小牧原美心はいただきますが言えない 2

 ソファーに腰掛けた漆野。机をはさんでその向かいに冴島が座り、少し離れた席に來華が座っている。

「はいどうぞ」

 そう言って、こぼさないようにゆっくりと漆野の前にお茶を置く雪照。そのまま彼女の横に腰を下ろした。

「あ、ありがとうございます」

「いいよ。どうせあの人のついでだから」

 冴島のお茶をすする音が響いた。

「吉祥寺くん、本当に冴島先生の奴隷なんですね……」

「奴隷じゃねぇよ! 生徒だよ! つか早く飲まないと冷めるぞ」

「は、はい」

 漆野は両手で湯飲みを抱え、ゆっくりとその小さい口をつけた。


「さて漆野ちゃん。倒れて保健室に運ばれていた理由、二人にも聞かせてもらえるかな」

「倒れて!? 大丈夫なのかよ」

「う、うん。それは大丈夫。私気が弱くて、小さい頃からびっくりして気を失う事、よくあったから。だからもう慣れっこで……」

「……たぬきなの? この子」

 來華がそうボソッと呟いた。

「校舎の一号館と二号館の間に、使っていない商業棟っていう建物ありますよね」

「あぁ、昔商業科があった時に使ってたっていう」

「そうです。来年度からそこも、文化部系の部室棟として使うことになったらしくて、それまでに美化委員会がお掃除する事になったんです」

「漆野も美化委員なのか」

「はい。お掃除、とても好きなので」

 にっこりと笑ってそう答えた。

「でも、他の人たちは別にお掃除が好きで美化委員になった訳でもないですし、それにあそこ、昔から幽霊が出るなんて噂もあったせいで、誰が掃除をするかで委員会で揉めてしまいまして……」

「まさか、押し付けられたのか?」

 雪照がそう聞くと、彼女は首を横に振った。

「違うんです。私が、一人でやりたいって立候補したんです」

「一人でって……あそこ三階建てだろ……?」

 その言葉に漆野は目の色を変え、身を乗り出して反応する。

「そうなんですっ! 三階建てなんですよ。何年もお掃除してない部屋を沢山、半年がかりでお掃除出来るですよ! お掃除好きとしてはまさにテーマパークみたいなものなんです!」

 隣に座る雪輝にぐいっと顔を近づけ、鼻息荒くそう語る。その剣幕に押されたのか、はたまた急接近した漆野の整った顔と、ふわっと香る女の子の香りに照れたのか、彼女の動きに合わせて雪輝も少し後ずさりした。

