小牧原美心はいただきますが言えない 1

 ――この世界は騒がしすぎる。自然の音、動物の鳴き声、機械の音、人の声。そして人の意見。人一人の声が大きくなりつつある今、この世界はとても騒がしくなった。沢山の価値観、沢山の愛とエゴ。何が正しいとかは考えちゃいけない。みんな自分とは違うモノに耳を塞ぎ、目を閉ざし、知らないふりをして生きていかなくちゃいけない。自分の正義を貫くには、この世界はあまりにも騒がしすぎるから。


 目の前ですすり泣く少年の丸い背中を見て、雪照はこれが夢だと気が付いた。

 動くことも喋ることも出来ず、ただただずっと少年の泣く声に耳を傾ける夢。もう何十回も見たその夢の中で、雪照はじっと、まるで罰を受けるかのように、その少年を見守り続ける。

 すると景色が教室に移った。夕日差す放課後の教室。机を囲む数体の影。その汚い笑顔を見た瞬間、夢の中の雪照を途轍もない嫌悪が襲い、力なく開かれた手のひらを、硬い拳に変えさせたのだった。


「……イってぇ」

 手の痛みに目が覚める。固く握られた右の手のひらには、くっきりと爪の痕が浮かび上がっていた。

 寝ぼけまなこでその痕を眺める。何かとても悲しい夢を見ていた気がするが、思い出せない。もう一度寝れば続きが見れるのかな。なんて二度寝の理由を探すも、それは東雲來華の声によって阻止された。

「いくら何でも寝すぎ」

 その透き通った声に雪照の意識がはっきりする。

 ここは蓋身学園(ふたみがくえん)の相談室。時間は十四時少し前。昼休みが終わり、校庭からは体育の掛け声がうっすらと聞こえてくる。校舎から離れたこの部屋では、その声だけが唯一の雑音だった。

 ソファから体を起こした雪照は、グイっと背筋を伸ばして気持ちよさそうにあくびをする。まだ温かさが残る秋の光が窓から差し込み、午後の気怠さがすうっと抜けていくような、そんな心地よさに浸っていた。

「もう五限か」

「あなた謹慎中の身なのよね? 静かにしてくれるのはありがたいのだけど、流石に授業時間中にソファで爆睡はどうかと思うわ」

「仕方ないだろ、朝からずっと学校中の掃除をさせられたんだから。くったくたで死にそうなの」

「情けないわね。体力のない男子はモテないわよ」

 ツンと言い放った來華。雪照はそんな彼女の方を見る。机の上には数学の教科書とノートが広げられ、手前のタブレットには教室の様子が映し出されていた。

「出席にならないのに隠し撮りで勉強か。素直に尊敬するよ」

「どうもありがとう。でも隠し撮りじゃないし、出席にもなっているわ」

「マジか!?」

 來華は一枚のプリントを取り出して雪照に見せた。

「なにそれ、課題?」

「えぇ。こうやって遠隔で授業を受けて、終わった後にその授業のレポートを提出すれば出席扱いにしてくれるの。あなたもこの生活が長引くようなら、留年する前にやっておいた方がいいと思うわ」

「なるほどね。リモート授業なんて今どきっていえば今どきか」

「まぁ通信教育みたいなものって思えば、昔からあるものだし。こういう事も受け入れられる時代なのよ。動物園で勉強するよりかは、ここの方がよっぽど捗るしね」

「なるほどね……」


「……って、動物園?」

 雪照は首をかしげた。

「動物園でしょ。低能のサルばっかりで、キーキーキーキー耳障りなのよ」

 そう言う彼女の目に冷たい色が浮かぶ。

「大体みんなで一緒に勉強なんて意味が分からないわ。非効率的過ぎる。私とサル共を比べるのは論外だけど、あのサル共にも一応サルなりには優劣があるのに、出来ないサルに合わせて作られたコース料理に一切に不満も疑問も浮かべずに、ブクブクと無駄な時間をたいらげるサル共と一緒に勉強なんてしていたら、こっちまで時間を無駄にしてしまうわ。だから私は選んでここにいるのよ。決してクラスに居づらいとかそういうのじゃなくて、おサルのお仲間になるのが嫌で動物園から抜け出してきたのよ。ええそうよ。教室よりもここの方がよっぽどマシだから私は――」「お、おう……落ち着けって」

