第4話

 馬で出かけたあの日から二人の仲に微妙な変化が訪れたように主人達は思えた。


「…というわけでな酒を飲みすぎてしまってな、金殿にたっぷりと絞られてしまったよ」


「フフ…、それは『陽』様が悪いと思いますよ、いくら楽しいからってそんなことをすれば叱られるのは当然ではないですか…困った人ですね」


 『陽』はいつものように笑い話をしているが、少女はそれを聞いて袖で口元を隠しながら笑っては彼を嗜めている。


 いつかの味気ない様子が嘘のようだ。 仲むつまじい夫婦のようにも見える。


「ああ…お前や、あの子にちゃんと忠告したんだろうね?」


 そんな二人の姿を厨房から見た主人が女将にそっと耳打ちをする。


「言いましたよ…それでもあの子がああするなら仕方がないでしょうが、まあ…そんな簡単に想いを忘れるはずなんてできやしないんだから…ね」

 

 近く訪れるであろう別れ。 


 もはや二度と会うことも無い日が来ることを言っても少女がそうしようとするのならばそれ以上、言うことはない。  


「可愛そうに…なんて健気なんだろう、せめてこの街の人間ならば妾になれる道もあったかもしれないのに」


 お人良しな主人がそう嘆くも女将は料理を盛りながら、


「それ以上、野暮なことは言わないでいてあげな…どだい、道が違うんだよ。あんたもあいつらを見習って放っといてあげなよ」

 

 シンミリとした言葉の後に視線を店内に向ける。


 そこには常連客が座って酒を飲んで食べていた。


 しかしいつかのように『陽』の周りには誰も集まってこない。 それは気遣いであり彼らなりの優しさでもあった。


 彼らも少女と『陽』の関係に気づいているのだ。


 そして二人が共に語り合える時間も少ないことも。


 すでに『陽』が帝の婚礼相手である大商人の一族であることに皆が気づいてた。


 もちろん本人はそんなことは一言も言っていない。


 だがすでにその『予想』は真実となっていて、彼が婚礼の準備の為にこの街に来たとあくまで周囲には知れ渡っていた。


 婚礼の儀が終わればきっと『陽』は真都に帰ることになるだろう。 


 少女もそれを知っている。


 常に『陽』に対しては他の客と違う態度を取っていた少女がいまはそれでも楽しそうに彼と語り合っている意味を彼らは理解していた。


 周囲の大人達にそんな二人の若者は好かれていた。


 『陽』は話も上手く、金持ちであることをひけらかすようなことはせず、どんな相手にも敬意を持って接していた。


 いつかの鈴のことも彼の話どおりに布告がなされて値段が上がり、それによって少なくはない金を得た客も居る。


 少女も働き者で、よく気が利き優しくて、酔客の戯言も喧嘩も上手くいなしてその場が楽しくなるように努めてくれていた。


 そんな少女に密かに懸想している者も多く、ある若い兵士は彼女への秘めた想いを胸に留めつつも嫉妬に耐えては酒を飲み、店の外である大通りで反吐を吐きつつ泣いていた。


 先輩兵士が慰めているのを何人もの客達が見ていたが、誰もそれをからかいもせず、笑いもせず、ただ優しく彼の肩を叩いては通り過ぎていった。


 婚礼の日は近い。 そして別れの日も近い。 


 残りわずかな時間をせめて見守っていこうと周囲の者達は決心していた。


「…またここでしたか」


 その決心の範疇外にある人間が不意に店に入ってきて、開口一番不満そうな声を挙げた。


 金である。 今日はいつものような平服ではなくて鎧を着込んでいることを察すると仕事中のようだ。


「いらっしゃいませ…金様、何か食べ物はお要りですか?」


 少女が声をかけると、彼は彼女を一瞥した後に「ふんっ!」と鼻を鳴らして無視する。


 少女に対して彼はいつもこのような態度で接するので慣れている。 


「今日は大事なお役目の日だと言っておいたはずですが?」


 不機嫌な様子の金になにかあったのだと少女は気づいたが、素知らぬふりで「では私は仕事に戻ります」と言って厨房に戻る。


「わかっている、わかっているからこそ今日は酒を飲んではいないよ」


 ヒラヒラと手を振りながら『陽』は上機嫌に振舞うが、やはり金の不機嫌は変わらない。


「ではすぐに出立します、馬はすでに待たせてあるから早く行きましょう」


 普段ならばため息をつきつつも多少は態度を軟化させる彼が今日は常である無愛想を強めて促す。 


 いつもとは違う友人の振る舞いに『陽』も何かを察したのか、

 

