第1話
大国である『鋼』が勃興してから二百年の時がたっていた。 首都である『蓬莱』の市場は例年よりも賑やかで人々がごった返している。
「聞いたかい?例の噂」
「ああ、聞いたとも帝が嫁を取るって話だろ」
「ああ、そうだ…数年前に前の帝が崩御なさって棚上げになっていたが、その喪が明けたというのでいよいよ御婚礼を進めるっていうじゃないか」
首都の中心部にある飯店では昼間から酒を飲んだ酔っ払いたちがそう口々に噂しあっている。
「それにしても御后様は誰になるのかね?」
「そうさね、聞いたところでは真都の大商人様の娘だとか、隣国の次女様だって話はでているがね」
「いずれにしても俺達には関係のないことだ、でも大商人様の家から正室が出るとなればますます商いの機会は巡ってくることだから、俺はそちらを押すね」
「いやいや、最近、隣国はきな臭いと聞くぞ?それゆえにわが国を後ろ盾にして隣国は政治を安定させたいらしい、戦が起きるくらいなら隣国の姫を嫁に採ってもらいたいね」
酔っ払い達はてんでに好き勝手に話をし続けている。
いつの世も関係の無い事には人は自由にあれこれと話をするものだ。
店の中どころか、市場の人々、いや農村部の人間誰もが帝の正室は誰になるのかと噂しあっている。
やや無礼な者達の中には賭けをしているものさえいる。
いずれにしても今回の婚礼によって自分達の得になればいいのだから、少なくとも目に見えるように不満を漏らすものはいない。
それゆえにその程度のことで目くじらを立てることはないのだ。
「婚礼といえばあの子は良い相手はいないのかい?」
したたかに酔って顔を真っ赤にした一人が飯店の主人に声をかける。
「ああ、あの子は器量良しだからね、だが大きな瘤付きだからそう言った話はないようだ」
忙しそうに動き回る店主が返すと、
「ああ、あの偏屈な爺さんがいるからな、あの子も可哀想に…あんな偏屈なのが身内にいたんじゃたまったもんじゃねえ」
「そうだな、あの爺さんがくたばった後なら俺が嫁御にもらってもいいがね」
「お前と一緒になったんじゃあの子はまた苦労するだろうよ」
「なに言ってやがる!貧乏はするだろうが、その分は俺の一物で満足させてやるってもんよ」
「ははっ、そりゃ無理ってもんだぜ!」
そう言って笑いあう。 粗野な酔っ払いの笑い声に飯店の女将さんが嫌な顔をする。
「…それで今日はどこにいるんだい?せっかくだから酌のひとつでもしてもらいたいもんだ」
「あの子なら兵舎へ酒を運んでいるよ、あんたらみたいな素寒貧どもに酌をさせるくらいなら兵士の百人長辺りに酌をしてもらうよ」
ろくに注文もせず、安酒ばかり飲む貧乏人達を睨み付ける。
「なんでい、酒飲んでいるってのに婆の顔を拝むもんだからすぐに胸が一杯になっちまうんだよ」
「そうかい、それならせめてたまった酒のツケくらいそろそろ払っておくれよ」
そういいながらも女将の顔には笑みが浮かんでいる。
口は悪いが、馴染み相手の諧謔なようなもので、飯店の中にはひときわ大きな笑声が響き渡った。
大国『鋼』の街中はいつもと同じ平和であった。
「酒色飯店でございます。ご注文の酒をお届けに参りました」
一方その頃、少女は兵舎へと荷車を引いて酒を届けていた。
「おや、酒が届いたか、今日は忙しいからな、場所はいつものところに置いていけばいい」
そう言って開かれた門の向こう側では兵士たちが忙しく動き回っていた。
「はい、かしこまりました」
ニコリと微笑みながら少女はその華奢な身体で引っ張るには不釣合いな荷車を引いて営門を通っていく。
「はあ…はあ…はあ…」
それでもやはり重いのか、息を切らして引かれる荷車の速度は歩くよりも遅い。
「おや、酒色飯店の子じゃないか、ずいぶんとたくさん酒を持ってきたね」
ふと顔なじみの兵士が声をかけてきた。
「はい、今日はいつもよりも随分とご用立てを命じられましたので、遅くなってもうしわけありません」