「お、おう」

「……アライグマなの? この子」

 またもボソッと呟く來華。

「それで私が引き受けて、今日から始めようとお昼休みに中に入ったんですけど」

 漆野の表情が暗くなる。

「一階の部屋から音が聞こえてきて、なんだろうって思って耳を澄ましてみたら……」

 話の間に雪輝と來華は息をのんだ。


「部屋の中から、お経が聞こえて来たんです……」


 雪輝は難しい顔をする。

「……お経。なんで?」

「知らないですよっ。わ、私そこで倒れちゃって、気づいたら保健室だったんですから」

 漆野は泣きそうな顔で答えた。

「あたしが運んだんだよー。商業棟の前を通ったら鍵開いてるなーって思って、中覗いたら人がぶっ倒れてるんだからびっくりしたよ」

 冴島はそう楽しそうに言って、またお茶をすすった。それを聞いて漆野が問いかける。

「先生はその時、中で何も聞いていないんですよね……?」

「うーん。びっくりしててそれどころじゃなかったけど、静かだったから、お経なんて流れてたら流石に気づくと思うよ」

「そうですよね……じゃあ私が聞いたのって、やっぱり……」

 漆野が頭を抱える。すると隣で雪輝が「……幽霊」と呟き、ただでさえ色白の彼女の顔色を更に青白くさせた。

 その様子に気づいた雪輝は、すぐさまゴメンと謝り、取り繕うように他の可能性の話を始める。

「聞き間違えだったんじゃない?」

「いいえ、それはないです。私絶対に聞きました」

 首を横に振る漆野。すると次は來華が問う。

「誰かの悪戯とか」

「え、ま、まぁ……幽霊よりは現実的ですけど……もしそうだとしたら、私いじめられてるのかなって……あまり考えたくない、かも……です」

 しゅんとしてと表情が暗くなる。

「そもそも、そのお化けが出るって噂はどんななんだ?」

 その問いには冴島が答えた。

「なんかあたしも聞いたことあったよ。昔商業科の生徒に酷いいじめを受けてた子がいたとかで、その子がクラスメイトを全員呪うために、放課後教室でずっと呪いの儀式を行ってたとか。その呪いが現在まで残ってるだっけ」

 その話を聞いて漆野の顔がまた青ざめる。

「……まさか私が聞いたのって、その呪いの儀式の……」

「うーん。とりあえず俺らで見に行ってみようか?」

「俺『ら』?」

 來華の眉がぴくりと動いた。

「え……いいんですか?」

「おう。どうせ暇だしな。東雲もいいよな?」

「なんで私まで。見に行くぐらい一人で十分でしょ。面倒くさいわ」

「そう言わんでさ。なんか楽しそうじゃん」

「……」

「もしかして、怖いのか?」

 そう言うと再び來華の眉がぴくりと動く。

「怖い? 誰が? 私がそんな馬鹿らしい噂話信じてるとでも思うの?」

「じゃあいいよな」

「えぇ、いいわよ。私、確証もない事を人に流布する行為が大嫌いだから、その噂も叩き壊してあげる」

「流石政治家の娘」

「嫌われ者のね」

 静かにそう言い放った。

「というわけだから、今からそこ見てくるよ」

 そう言うと漆野の顔にぱぁっと明るさが戻る。

「ありがとうございます……!」

 深々と頭を下げた。その様子を満足そうに見つめる冴島。

「ね、話してよかったでしょ」

「……もしかしてあんた、最初から俺たちに行かせるつもりで連れてきたのか」

 顔をそらす冴島。雪輝の口からため息が漏れる。


「吉祥寺くん、東雲さん。よろしくお願いします」

 漆野は立ち上がってもう一度頭を下げた。




 商業棟。

 五年前に商業科がなくなってから、ほぼ放置されていたその場所は、蛍光灯すら外されていて、埃の被った暗い場所だった。

 扉を開けて中に入ると、目の前にはすぐ階段があり、左右に教室が一部屋ずつある。一階と二階は同じ構成になっているが、三階だけはワンフロア全てが電算機室と呼ばれる部屋で、コンピューターが置かれていたであろう机の並ぶ、広い部屋になっていた。

