第2話
そこは広く、様々な花々で彩られていた。 野山のようにも思えたが、はるか向こうに高い壁で隔たれているところを見ると庭園なのだろう。
だが庭園と呼ぶにはあまりにも広い。 その広大な庭を子供が二人走っていた。
年齢は五歳。 もう一人は七歳である。
やがて子供たちは走りつかれたのか座りこむ。 周りには赤、白と様々に咲き誇った花があった。
戯れに男の子が五つ、六つ、花を抜いて編みこんで花飾りを作った。
そしてそれを少女の頭にそっと乗せる。
誇らしいような、恥ずかしいような心持ちで少女は「ありがとう」と礼を言った。
男の子も幼子なりに照れつつ、でも誇らしげにそっと少女の頭をなでながら、
「今度は花ではなくてもっとお前に似合う物をを作ってあげるね」
「はい、待ってますね…○○様」
そうやって指切りしながら無邪気に花々の香りに包まれて笑いあう。 そんな二人を少し離れたところで大人達が朗らかに笑っているのだ。
父も母も祖父も、そして男の子の母と女官達も。
それはとても美しく、切なくて、なんとも皮肉な思い出だった。
かつてあった幸福。 すべては遠き理想郷。 切り離された前世のような途切れた昔の夢だった。
瞳を開けると暗かった。 だが窓越しに流れてくる空気はすでに夜中を通り過ぎて陽を迎え始めようとしているのを感じる。
寝台から起き上がり、いまだ寝息を立てている叔父の横を静かに通り過ぎて外に出る。
そしていつもと同じように井戸から水をくみ上げる仕事を始める。
それでもその日はいつもと違った。
少女は普段、夢を見ることは無い。
見れば大抵辛くなるのだ。
まだ小さかった頃は自分の置かれた状況がわからず、父や母に会いたいと泣きながら寝付くので両親の夢をよく見た。
それは見ている間はとても嬉しいが、覚めれば現実には父母は居ないことに気づき、静かに枕を濡らす。
叔父はそのたびに優しく彼女を抱きしめて「すべては奴らのせいだ」と呪詛をはきかけて慰めてくる。
そうしているうちに一年が過ぎるごろには少女は夢を見なくなった。
だが久しぶりに夢を見た。 それも小さくて自分が幸せであった頃の夢だ。
夢を見た原因は明らかであった。
先日の兵舎での出来事だ。
あの『陽』という青年を見たからだ。
成長しても面影は昔と変わらなかった。 いっそのことまったく別人のように面相が変わってくれていればよいのに…。
彼は変わっていなかった。 夢のときと同じような微笑で、やや低くなった声で自分の前で言葉をつむぐ。
帰り際に門番に声をかけられたときに、いつものように出来なかったのはそのせいだ。
あれは失敗だった。 失敗と言えば金という将軍に反論したのも失敗だ。
あれで多少なりともあの男に多少は険悪感をもたれてしまっただろう。 しばらくはあの男は兵舎にいるだろう。 やりづらくなるなあ。
そしてあの人も同じく。 やりづらいなあ。
だが皮肉にもそれは一族にとっては大いなる機会でもあり喜ぶべきことであることは確実でその意味でもやはり『やりづらいなあ』なのだ。
少女…いや少女と叔父である一族の悲願。
それは夢の中の男の子。 初恋の相手。 そして自分を助けてくれた男。
それを殺すことである。
あの日、酒色飯店に戻った際に女将さんから「随分と遅かったね」と嫌味を言われたが、自分のあまりの空返事にそれ以上は言われなかった。
普段ならその三倍は嫌味を言われ怒られていただろう。 つまりそれくらいあの日の自分は『普段の自分』らしくなかったということだ。
いけない、いけない、こんなんじゃいけない。
自分では理解していた。 そしてその覚悟も等に出来ていると思えた。
そう、夢を見なくなる頃には。
それからは叔父の言われたとおりに様々な勉強をし、体術を鍛え、同時に正体を見破られないように演技をし続けていたのだ。
何も知らない街娘。 朴訥で世間知らずの小娘として必死で自分を偽ってきた。
それでもあの突然の再会であっさりとそれが瓦解したことを恥じる。