そう少女らしく屈託無く笑っていはいるが、息はさらに上がり、その額には汗がにじんできている。
「仕方ない、手伝おうじゃないか。またいつもの酒蔵でいいんだろ?」
見かねた兵士が荷車を後ろ気から押してくれる。
「ありがとうございます…ところで今日は随分と急な発注でございましたが、何かありましたか?」
「えっ?ああ…まあ今日はお偉いさんがやってきていてね、おかげで俺たち下っ端はてんわやんわさ」
「まあ…ご視察でしょうか?それとも事件でも?」
戦や山賊が出なければ兵舎がこんなに忙しなくなることはない。 もしくは視察等で上級の官僚がやってくるときは大所帯でやってくるのでその後のご機嫌取りとして宴が催されることも多い。
少女の質問は誰もが『疑問に思わない』であろう当然な疑問だった。
「ああ…まあ、色々とあるらしくてな…あまり話せることではないんだ」
「まあ…そうなんですね、たかが街娘ごときが差しでましいことを言いました。どうかお許しください」
そういって一旦荷車を止め、居住まいを正して恭しく少女は謝意を示した。
それは一兵士に送られる礼儀としては最上級なもので、受けた兵士の方が照れくさくなるほどだ。
「ああ…き、気にしないでくれ…大丈夫だから、きみが安心して仕事に励めるようにするからな」
少女のことを憎からず思っていることが朴訥でまだにきびの後が真新しく残った兵士はそういって顔を赤らめる。
「はい、ありがとうございます」
少女の精一杯の笑が照れくさいのか、そのまま兵士は何も話さないで酒蔵まで荷車を押してくれた。
なんとも少女の都合がいいように…。
「ありがとうございました。丙様がお手伝いしてもらえたおかげです、今度良かったらお店にきてくださいね」
丁寧に礼と営業機会を忘れない心配りをたっぷりと受けた丙という名の兵士は上機嫌で仕事に戻っていった。
さすがに酒蔵に酒を運ばせるのを手伝わせるわけにはいかない。 もし手伝うと言われても少女は断るつもりだったが、そこまで気を回せるほどに若き兵士は目ざとくはなかったようだ。
ほっとしながら少女は酒蔵の扉を開く。
前に運んだときよりも多少は酒は減っていたが、平時の宴ならば十分にある。
それでもこれだけ大量に発注すると言うことはこの酒が出される宴には通常よりも沢山の人間が参加するということだ。
さてと…いったい何があったのか、あるいはあるのか? 思考しつつも蔵の中を奥まで入ってから荷車まで戻る。
とにかくこの酒を蔵に運んでおくとしよう。 あまり遅くなると飯店の女将さんに叱られてしまうのだから。
「よしっ!はじめましょう」
一度気合を入れて荷車の押さえを外して、酒で満たされた一抱えもある壷を少女は運び始める。
酒の入った壷を運ぶのは中々に疲れるが、単純作業は色々と思考しながらやる分には都合が良い。
まず考えることは兵舎にいる兵の数がいつもより多い。
次に荷車を運ぶながら横目で観察していた限りでは訓練する新兵の数はいつもと変わらない。
これは新兵が急遽補充されたのではないということ。 だがこれはまだ徴兵された兵が集まる時期ではないので理解は出来る。
つまり新兵の数は増えていない、ならば他の駐屯地から集められた兵がいるということか?
可能性として考えられるのはお偉いさんが来ているという丙の言葉だが、その後の言葉を考えると視察でもないようだ。
ならば山賊、あるいは夜盗でも出たのか? という可能性も考えられない。
それならば街の噂として耳に挟んでも良いだろうし、丙が口ごもるはずも無い。
それならば異変は外ではなく、街の内側であったということか?
あるいはやんごとなき高貴な方が来訪される?
それも将軍ではなく、たとえば軍のすべてを統括するような大将軍、あるいはもっとその上の方?
それならば一兵士の丙が歯切れ悪いということも理解できるし、その警護のために兵士が増えたということもありえるのではないか?
