第5話
「…では、行ってまいります」
「うむ、しっかりと本願を果たしてくるがよい。そのためにお前は生まれたのだから」
蜀台が照らす灯火の中、寝台に座る叔父に向かって少女は膝をついていた。
服装は婚礼衣装のように華やかでまた綺麗に手入れされている。
没落してもなお、かつての誇りを忘れぬためにこの服は残されていた。
そしてどんなに困窮しようが決してそれを売り払おうということはせず、大切に保管し続け、その理由を叔父は少女が幼い頃から繰り返し教え続けた。
大願を果たすめでたい日にこそ、これを着るのだと。 そしてこれで想いを果たせ。
少女がいま着ている服の内側には一振りの匕首が縫い付けられていた。
それは一族の家宝。 一族の初代がこの国の帝から下賜されたもので、持ち手には竜が彩られ、その周りには月と太陽が掘られている。
この国の主の別称、主上を昼も夜も守れという意味で拵えられたそれは皮肉にもその目的から間逆であるただ一振りの暗殺の刃と成り果ててしまった。
綺麗に磨かれた刀身を入れる柄には毒が入れられていて、抜いた際にはそれは一分の漏れも無く刀身を包みこむ。
これで『恨』を果たすからこそ意味があるのだ。
少女は扉を開けて屋外に出た。
今日は月明かりがある。
目的の場所は機知であり、これならば灯りをつけなくても迷わずに進めるだろう。
約束の場所に向かう少女の心には何の迷いも無い。
たとえ悲願が成就しようがしまいがもはや生きることはできないだろうから歩く道すがら、今までの人生を思い出していた。
もはやおぼろげとなった父や母の顔。 広い屋敷、仕えていた人達。 その頃はまだ叔父はいまのようではなく、世人に恐れられようとも自分達には優しかった。
だが皆、消えた。 居なくなったのだ。 かつての自分を取り巻いていたすべてが消え果てて変わっていった。
自身とて変わった。 もはやその頃の自分でさえ他人のように思える。
そしてそれからの生活。 耐え難いほどの空腹、困窮。
赤切れだらけになった指先に傷だらけになった身体。
毎日繰り返される叔父の血を吐くような恨み言。
それももうじき終わるのだ。 そう、まるで夢のように。
そういえばいつかの夢で見た光景。 花冠を授けてくれた少年の顔が浮かぶ。
ああ、今日あの子を殺すのだ。 大人になったあの人を。 私が。 この手で。
大人になっても面影は変わっていなかった。 その瞳、声、仕草、すべてにかつてのそれがあった。
そのときに感じていた想い。 感情はずっと残っている。
それだけがかつての自分と今の自分を繋いでいる。
けれど今日、それは断ち切られる。
そうしてから何日生きられるかはわからない。 けれど今日、この夜に私は死ぬ。
かつての名前は失い、私は死んだ。 いまは一部だけが残った抜け殻。
そして今日彼を殺した日にその一部すら消え去る。 残るのは名も無き大罪人、屍を幾日も晒されながら罵倒されて石を投げられて腐敗して崩れていく。
私の最初で最後の恋慕。 十年の地獄を経ても根絶できず、そして再会して燃え上がったのに気づけないでいた。
いやフリをしていただけだろう。 皮肉なことにそれすら出来なくなったのはあの日に手紙を貰ってからだなんて…。
でもこれはどこまでいってもしょせんは自分だけが抱いていたみっともない片思いだ。
ああ仮に、そう、仮にあの再会の日、あの人が私に気づいてくれていたらどうしていたんだろう?
