彼女の夢とぼくたちの願い

野森ちえこ

ただひとりの読者

 彼女は、次々にベストセラーを世に送りだす敏腕編集者――などではなかった。

 作家のたまごを大作家に育てあげたことなんてないし、カリスマ性なんてものとも無縁。まじめなだけがとりえといっても過言ではないような、地味で平凡な女性だった。けれど彼女は、作家たちにとても愛された編集者だった。


 ぼくが鳴かず飛ばずでくすぶっていたころ――まあ、今もたいして売れているわけではないのだけれど、それでも、当時彼女と出会っていなければ、ぼくはとっくに作家という仕事をやめていたのではないかと思う。

 たぶん、おなじような作家が、ぼくのほかにもたくさんいるはずだ。


 まじめで、誠実で、その仕事ぶりはとにかく丁寧だった。そして、彼女はなにより、作家の心を大切にする編集者だった。

 彼女にかかれば、有名も無名も、新人もベテランも関係ない。作品を愛し、作者に敬意を払うその姿勢は、相手が誰であろうと変わらなかった。


 そうして彼女が送りだした物語たちは、大ヒットを飛ばすようなものではなかったけれど、世代を超えて、じわじわと長く愛されるものばかりだった。そのなかにはいれたことを、ぼくは誇りに思っている。

 それもやはり、ぼくだけではないのだろう。だからこそ、あの依頼に多くの作家が集まったのだと思う。


 *


 それは半年ほどまえ。ぼくの数少ない作家仲間であり、彼女の義姉――兄嫁でもある女性からもたらされた。


義妹いもうとのために、短編を一作書いてくれませんか』


 とうとつな執筆依頼に、よくよく話を聞いてみれば、余命宣告をされるほど、彼女はむずかしい病をえてしまったのだという。

 長年勤めた出版社の定年退職を迎え、第二の人生としてブックカフェでもひらこうかしらといっていた矢先のことだったらしい。


 ――わたしのためだけに書かれた物語を読んでみたい。


 なにかできることはないかと、彼女の兄が雑談を装って聞きだした彼女の希望は、どこまでも物語が好きな、彼女らしいものだった。


 出版はしない。読者は彼女だけ。原稿料はできる範囲で支払うという条件だったけれど、原稿料を受けとる作家はひとりもいなかったという。

 ぼくが、そのぶん治療にあててほしいといったら『もう、みんなしておんなじこというんだから』と、彼女の義姉は、電話の向こうで、笑いのにじんだ声をかすかに震わせていた。


 *


 彼女のもとには、彼女ためだけに書かれた物語が、毎日とぎれることなく届いているはずだ。ぼくが、みんなが届けている。

 目をとじていても楽しめるように、ひと月ほどまえから音声データもつけるようになった。

 そして、そう。ぼくにも作家仲間が増えた。

 老若男女。大御所から駆けだし作家まで。彼女という、たったひとりの読者に結ばれた仲間たちだ。

 最近では、ひとつのテーマをみんなで書いたりしている。さながら文芸部のようだ。

 誰も彼も、一作じゃたりないとばかりにせっせと彼女に物語を贈っている。


 彼女は彼女で、こんなにたくさんの物語をひとりじめしてしまうのはもったいない。わたしが死んだら出版してといっている。


 そんな日は、永遠にこなければいいと思う。


 ぼくたちの描く物語が、すこしでも彼女の生きる力になりますように。


 誰も口にはださない願いをひっそりとこめて。

 彼女に結ばれたぼくと仲間たちは、今日もただひとりの読者にあてた物語を紡いでいる。



     (了)


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彼女の夢とぼくたちの願い 野森ちえこ @nono_chie

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