失望と怒りを感じる。 自分自身に。
あのとき突然のことに何も考えられなかった。 懐かしいという感情も、憎いという感情もなかった。 正体が見破られるかもしれないという怖さもなかった。
ただ兵舎を出るときに感じたこと。
ただ、ただあの時にあったのもまた確かに…失望と怒りであることは間違いなかったようだ。
止めよう! 考えても不毛なことだ。 私はすでに私ではなく、この身はただの一振りの刃であるのだ。
そう叔父に言われてきた、教育されてきた。 そう信じてきた。
辱められた一族の『恨』を果たす。 よく研ぎ澄まされた匕首。
だから彼女はささくれだち、荒れた心を静めるために冷たい水にあえて両手を沈める。
キンキンと冷えた水が消えなくなったあか切れの跡に染みた。
それでもそれを幾度も繰り返した。
夢を忘れるために。 思い出を忘れるために。 そして自身の使命をあらためて誓うために。
兵舎に酒を届けてから一週間がたった。
『恨』の標的と出合ったことと彼がしばらくは兵舎に居るであろうことを叔父に報告したときの喜びようはすさまじかった。
病を患い、寝たきりがちになってやせ細った様はまるで幽鬼のようであったが、それを知らされてからは朽ち始めた身体と反比例するように気力だけは充実しているようだ。
ランランと瞳を輝かせて『策』を練っている。
没落したとはいってもその人脈は完全に消えてはいないようで、どこからか情報を仕入れてきては怪しい人間達を夜毎集めて密談をしている。
しかし残念ながら『策』を決するような情報は来ていない。
兵舎からの注文もあれからは一切無く、おそらくはあの堅物な将軍がそういった浮わついた注文を逐一確認しているのであろう。
また帝の婚姻の噂で街中には沢山の人々が溢れ、飯店は近年に無いくらい繁盛しているため少女も給仕として働いているので忙しくてしょうがない。
とはいえそれでも目ざとく酔客の噂話を集めては情報収集は欠かしてはいないのだが。
それでも叔父は機はまだか、まだなのかと少女を急かす。
懸命に情報を集めた結果としては、どうやら近い日に帝の婚姻が発表されるらしく、后は真都の大商人の娘というのが有力なようだ。
帝の婚姻ともなれば国を挙げてのお祝いとなるので必然、首都であるこの街に沢山の人々が集まってくるだろう。
なので色々と問題、小ならば酔っ払いの喧嘩、商売人同士の争い、大ならば陰謀を企てるような人間の侵入等。
そのせいで兵舎に兵士が拡充されているということは読めてきた。
その際には標的である『陽』も宮城で行われる祝宴に参加することは間違いない。
それほどの大物だ。 絶対にそれだけは間違いない。
そしてそれが終われば彼は決して手の届かないところへと移動してしまうだろう。 そうなると『恨』の決行は帝の婚姻が行われる直前までが期限である。
それを逃してしまうと機会というよりも叔父の寿命が持たない。 それゆえに叔父は焦っているようだ。
叔父と同じように少女も焦っていた。
育ての親である叔父への恩義。 そしてたった一人の小娘ではこんな陰謀を計画して実行することなど不可能だ。
良くも悪くもかつては宮城で陰謀を画策、あるいは切りぬけてきた(最終的には切り抜けることはできなかったが)経験を持った叔父の手腕は計りしれない。
少女も兵舎の情報を集めようと親しくなった兵士達へ手紙を送ってはみたが、ほとんどがしばらくは忙しくて飯店に行けそうにもないし会えそうにもないという返事ばかりだった。
一番期待していた丙への手紙もさりげなく好意があることをちりばめた文面で誘っても熱烈な返事は返ってきてもやはり同じように会えないという結果だった。
そうこうしているうちに婚姻の発表が数日後に来るらしいと噂が立ってきた。
大抵はこういっためでたい噂は真実であることが多い。
こうなったら丙辺りにどうしても会いたかったら来てしまったと言って潜入しようかという無謀な計画を考え始めた頃にそれはやってきた。