 こんなに喋る東雲來華を雪照は初めて見た。分かりやすく目から光をなくし、ぶつぶつと呪詛を吐くがごとく連ねられた言葉からは、強い怨念じみたものが感じられた。

 彼は來華がクラスで浮いてしまっている存在だとは知っていた。父親が国民のほぼ全員から嫌われている有名な政治家で、彼女自身もその影を背負って生きる事を余儀なくされていると。

 まさに彼女は、生まれながらにしての嫌われ者だった。


「こんちゃーす」


 相談室の扉が開くと同時に、その元気な声が部活棟中に響き渡った。声はこの相談室の主、冴島あかねのものだ。

「あれ、二人だけ?」

 冴島はあたりを見まわす。恐らく來華と同じようにこの相談室の常連だった、二年の神原弘彦を探しているのだろう。

「神原先輩なら授業じゃないスか? 五限美術だって言ってましたし」

「あーそうだったか。相変わらずあの子も、自分の好きな事だけには全力ね」

 そう言うと冴島は、一度廊下に顔を出して「おーい」と誰かを呼ぶ。その様子に雪照と來華は怪訝な顔で見合った。しかしお互いにここに来る生徒には心当たりがない。


「……失礼します」


 そう消え入りそうな程小さい声で入ってきた少女は、その存在すらも消え入りそうな程小さい少女だった。

 青みがかった銀色の頭髪が印象的で、華奢な腕と足をもじもじとさせたその姿は、二人に小動物を連想させた。

「紹介しまーす。君らと同じ一年の漆野シノちゃんです」

 ぺこりと、これまた小さく頭を下げる。

「三組のシノです……」

「お、おう。俺は二組の吉祥寺。こっちは東雲」

「勝手に人を紹介しないで」

 漆野は雪照と來華を見つめ、再びぺこりと会釈した。

「さて、あたしは今かから漆野ちゃんとお話しがあるんだけど……そうだなぁ。漆野ちゃんさえ良ければなんだけどね、この二人もお話に混ぜてもらっていいかしら?」

「……私たちもですか?」

 來華がキョトンとした顔で尋ねる。

「そう。どうかな?」

 冴島は背の低いシノの目線に合うようにかがみ、にっこりと笑ってみせた。すると漆野は反射的に視線を横に逸らす。あまり人の目を見るのに慣れていない様子だった。

「私、その、あまり人と話すの、得意じゃないですし……その、内容も……ちょっと変だから……」

「大丈夫。ふふっ、ここにいるのは、私の奴隷とクラスの嫌われ者だけだから、人間って思わなくてもいいし、多分この子たち教室にも戻れないから、話の内容が外に漏れる心配もないわ」

 再び優しい笑顔をつくり、そっと漆野の手をとる。その光景はまさに、相談室に来る生徒を思いやる優しい先生そのものだったが、その背後では、額に怒りマークが浮かび上がりそうな勢いで、小刻みに眉を引き攣らせる雪照と來華の、ただならぬオーラが満ちていた。

「……あの女、教育委員会に突き出してやろうぜ」

「えぇ。私、今人生で初めて他人と意見が合ったわ」

 二人から発せられるオーラを背中で受け止め、シノに隠すように身を乗り出す冴島。

「どうかしら? ね? ね?」

 冴島の圧に漆野はまた視線を逸らす。その様子に、見ていられないとばかりに雪照がため息をついた。

「はぁ……怖がってますよ」

「えぇ!? あぁ、ごめん!」

「い、いえっ。そんな」

 漆野は精一杯首を横に振る。

「っていうか先生。話ってなんなんすか。オレたちが聞く必要あるんですか?」

 雪照がそう言うと、冴島は少し俯いて黙った。ほんのちょっと出来た間の後に、小さく一言口を開く。

「あるよ」

 一言だったが、その「あるよ」には、さっきまでとは違う真剣さが込められているのを、雪照と來華は感じ取った。

「君たちはもう一度ちゃんと人と関わらなくちゃいけない。だから、ある」

「関わるって……別にオレ……」「それに」

 雪照の言葉を冴島が遮った。漆野の手は握ったまま振り向き、二人に笑ってみせる。


「あたしも頼れるの、君たちぐらいしかいないから」


 その声と笑顔に、二人も言葉が詰まった。いつものからかうような冗談なのかと一瞬、ほんの一瞬雪照の脳内をよぎったが、硬く結ばれた唇を見て、また言葉が詰まった。

「あの……」

 漆野の小さい声が聞こえてくる。

 雪照と來華は彼女を見つめ、冴島もゆっくりと視線を戻した。


「私の話……。相談、聞いて欲しいです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る