死人ごっこ

夢星 一

白い

——「もう、いっしょに死のう」


「えー、絶対嫌だ」


 呆気からんとした、有無を言わせないような彼女の即答に、男は涙に濡れた瞳を少し見開いた。


 ハンドクリームを塗ってしっとりとした彼女の両手が、自身の骨張った無骨な手を包むのを感じながら、頬にかかる髪もそのままに俯いて、男は随分と長い事、ぺしょぺしょと泣いていた。

 元々悲観的に物事を考える性格であった。自身の無力さと、思う通りに行動出来ないやるせなさへの苛立ち。靴先から染み込む水溜りの水のように、ジワジワと迫る焦り。

 頭だけが冷静なまま、体がパニックになっていく様は非常に恐ろしく、壊れた蛇口のように男から水分を奪っていた。


 人混みに混ざるのが怖い。押しつぶされそうで息が詰まる。

 活躍する人のそばに居るのが辛い。キラキラと太陽のように眩しく、拷問を受けている気分になる。

 人が、自身への落胆を押し隠して笑う姿を見るのが苦しい。もういっそハッキリ言ってくれと思う。


 毎日毎日、そんな調子で嫌な事が増えていく。それに比例して涙がまた出る。何故そんなにも泣くのかと人に聞かれても、上手く説明できず、困ったようにまた涙を浮かべる事しかできなかった。



 そんな男に慣れた様子で、彼の様子をジッと見守っていた彼女だったが、思わず男の口から漏れた言葉への拒否は早かった。

 男の方も、つい口をついて出た言葉であったから、あっさりといいよ、なんて言われたら、それはそれでギョッとしただろう。それでも拒否の速さに驚いて、不安の増した目を彼女に向けた。


「私やりたいことまだ沢山あるもん。死ねないよ」


目をなだらかな山のように細めて彼女は笑う。笑った時にだけ、彼女の目の下に現れる、ぷっくりとした膨らみが男は好きだった。涙袋と言うらしい。

 


「でも、死人ごっこなら良いよ」

「死人ごっこ……」


男の頭の中に、寝ている人間の前で適当な言葉を、それらしい念仏のように唱える稚雑なごっこ遊びが思い浮かんだ。

 涙だけは相変わらず止まらなかったが、男の頭の中は、彼女の言った謎の言葉で埋め尽くされた。


「……って?」

「あのね、死人みたいに1日を過ごすの。真っ白いシーツに包まってさ、白い服を着て、何もしないの。トイレとか、水はいるかもしれないけど……それ以外は何もしない。考えごともしない」

「……」

「だって死んだ人は、鳥の鳴き声とか風の音だけを聞いて、穏やかに眠るだけでしょ? 誰にも文句言われずに自己中になっていいんだよ」


男は目を瞬いて涙を落とした後、視線を泳がせてから、まだ整理しきっていない口を開いた。

 

「何もしないでいい日って事?」

「うん……怖い?」

「怖いよ」


息をする様に頭を動かして、常に幾つもの事を考えて生きている男にとって、考える事を止めるのは、酷く怖いことの様に思えた。


「すごく怖い」


 男は言葉を探す。


「でも、君もいるならそれもマシかもしれない」

「じゃあ、必要なものまとめなきゃね」


笑いながら彼女は、ローテーブルに置かれていたメモ帳と付属のペンを手元に引いて、色々と書き出した。話は随分と早く流れる。まだ、何をするのかも、よく分かっていないのに。



——白いシーツ、花、水分、クッション(必要そうなら)、白い服


 ダンゴムシのように丸まった丸文字で、彼女はいろいろ書いていった。



「……白い服なんか持ってたかな、俺。Yシャツはあるけど」

「白いパンツ買ってみたら? オシャレだし、似合うと思うよ。スタイルいいもん」

「そうかな」


 男の涙は止まり、泣き腫らした後の頭痛だけが残っていた。

 鼻をスンッと鳴らし、目元を揉んでからスマホを取り出し、[ズボン 白]と入力して、ネット通販サイトを探す。あまりにも数が多く、そしてどれも微妙に違うので、男は困った様に彼女の膝を叩いた。


「たくさんあるんだけど」

「1個1個見たらいいじゃん。1番上のそれは?」

「ラッパーが履いてそうだなこれ……色違いはケンタウロスみたいだ」

「うーん、スキニーの方が良いかも」

「どれ?」

「ピッタリしてるやつ」

「ああ」


  ピタリと体を寄せて、2人で服を見る。

 その服が死人ごっこの為とはいえ、随分と幸せな空間だった。そもそも、死人ごっこという響き自体が奇妙なものである。


「届くの明日みたいだ」


それなりに気に入った1つを選び、注文完了の文字を見ながら男が言った。

 服をネット注文したのは初めてだった。真っ白なスキニーパンツ。彼女はきっと似合うと言ったが、着こなせる自信はない。だけども彼女の言葉は信じられるから、悪い結果にはならないだろうと思う。


「じゃあ、明後日に死のうね」


 壁にかかるカレンダーを、チラと見上げた後、そう言って笑う彼女の顔を、男は見惚れたように眺めていた。


 今日は金曜日の夜。明後日は日曜日だ。

 2人とも、休日である。



**


次の日の土曜日の夜、仕事の帰り道にふと寄ったスーパーの一角にある、小さな花屋で、男は菊の花を買った。

 真っ白な菊は、明日の為に装飾品を片付けた二人の寝室で、さぞ綺麗に咲くだろうと男は思った。


 