「ああ、ついに来たのか…それでは仕方が無い…ことではある…な」


 そう言って椅子から立ち上がる。 


「早くしてください…先方はすでにお待ちなのですから」

 

 小声で囁いた言葉は給仕をする少女の耳にも入ってきた。 しかしそれに気づかないフリで仕事を続ける。


「では…行ってくるので…また後で…な」


 誰に言うでもなく、そう呟くと『陽』は金と共に出て行った。 


 馬が走り去る音が即座に聞こえ、それがすぐに遠くなって聞こえなくなってきたのでかなり急いで走り去っていったようだ。


 そして二人と入れ違うように客が入ってきた。 すでにどこかで飲んでいたらしく大分酔っている。

 

 フラフラとした足取りで椅子につくと、すぐにひそひそと話しはじめた。

 

 だがそれは酒のせいもあるのか、ひそひそと言うにはあまりに大きく、店内の全員に聞こえていた。


「真都の大商人が宮城にやってきたそうだ」


「やはり帝の結婚相手は真都の大商人の娘だったようだな」


「ああ、表向きは表敬訪問とは言っているが、当主自らであるのなら間違いはないだろう」


 とある酔客二人がそう話している。 荷物や服装を見るでもなくこの街の者ではないだろう。


 なぜわかるかと言えば、この飯店の中でそのような話をする人間は常連客の中にいるはずがないからだ。


 周囲の客達は非難の視線を向け、それに気づいた二人は状況を理解できずに居心地が悪そうにすぐに帰っていった。


 店の中は静かだ。 客は少なくは無い。 ただ誰もがいつものように騒いではいない。

 

 たまに雑談をする程度で静かに酒を飲んでいる。


 その中を少女はいつものように両手に皿を持ってテキパキと動いている。


 真都の大商人が宮城にやってきたというのはすでに街中の人間が知っている。


 めでたいことでこそあれ、なにもこんな静まるようなことでは決して無い。


 常日頃から酒を飲む理由を探している客達なら普段ならば大騒ぎしていることだろう。


 その理由を知っていて、また原因でもある少女は内心、うんざりしていた。


 少し前に女将さんから唐突に聞かれたことが頭の中で思い出される。




「それで?お前さんはどうなんだい?」


「……何がでしょうか?」


 馬で出かけた日から数日たった頃、その日最後の客を送り出して皿を片付けていた少女に女将さんが問いかけるが、その意味がわからないでキョトンとしてしまう。


「陽さんのことだよ、あんたがあの人にだけ態度が違うことを気にしてはいたけれど、まさかそんな仲になっていたとはね、やはりあたしの目に狂いはなかったよ」


「えっと…それは…どのような意味で…?」


「なんだ、違うのかい…それならいいさ、よくお聞き?私達もあのお客のことを見続けていたが、どうやら悪い人ではないようだ…けれどね?いずれはあの人も故郷に帰るんだよ」


「……それは理解しておりますが」


 女将さんが何を言いたいのかはそこで察することが出来た。


 ようするに『陽』はあくまで所用でこちらに来たに過ぎないのだからいつかは真都に帰る。 

 

 だから彼とこれ以上『仲良く』なればその時が辛くなるんだよと言いたいのだ。


「あれだけ金を無頓着に散在できるところを見ると、あの人は中々の大家の跡取りなのだろうね、それならすでに決まった人がいるだろうよ」


 勘違いも甚だしい。 とはいえ若い男女二人が供に出かけたのならばそう捉えられることも間違いではないだろう。


 だがそれは間違っている。 


 少女と『陽』の関係は決してそのような間柄になるような平和なものではないからだ。


 少女にとって『陽』は一族の恥辱を与えた者達の縁者であり、自身がその生涯を費やしてでも殺すべき存在である。


 ある意味では『運命の人』と言っても正しいが、それはひどく血生臭い縁で結ばれている。 


「仮にあの人にその気があったとしても…だよ、産まれが違うんだから…ね、これ以上は私が言うことじゃないがよくよく考えておきな」


「はい、わかっております」


 蓮っ葉な言葉ではあるがその視線は優しい。


 それを短くは無い期間を過ごしてきた彼女には十分理解でき、それがゆえにその思い遣りは嬉しいものだ。

 