…どうだろう? 早合点はよろしくない。 他にあるとしたら…。
「こんなところで何をしている!」
「ひゃっ!」
急に後ろからの怒声に小さく悲鳴が出た。
驚いて振りかえろうとするよりも先に身体が強張る。
背中に冷たい刃の先が突きつけられているのを感じたからだ。
「兵士でもない者がなぜここにいる?、娘、ゆっくりとこちらを向け」
言い方は先ほどよりも幾分、柔らかい。 しかしそこに込められた殺気は先ほどよりも強いので心臓が強く跳ね上がる。
「しゅ、酒色飯店の者でございます…ご、ご注文の酒を蔵に入れておりました」
背中に走る冷や汗を感じながら膝をついてからゆっくりと振り返る。
そこには一人の青年がいた。 歳の頃は少女よりも幾分かは上であろう、体躯は少女よりも頭二つ分は高く、大きな瞳には強い意思と畏怖が十分に見て取れた。
綺麗に撫で付けられた頭からは上等な香油の香り、そして威圧的で無骨な鎧越しでもかなり鍛え上げられた肉体と装飾の施された剣を抜き身で握っている。
明らかに先ほどの丙という名の兵士よりも何段も身分が上なのは明白。 だが少女にはその顔には見覚えが無かった。
「酒だと?酒ならば十分に蔵にはあるはずだが…注文符を見せよ」
「はい…どうぞご確認を」
少女が慌てて注文符を手渡す。 その間にさえ少女を容易く真っ二つに出来るように剣の切っ先は固定されていた。
渡された注文符を読んでいる青年の顔がにわかに険しくなっていく。
いぶかしる少女を冷たく見下ろしながら、
「…これは偽者だ」
「えっ?そ、そんなはずは…」
「確かによく出来ている。 本物と寸分違わん…だがな、このような注文を私は許可した覚えは無い…つまりこれは偽者ということだ」
そんなはずはない! 自分は女将さんに言われてやってきたのだ。 注文符を届けに来た使いの者も顔見知りの兵士であることを知っている。
「女、答えろ!なぜ偽の注文符を持っていた!」
「わ、私は…ただ…頼まれたものを…」
「言い訳は良い!さっさと答えよ!」
そう言うと尚も剣先を少女にさらに突きつける。
騒動を察した兵士達が集まってくるが、その数と反比例するように静まりかえっている。
おそらくはかなり身分が高い将軍であることは確かだが、あまりにも居丈高であり、注文符をよく調べもせずに偽者と言い放つ。 だが将軍の静かでありながらも冷徹な物言いに誰も口を出せずにいた。
「…酷いではない…ですか」
重苦しい雰囲気で搾り出すような少女の一言。
「うん?何を言って…」
将軍が絶句したのは地面に膝をついて着物のすそを泥で汚した少女の瞳からツーと涙がこぼれるのを見たからだ。
「わ、私は注文を受けて届けに来ただけでございます。それなのにこのようなご無体な物言いをされ…私は…私はただの娘です。 日々を誠実に、ただ自身の成すべき事を誠実に努めて生きるだけの小娘です…それなのにどうして、ああ…どうしてこのような辱めを受けなければならないのでしょうか…私をお疑いならば周りの方々に聞いてくださるだけでよろしいのに…周りの方々もどうして何も言ってくれないのですか?あんなにも優しく親切になさってくれたのにどうしてこのような非道を見ているだけなのですか…」
そう言って少女は両手で顔を抑えて地面に突っ伏して泣き続ける。
血を吐くような言葉と反比例するように少女は声を押し殺してしゃくりあげているだけだ。
その様はあまりにも弱々しくけなげに見えて、それ故に誰もが憐憫の情を抱く姿であった。
兵士達も気まずそうに顔を見合わせ、中には将軍に対してはっきりと嫌悪の表情をする者さえいる、
「なっ…、世迷言をっ…」
将軍も雰囲気を察してはいるが、いかんせん自らの職務として当然のことではあるのでなおも詰問しようとはするが、状況としては明らかに分が悪いので後の言葉をつむげないでいた。
兵士達からの非難めいた視線が強くなるが、誰も将軍に取り成そうという者は現れない。