それは『陽』と再会してから二週間後のことであった。
その日も飯店は繁盛していて店の中は文字通りに戦場のようであった。
注文された料理を手伝っているときに妙に店の中が騒がしくなってきたのだ。
店主は料理を作っているのに忙しく、女将さんも配膳で手一杯でしばらく厨房に戻ってきていない。
「何があったか確認してきておくれ」と店主に言われた少女が皿を片付けながら「はい」と返事して店内に進むと、店の入り口の辺りが混雑していた。
ひしめき合う酔客のその中心を覗こうとしたが、いかんせん小柄な少女では見えない。
仕方なく押し合いへし合いしながら強引に酔客の間を抜けると、そこには『陽』が座っていた。
隣にはしかめっ面の金も居る。
二人とも今日は休日なのか、平服を着てはいたがその立ち居振る舞いは洗練されていて明らかに浮いていた。
「おや、いつかの娘さんじゃないか…こんにちわ」
親しげに挨拶をしてくるので少女も思わず頭を少し下げる。 どうやらだいぶ飲んでいるようで顔を赤らめながら上機嫌な様子だった。
チクリと不快に近い想いが出てきた。
「それで、陽さんよ…本当に帝は婚姻をなさるのかい?」
一人の酔客が訪ねると『陽』は大仰に頷きながら、
「ああ、間違いないね、帝は近く婚姻を発表なさるそうだ」
「それで相手は誰だい?やはり…」
「おっと、それはまだ秘密だ。だが帝が婚姻するのは間違いないね、なにしろ私は真都からやってきたのだからな」
とたんに客達が「オ~!」と声を挙げる。
「やはり真都の大商人の娘と結婚するのは確かなようだな…そうするとこれは大きな商いの機会だぜ」
「真都から来たやつが言うのなら信憑性はあるな」
ボソボソとそんなことを話し合う酔客とは裏腹に少女は内心、鼻白んでいた。
本当かどうかもわからない…第一に本当に真都から来たのかさえ怪しい人間の言葉を信じるなんていくら酔っているとはいえなんて馬鹿馬鹿しいのかしら。
「さて、婚姻相手はともかくだ…こうして知り合った皆さんに良いことを教えてあげましょう…帝は婚姻の際にはとある物を買い集めるそうだ…それが何かわかるかい?」
「それは何だい?教えてくれよ」
「勿体ぶらないでくれよ」
皆が興奮して『陽』の言葉を待つ。 彼は酒を一口、クイっと飲み干した後にたっぷりと焦らしながら口を開く。
「そうだな、まずは鈴だ。 なにも派手な物でもなくてもよい。鈴の音は涼やかで凛としたもので風が吹けばいつまでも音を奏でる。まるで喝采のように……といと尊き方はそう思っていて、もう少しすればそう布告するだろう。数が不足して多少値が上がろうとも祝い事なのだからケチなことはせずに買い集める事だろう」
「それは本当かい?」
誰かが問いかける。 答えるように酒臭い息をたっぷりと吐きながら、
「信じなくてもよろしい。果たしてこれは現か真か、信じなくても損はしない、ただ信じて動けば大金を得られる…かもしれぬ」
「俺は信じるぞ!」
「俺もだ!こうしちゃいられねえ、すぐに買い占めるぞ」
「待て待て、俺も行く!お前だけに得をさせてたまるか!」
そう言って誰もが通りへと殺到していく。 気づけばあれだけ騒がしかった店内はすっかりと静かになってしまっていた。
わずか数人が馬鹿々しいやら騙されてやがると薄笑いを浮かべながら席に座ったままだ。
「おやおや、これでやっと静かになった」
悪戯っぽく笑いながら隣に居た金の方を向く。 当の本人はシラっとした顔で酒を飲み続けていた。
やはり大嘘だったのだ。 呆れつつも空になた皿を片付けようと少女が近づく。
「おや、ありがとう。お前は鈴を買いに行かないのかね?」
「酔客の冗談を真に受けても仕方がありませんから」
ニコリと先ほどのホラ話を揶揄しつつ、皿を重ねて厨房に持っていこうとして、向き直る。
「浅学な身でお恥ずかしいことですが、今のような話は今後は店内では謹んでいただきとうございます」
「鈴の音は嫌いであったか?」