 お経を読む声が聞こえたという部屋は、一階の右側の教室との事だ。雪輝と來華は、中に入ってすぐ、その部屋の扉の前に立った。

「……何か聞こえるか?」

「いいえ、何も」

「そうだよなぁ」

「幽霊だなんて所詮くだらない噂話よ。彼女には悪いけど、やっぱり勘違いかいたずらね」

「まぁとりあえず開けるぞ」

 そう言ってドアノブに手をかけようとする雪輝。すると來華は少し慌てたようにその袖をつまむ。

「ちょっと……! 開ける必要あるのかしら?」

「え? いやだって、中見てみないと」

「お経は聞こえてこなかったのだから、もういい気がするのだけど」

「良くはないだろ。ちゃんと何もないよって写真でも撮って、漆野を安心させてあげないと」

「ま、まぁ……そうよね……」

 少し歯切れの悪い感じで応え、袖を握っていた手を恐る恐る放す。

 その後來華は、こっそりと雪輝の背後に身を寄せた。

「……もしかして怖い?」

「さっきも言ったけど、誰が?」

 その口調に揃えて目つきも少しキツイものになり、怒りを込めた足で雪輝のふくらはぎ軽く小突く。

「いたっ」

「いいから開けなさい」

「はいはい」

 再びドアノブに手をかけた。雪輝の背後に周った來華は、彼にばれないように目を軽く閉じて、視線を扉から逸らす。

「……開けるぞ」

「早く」

 雪輝は息をのんで、バンっと勢いよく扉を開いた。


 扉の先には、普通の教室が広がっていた。


「……普通だな」

 そう呟いた雪輝。來華も目をうっすらと開いて、恐る恐る視線を教室内に戻した。

「……普通ね」

 二人はゆっくりと教室内に足を踏み入れた。机は部屋の後ろの方に寄せて並べられ、前方には教壇以外に何もない。窓の外はすぐ隣の校舎の壁になっており、入ってくる光は少ないが、廊下ほどは暗さを感じさせない部屋だった。前から後ろに、ゆっくりと視線を這わすが、特に何も変なところは見当たらなかった。

「思ってたより綺麗な部屋だな」

「そうね」

 教室の中央まで進む二人。

 すると來華は後ろに寄せられた机と、足元を見比べる。

「埃、少し不自然では?」

「え?」

「誰も立ち入らなかった場所にしてはここの床、机の上に比べて埃が少ない」

 雪輝はしゃがんで床を指で撫でる。手には殆ど埃はついていなかった。

「ホントだ。あっちの机は目で見てわかるレベルで埃まみれなのに、床はむしろちょっと綺麗だ」

「つまり――」「つまりこれは人が入った証拠!」

「……セリフを横取りしないでくれるかしら」

 そう言ってまた來華は雪輝の足を軽く蹴った。

「いてっ」

「まぁいいわ。とにかくこれでこの一件は、人為的な出来事である可能性が高くなったわね」

「あぁ、そうだな。だとしたら、余計ほっとけねぇ」

 雪輝の拳にギュッと力がこもる。その様子に來華は目を細めた。

「他の階も見ておきましょ。何か悪戯の仕掛けがあっても可哀想だし」

「そうだな」




 二人は廊下に出て、向かいの部屋に入った。そこは机が後ろに寄せられている事もなく、普通の空き教室といった感じで、溜まっている埃の量も一定で汚い。二階の部屋もそこと同じような状態で、どちらにも人が入った形跡はないと雪輝達は判断した。

 そしてそのまま三階へと向かおうとした階段の途中、前方を歩いていた來華が急に立ち止まる。不思議に思った雪輝だったが、合わせる様に彼も立ち止まり、静かな階段で不思議な静寂が生まれた。

 來華の頭の中では、先ほど雪輝が見せた表情と拳、そして「ほっとけねぇ」という言葉がリフレインしている。ずっとその言葉が気になっていたのだ。

 

「ねぇ」

 振り返ることもせず、呟くかのような声だったが、静かなこの場所ではそれでも充分過ぎるほど響き渡った。

「なんだよ」

「聞きたいことがあるの」

「聞きたいこと?」

「聞きたいこと」

 そう言うと來華はゆっくりと振り返る。

 階段の先にある換気口から薄っすらと差し込む光。ふわっと舞う彼女の髪を後ろから透かし、雪輝からは、空中のチリに反射して一面がキラキラと光って見えた。


「あなたは優しいの?」


「え?」

 唐突な質問内容に素っ頓狂な声をあげる。だがしかし、彼女の表情は一切の曇りもなく真剣なもので、その気迫に雪輝は、質問に対する質問が喉元で詰まった。息も出来ずに返答を探していると、先に口を開いたのはまたしても來華だった。

「あなたが相談室に来た時から、私はずっとあなたを推し測っている。吉祥寺雪輝は優しい人間? それともただ……」


「知らないふりが苦手なだけ?」


 そう問う彼女の瞳には、クラスメイトを見つめていた時と同じ冷たさが宿っていた。冷たくて、でもどこか寂しさも感じられる、そんな深くて暗い青色の瞳。

 その瞳に見つめられ、雪輝は今、東雲來華に自分の心の本質を問われているのだと理解した。

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