 そしてそれを聞いた彼女の決意はより強くなった。 


 それまでには必ず…本懐を果たさねばならない。 零落した一族の悲願と復讐の鬼と成り果てた叔父のためにも…だ。


 もう会えなくなってしまう前に。 早く…早くしないと…。


 その次の日にやってきた『陽』に少女は丁寧に礼を言い、今までの不調法を謝罪してニコリと笑った。


 昨日まではあった心中のざわつく気持ちはすっかりと治まり、凪のように静かだった。


 まるで死んでいるかのように。


 最初は戸惑っていた『陽』も少女の態度の変化にも慣れて、今まで以上に明るく親しく話すようになった。


 最初は女将さんからそれとなく注意を受けてはいたが、やがて少女の『覚悟』を理解したのか何も言わなくなり、常連客たちも遠慮をするようになったことも都合が良かった。


 そうしていくうちに会話の端々に彼が個人的なことを漏らすようになったことを叔父は報告を受けて狂喜する。


 もっと調べろと、もっと聞き出せと急かす叔父の命令に忠実に従いながら慎重に言葉を紡いで『陽』との会話にい毎日いそしむ。


 冷静に、冷酷に、まるで一つ一つの間違いを墨で黒く塗りつぶしていくように。 


 例えば明日はどこそこに行くとか、金から兵舎の中央に閉じ込められてしまい、どうやってそこから抜け出したかなど。

 

 少女達にとって益になるようなことも聞き出せた。


 明日の予定がわかるのならば情報も集めやすい。


 単独で抜け出せたのなら兵舎の見張りに穴があることを示している。  


 そしてそろそろ決行の策が決まり始めたという矢先にこうなってしまったことに落胆した。


 あの日から『陽』は店に来なくなった。


 それでも手紙は届くので、まだこの街にはいるようだが、プツリと居場所がわからなくなってしまった。


 それでも叔父は勿論、少女もまた諦めずにいた。


 手紙を受け取るたびにどこにいるのか?とか会いたいという言葉を書き連ね、その想いを込めて何度も文面を考えては消して、また書き連ねる。


 それでも返ってくる『陽』の手紙には自身の居場所がわかるようなことは書かれておらず、自身の近況や少女と交わした会話のことばかりで、決まって最後には近いうちにきっとまた会えるという言葉で〆られている。


 『恨』の計画は複数すでに決まっているのだから、あとは会うだけなのに。


 やきもきする気持ちを隠せずに毎日『陽』からの手紙を待つ。 


 その姿を見て、周囲の人達が同情する様子に何故だかイラついてしまう。


 だがこれは確実に八つ当たりなのだろうから、少女は表向きはいつもどおり過ごし、その内面を燃え上がらせながら働き続けた。


 そして今日もまた、遠慮がちに注文をする客達を相手をして疲れきったところに手紙が届いた。


 送り届けたのはかつて兵舎で荷車を押してくれた丙で、丁寧に礼を言うと彼はいつも決まったように泣きそうな顔で去っていく。

 

 だがそれも少女にとってはどうでもよいことだった。 


 家に帰り、慎重に手紙の封を開ける。


 そして読み進めた彼女の心臓が大きく跳ね上がった。 


 それは馬に乗りながら見た『陽』の子供じみた拗ね顔を見たときよりも強く、今までに感じたことが無いほどに。


 明後日の夜に兵舎を抜けだして会いに行く。


 手紙には簡潔にそう記されていて、時間と場所も指定されていた。


 ああ、いよいよ来たのですね。 この日が…。 


 待ちに待った日。 十年以上も育んできた復讐の時。 一族の悲願。 


 それら様々な言葉や想いが心の中を駆け回る。


 しかし昔日の望みが適いそうなのに不思議と嬉しくはなく、ただズンとした重みが心の中に生まれ、やがてそれは臨界点を迎えて溢れかえった。


 そしてその瞬間、少女は気づいてしまったのだった。


 窓の外ではそれを隠すように厚い雲が月を遮り、何も見えない黒闇の中で小さな嗚咽がわずかに聞こえ、消えていった。


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