先ほど親切にしてくれた丙という兵士もどうしようもなく立ちすくむ。
場の形勢は明らかに少女に傾いている。
それでも兵士達から声が上がらないことをみるとやはりこの将軍の身分はかなり高いのだと少女は確信した。
「金殿、どうしたのですかな?」
ふと誰かの声が聞こえた。 それは穏やかではあるが、不思議によく心に響き、不思議に落ち着かせる声色だった。
思わず少女が顔を上げると、一人の男が進み出てきた。
将軍とは違い、鎧は着ておらず絹で出来た簡易な装飾の平伏を着ていて、兵士ではないことは明らかではあるが、身分の高い文官にも見えない。
年齢もさほど変わらないように見えて、背丈も少し小さく、ちょうど少女と金の間ぐらいだ。
瞳はさほど大きくはないが鋭い目をしてはいる。
しかし出で立ちやかもしだす雰囲気からは商家の育ちの良い若旦那といったようにも見えた。
「……陽殿、大したことはありません、偽の注文符を出してきた輩を詰問していただけです…あっ!ちょっと!」
「どれどれ…ふ~む酒が大壷で十個ですか」
陽と呼ばれた男がすばやく注文風を掴み取って、書かれた内容を読みあげる。
「……ああ、この注文なら私が頼んだものです」
「なっ、何を…」
「いえね、せっかく首都に来たものですから、美味い酒が飲みたいと思いましてな、兵舎長に頼みましたらこの店の酒が中々に美味いと言っていたものですから…そういえば伝えておくのを忘れていましたね」
「あ、あなたというお人は…」
眉間に皺を寄せ、大きな目をしかめながら怒りを表す将軍に陽と呼ばれた男は、『まあ、まあ』と言って悪びれもしない。
その間、少女はぽかんと『陽』を見ているだけだった。
演技を忘れ、ただ馬鹿みたいに。 呆けたように。
その表情は妖魔をみたようにも、あるいは時が止まってしまったかのようにも思える。
先ほど饒舌に将軍の非礼を非難していた者とは思えないくらい呆然と助け舟を出してくれた青年をじっと見ていた。
「うん…?わたしがどうかしたのね?ああ、私は陽 信努と言う。真都のしがない商人の息子だが、金殿とは昔馴染みでね、その気安さでいささか不調法をして君に迷惑をかけたことは大変申し訳なかった」
そういって謝罪をしようとする『陽』の間に金が慌てて立ちふさがり、
「わかりました!今後はこのような注文をするときには私を必ず通してください!それと娘よ…娘?」
「は…はい!」
「…よく確認もせずに疑ったのは私の落ち度だった。許せ」
そういって渋々といった体ではあるが、謝罪をする。
「い、いえ…ご、誤解が解けたならば幸いでございます。…こちらこそ街娘風情が
大きな口を叩いてしまい申し訳ありませんでした」
そういってペコリと少女が頭を下げる。
対応としては満点である。 服を泥で汚すくらいの代償と比べれば。
将軍の面子も守り、助け舟を出してくれた青年の顔も立てた。 せいぜいがちょっとした誤解であるのだからこれで何の棘も残さないであろう。
だが少女は深く後悔していた。 いやハッキリと羞恥の感情で全身が熱くなっていくのを感じる。
「これにて良し!としてそれでは…金殿、私は…これで…」
帰ろうとする陽の服のすそを金が掴む。
「お待ちを…どうやら陽殿は退屈をなさっているようだ、せっかく頼んだ酒を美味く飲むために少し手合わせをして汗を流すとしましょう」
「…い、いや…それには及ばな…」
「遠慮なさりますな、勝手に注文をするくらいには暇なのでしょうからたっぷりと手合わせしましょう…夜が来るまで…ね」
そのような少し間抜けな友人間の小競り合いを尻目に少女は空になった荷車を引いて兵舎を出て行った。
帰り際に門番に「顔が赤いが、どうした?」と声をかけられてもいつものように演じられないくらい動揺をして。
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