頑張る番って感じだね、青春だね」


「うるさい。鞠花だって沼にずぶずぶのくせに」


「あーもうそれ言っちゃだめ!今は留衣のターンでしょ!」


 家に帰ってからも、相変わらずうじうじ悩んでいた留衣だったが、その後無事メッセ―ジを送信し、ほどなくして詩月から着信があった。



「留衣、私、もう一回告白してみる」


 別室で通話していた留衣が戻ってきてから私はそう言った。

 留衣の返事はなんでもよかった。これは私の告白宣言だ。

 好きで、大好きで、分が悪くって罪作りで、きっと私はいっぱいいっぱい傷つくし、見返りなんて返ってこないどころかひどい仕打ちを受けるかもしれない。取り返しのつかない痛手を負うかもしれない。けれどもそれは、今後仲良くするならどのみち受けることで、私は今「傍にいられる切符」を捨てる方が後悔するとそう思った。だから、玉砕覚悟で邁進することにした。

 どうせもう二回も振られている。三回も四回も同じことだろう。そうやって藻掻もがいているうちに別の恋が見つかるならそれでいい。だから、私が諦められるまで、付き合ってもらうことにした。

 向こうは「会いたい」なんて思ってくれないし「好き」なんてどういうことかわからないとか抜かすし、恋愛分野になんて目もくれない。

 どう考えても踏み込むべき沼ではなくて、「でも、でも」が延々と続いて、そんな恋愛で、分が悪くて、もしかしたら「恋愛」とも呼べないような、そんな破綻した代物しろものだけれど。

 「好き」と伝えたら「ありがとう」が返ってくる恋で、「好き」と伝えても「俺もだよ」が返ってこない恋だ。それはどれほど悲しいのか、はたまた空しいのか、それとも案外平気なものなのか、今の私には想像はできてもやっぱり検討がつかない。

 それでも私が後悔するのは、このまま引き下がる未来だ。

 振られてもどうなっても、この先宗孝君が私の人生からフェードアウトしてほしくないと思ってしまった。だから、ずっと隣で一緒にいられなかったとしても、みっともなく足掻いたとしてもそれで良いと思ってしまった。

 初めて告白したとき、それ以降こんなに長い道のりを辿るなんて思いもしなかった。着地点は告白で、振られることだと思っていたけれど、今となってはもう着地点なんて見えなくて、どこに行くのか、行くべきなのかもわからなくなった。

 考えて、考えて、考えすぎて、もういいやと思考放棄をした。なんだかもうよくわからない。どうすればいいのかもどうなっていってしまうのかもわからない。けれども、目の前の希望をひたすらに追ってみようと思った。

 嫌いだと思った、合わないと思った、それは紛れもない事実でそこに嘘はなかった。心からの不満で怒りだった。

 だけどそんなところを加味しても、相殺してプラスだと思えてしまった。悪いところも含めて好きだなんて思えるほど今はまだ大人じゃないし綺麗事を吐けるほど寛容でもない。でも、それでも一緒にいたかった。

 破滅に向かっているのかもしれない。その可能性は正直高い。でもここまで来たら、他に気になる人も出会いもない今だから、破滅してやろうと思った。とことん進めば大抵のことは実りになる。

 何より私が今彼の手を離すことができない。


「ごめん」


 多分宗孝君につけ込むことになる。だけど相当振り回してくれたのだ、おあいこということにしてくれなければ釣りわないだろう。

 嫌になったらいつでも私を突き飛ばしてくれていい。だから、もう少し粘らせてもらおう。

 男友達なんていなかった私にできた「相方」に、もうしばらくのお付き合いをよろしくお願いする。

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来い、恋、好意 雪猫なえ @Hosiyukinyannko

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