 その花を、日曜日の、太陽もまだ上がりきっていない昼前に寝室に飾ると、想像通り綺麗だった。


「和風になるかと思ったけど、案外マッチしてよかった」

「良いね」


白いシーツに包まれたベットは、余計なものを片付けた部屋の中で、静かに置かれていた。餅のような、白く丸いクッションがその上に2つ。彼女が買ってきたらしかった。

 外の天気は良く、太陽の日差しが窓から差し込んで、部屋を暖めていた。


 鏡に映る全身真っ白の自身の姿を、男は見慣れない様子で見ながら、隈のできた目元を摩った。トレードマークのように、刻み込まれている。


 男の後ろで、彼女がベットに飛び込む音が聞こえた。

 振り向くと、白いワンピースに身を包んだ彼女が、クッションに顔を半分埋めながら、男を手招きしていた。

 招き猫のような動作に笑いながら、男はベットに寄って、恐る恐る座った。


 ベットが軋み、体が傾くのに身を任せ、そのまま倒れ込んだ。

 真新しいサテンのシーツは、少しひんやりとしていて、くすぐったそうに男は笑った。

 

「今日がいい天気で良かった。死ぬには良い日だ」

「雨も雨で良かったと思うよ。雨音って落ち着くじゃん」


囁く様に力なく話す男に笑いかけながら、彼女はシーツを引っ張り、二人の頭上を覆った。

 視界がほんのりと薄暗くなった。


 息を吸い込むと、真っ新なシーツ特有の香りの混じった温かな空気が、体内に流れ込んだ。

 鼻息混じりに彼女が笑う声が聞こえた。

 

 

 目を閉じて、男は周りの音に耳を澄ます。余計な事は考えないように。ただ息をして。自分は今、墓の下で眠る死人なのだと強く思って。

 肉体があると言う事は、これは洋式の墓なのか。と今更ながらふと男は思った。日本式なら、灰になるだけだもんな。



 彼女が呼吸する音がする。なんの鼻詰まりもなく、スムーズに、この空間の酸素を吸ってゆっくりと吐く音が。

 それとは反対に、下手くそな、自分の呼吸する音が聞こえる。時々詰まりながら、精一杯、酸素の薄くなった気のする空気を吸って、震わせながら不慣れに吐く音が。


 自分の心臓が脈打って、体を揺らす。彼女と出会うまで、一人寝る夜にはいっそう男を不安にさせた揺れだった。しかし不思議なことに今はそれが心地よい。相変わらず、地震かと錯覚しかねない程の揺れに感じるのに、揺り籠のような、妙な安心感があった。


 遠くで電車が走る音が聞こえる。

 ここから一番近くの駅に行くにも、車で10分ほどかかるのだが、休日にしてはやけに静かな今日はよく聞こえた。


 同じ体制に痺れを感じた身体を動かして、男はクッションに顔を埋めた。フワフワとした毛の擽ったさに頬を緩めて、深い水の中に落ちる気持ちで、男は意識を研ぎ澄ました。


 こうやって1秒1秒の重さを、心臓の鼓動によって実感させられる時間も、やがて周りと一体化して分からなくなった。

 ただ悠然とながれていく時の中に、心臓の刻む時が加わって、その持ち主である男の意識も同じように加わる。決められた道に沿って、ただ進むだけの乗り物の乗り心地は良かった。



 途中いつの間にか眠り、目を覚ましてからまた外の音を聞く。子供がはしゃぐ声がする。

 シーツの中に差し込む光が赤みを帯びてきた。


 どれだけ時間が経ったのかも分からなくなった頃、喉が渇きを訴え、死んでいた身体が動きたいと声を出すと、男は顔を上にあげた。

 起きていた彼女と目が合い、彼女が言葉もなく笑う。言わんとする事が分かっているようだった。


 そろそろ全身が痛い。棺の下で眠る死人も、きっと、もう少し棺が広かったら……と普段から望んでいるに違いない。


 目配せをして、彼女は勢いよくシーツを払いながら起き上がった。

 一拍遅れて身体を起こした男の肺の中に、冷えた空気が一気に入り込み、身体を循環して冷たさを残していった。


 その冷たさに驚き、跳ねる心臓の鼓動を耳元に聞きながら、男は、窓から差し込む、死ぬ前から色の変わった光を眺めた。

 シーツに潜り込む前は、形容するのも難しいような、強いて言うなら白がふさわしいであろう光だった。それが今では、オレンジ色になっている。キラキラと上品な輝きを、光沢を含みながら、床にオレンジ色の線を描いている。

 


 乾いた唇を舐めて、男はどこか呆然とした様子で彼女の顔を見た。

 ずっと寝転がっていたからか、彼女の髪は少しボサッとしていた。きっと自分もそうなのだろう、と男は思った。


 小首を傾げて、男の口から言葉が漏れるのを待つ彼女に、掠れた声で、途中咳払いを一つして男は言う。


「死人でいるのも、案外楽じゃないね」


 それでも治らずにガラガラのままだった声に、彼女が声を出して笑い、男もつられて笑みを浮かべた。


 


 今日死んだから、もうしばらくは生きていようと思う。

 自身の身体は、まだ動きたがっていると分かったのだから。


 また苦しくなったら、その時はまた死ねば良いのだ。

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