問いかけられた少女はゆっくりと首を横に振る。
「いいえ、鈴の音は好きです。風と共に乗る凛とした音は心地よいものですから。ですがあのような大ボラを続けられると店にも思わぬ被害があるかもしれません」
「ふむ、お前はあれがでまかせだと言うのかい?」
物言いは柔らかい。 金も大通りで鈴を買い集めている酔客たちを窓から覗き込んでいるだけだ。
「はい、確かに鈴は古来より祝事に使われることは珍しくありませんが、近頃はそのしきたりは途絶えて久しいと聞いております。それとも街娘である私の浅はかな考えでございましょうか?」
コトリと杯が置かれる。 ぐっと『陽』が少女の顔を覗き込む。
「いいや、お前が正しい。つい十年程前に鈴の音を好んで使っていたさる官僚が失脚してからは不吉だと言って廃れたからな」
「ではやはり大嘘ではないですか」
咎められても意に解さず『陽』は大笑いする。
「それが真実であるか否かは重要ではないな、現に彼らは動いたではないか、それが夢か幻のようであった言の葉であろうとも噂が広がれば他にも買い求める者も増える。増えれば不足で値は上がる。いずれそれを現実にしてくれるであろう、それに鈴の音は私も好きなのでな、さぞかし精悍な眺めになるだろうな」
そのことを想像しているのだろうか? 瞼を閉じて優しく微笑んだあとにまた開き、口上を続ける。
「なによりこうやって店内が静かになった、騒がしいのもよいがやはり酒は静寂の中で嗜むものだろう?」
「商いとしてはお客に去られてしまったので良かったとはとても思えません」
自分でも驚くくらいにピシャリとした物言いだった。 その態度には隣に居た金も不快そうな顔をするくらいに。
「それは済まない事をした。だが利を得ようとするならば時にはうろんなことをするのも必要ではないか、彼らが儲かれば後にこの店で費やす酒と食も増えることだろう、見方を変えれば利と損は荷車の両輪のように密接につながっている。あるいは転がす雪玉のようなものだ。 転がせば転がすほどに雪玉は大きくなる、必然重くなり転がすのは大変になるが頃合を見て離せばよいのだ」
「なんとも商人のお方らしい、ご慧眼ですね」
「商いに限った話ではないのだがな、お主だって『雪玉』を大きくしようとあんなにも泣いて縋っていたではないか」
それを聞いて金がぎょっとした顔をする。
「…先日のことはそのような考えをしていたわけではありませんよ、なんとも酷いお言葉ですね」
少女も金と同じように動揺をしてはいたが、もちろんそれは顔には出していない。
事実、それは正しい。
あの場で反論したところで金が納得するはずもないので演技をして場の空気に耐えられなくなった金が折れることを期待していたのだ。
最終的にはそうはなったが、『陽』のことは予想外のことではあった。
「そうか、それはなんとも野暮な邪推だったな。忘れておくれ、金殿もそのようなことがあったことはもう忘れておるよな?」
「ただのつまらない勘違いです。いちいち覚えておりませんな」
話を向けられた金がむっつりと無愛想に答える。
近くで動いていた女将さんから安堵のため息が聞こえた。
誤解とはいえ官憲に疑われてしまったことで店に悪評が立つかもしれないことを内心、心配していたのであろう。
当人達から直接の言葉を頂いたことで心底から安心したのだろう。
もしかしてそのためにわざわざやってきたのかしらと笑みを崩さずに少女は心中で呟く。
「それにしてもここは酒も食も良い。行き着けの場にピッタリではないか、またやってくるよ」
「…!それはありがたいことでございます。店としても『陽』様がひいきにしてくれるのなら願ってもないことですから」
ひとしきり食事を楽しんだ後にそう言って『陽』達は店を出ていった。
見送る際に少女が言った言葉は真から明るかったのだが彼女は気づいていない。
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