けれどあの人は気づいてくれなかった。
至極当然であるし、それを期待するほうが馬鹿らしい。
だけど身勝手にもそう思ってしまった。 そしてあっけなく否定された。
ああ、だからあの日に恥辱と憤りを心に持ったのだ。
そしてそのエゴに気づかなかったからこそ、どうして彼の前でいつものように演じられなかったのかも理解した。
気づいてくれなかったことに私は拗ねていたのだ。 なんとも笑えるし、自身の愚かさをもはや笑うことすら出来ない。
それでも最後の最後に素直になることができたのはよかった。
だがあの人にしてみればそうならなければよかっただろう。
だってあの人が私が私だと気づいていたら、この日を迎えることはなかったのだから
ふと先ほどの自問の答えは出ていた。
ここまで考えてあっさりと当たり前のことに気づけないなんてやはり自分は愚かなのだろう。
だって私を覚えていてくれたあの人に刃をむけることなどできない。
この国でもっともいと尊きお方。 帝。 主上様。 それ以上に大切な人。
きっと私は自ら自裁していただろうから……。
「…お待ちしておりました」
町外れの一角。 約束どおりに『陽』はやってきた。 共もつけずにたった一人で。
「ああ、約束してたからな」
いつもと同じ平服。 そしていつもと同じように穏やかな態度で、その声だけは多少嬉しそうであった。
手元には小さな箱を持っている。 どうやら少女に渡す品が入っているようだ。
こなければよかったのに…。 心の中で小さくつぶやいた。
決心はいまだ揺るがない。 それでも心はまた別だ。 悲しいようなホッとしたような、会いたいと会いたくないような。
矛盾した葛藤を表には出さず、そっと服に隠し持った匕首を確認する。
硬く冷たい殺人の道具はそこにあった。
ああ、本当にこなければよかったのに…。
もう一度心の中でつぶやいた。 心中ならば誰に咎められることも無い。 たとえ叔父であろうとも…だ。
「さて積もる話もあるだろうが、まずはこれを見ておくれ」
『陽』が箱を開ける。 いっそいま誓いを果たしてしまおうかと考えた。
なぜならそれを見てしまえばよりその後はより大きな苦しみとなることが予測できたからだ。
それでもそれをしなかった。
自分を疑わずに来てくれた彼へのそれが最大限の「謝罪」と思ったからだ。
きっと『事の後』に自分は涙を流すだろう。 後悔してもしきれない、その後の束の間の生をずっと罪悪感と決して癒えない傷を負うのは間違いない。
だからそれをあえて受け取り、よりひどい罪悪を受けなければいけないのだから。
だがそれは予想外だった。 予想以上だった。 有り得ないことと思って思考の中からはじき出していた。
『陽』が箱から出して彼女の頭にそっとかけてくれたのは赤く薄絹で作られた代物で、通常それは婚姻の日に花嫁に被せる品物だった。
あの夢の中で、覚める直前に彼が言ったのだ。 かつて確かにあった光景が思い出される。
次は花冠ではなくそれをお前に渡そう。 愛する女と婚姻するときに被せるものだそうだから。
あのとき私はなんて言ったのだろう?
いや思い出す必要など無い。 唐突に夢から覚めたのはそれを思い出してしまえばきっと私は今までの私でなくなると確信していたのだから。
だがこれは夢ではない。 現実なのだ。 あの日から十年を経て過去はその意味合いをまったく変えずに少女のところへと戻ってきた。
「ああ…やっと渡すことが出来た」
優しい声色はあの日とまったく同じだった。
「随分待たせてしまって本当に済まなかったな、繭月よ」
「そ、その名…前は」
「お前の名だ。忘れるはずなどないではないか、あの庭園で誓ったことを俺は一度として忘れたことなどないのだから」
胸が張り裂けそうだった。 嬉しくて嬉しくて、このまま死んでも良いとさえ思えた。 だが遅かった。
すべてはあまりにも…。
それだけは確実であり、間違いの無い真理だった。
「主上…約束を果たしてくれたこと、名前を覚えていてくれたこと嬉しく思います。…ですが」
繭月が後ずさる。 ふと月明かりの下で彼女は泣いていた。 その様は慟哭よりも悲愴で、どんな叫びよりも心を引き裂かれるようだった。
「もう…私にはどうすることもできません、この運命を呪いましょう!私は生き残るべきではなかった!死ぬのが天命であったのです!なのに…生き残ってしまった…それがこの結果なのです…どうかお許しください…ああ、お許しください……」
最後の言葉は嗚咽となって誰にも聞こえなかった。 しかし彼女は叫んだのだ。
最愛の人の名前を。 自分の生きる意味であった人の名を
匕首は静かに服から抜かれた。
『陽』は匕首を見てもなお、静かに少女に近寄って彼女を優しく抱きしめる。
少しの沈黙の後、月明かりの下でカランと刃が地面に落ちる音が響いた。
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