知らないふりのアラカルト

TFT

プロローグ

 十月初週。衣替えの移行期間であるこの時期は、ほんの少しだけ学校が特別に見える。夏の間は涼しげな白色で統一されていたクラスが、この期間だけまばらな白黒になるのだ。二週間後には全員冬服を着て、クラスはまた黒色に統一されるのだろうけど、この時期だけは生徒に小さな選択権が与えられる。本当に小さな自由だが、それでも自由は自由だ。


 例えばこの生徒。

 窓際に出来た女子グループの輪の中で、楽しそうに話をしている少女、小牧原美心(こまきはら みこ)はブラウス姿を選択していた。ダボっとしたオーバーサイズのブラウスで、七分の高さに袖をまくり、胸元のボタンを開け、緩めたリボンが涼しげに見える。

 いかにもそのまま夜の街に繰り出して、金払いのいいオジサンとイケないオシゴトをしてそうな見た目だが、それは日本経済の中心地である東京に限った話であって、如何せんここは日本の地理的中心付近。西を見れば伊吹山と養老山に視界を阻まれ、東に向かおうにも木曽川、長良川、揖斐川の三川が邪魔をする。別に田んぼばかりの田舎と言うほどでは無いが、夜の街に繰り出したところで、待っているのは閑静な住宅街と野良猫。そして国道沿いに行きかう車ぐらいだろう。


 次にこの生徒。

 美心のいるクラスカーストのトップグループとは距離を置いた、教室の前の方で存在を押し殺すかのように、静かに本を読む少女、東雲來華(しののめ らいか)。彼女は冬用のワンピースセーラーを選択している。美心とは違い、着崩しのない凛とした姿が印象的で、長い黒髪と相まって、彼女の育ちの良さと気品が漂ってくる。

 しかしその気品とクラスの喧騒はあまりに対極的だった。男子たちの下品な話、女子たちのしょうもない噂話。大人ぶって語る政治家の悪口。その全てが彼女にとって耳障りで、その全てが彼女の読書を阻害していた。

 本を閉じ、來華は静かに立ち上がる。すると教室の視線の一部が彼女に集まった。ぼそぼそと何か話をしている声も聞こえる。來華には途切れ途切れにしか届いていなかったが、何を言われているのかは彼女には簡単に想像がついた。どうせ「よく教室に来れるよな」とか「俺たちの税金で学校に通いやがって」とかだろうと。

 はっきり言った話、東雲來華は嫌われている。

 だがしかしそれは彼女のせいではなく、度重なる増税や、数年前に世界的に大流行した感染症の対策で金を出し渋った『国一番の嫌われ者』である財務大臣、つまり彼女の父親のせいである。

 陰口を言われるのは慣れていた。今も見られている事や、何かを言われている事に気づいてはいたが、気にしないそぶりで廊下に出て行く。しかしその際、扉を閉じるときに教室に向けられた視線には、どこか軽蔑に似た色が込められていた。


 教室から少し離れた場所。一度外に出て中庭を通り、校庭のネット沿いに駐輪場方面に進むと、葉の落ち始めた太い桜の木に囲まれた、プレハブ小屋の部活棟がある。そこの二階の一番奥には、この学校の相談室が置かれていた。この部活棟自体、使用している部活動は多くなく、ほぼ物置となっていて、そんな追いやられた様な場所に相談室が置かれているのは、生徒が人目を気にせずにこっそりと来れるようにという学校側の配慮だった。

 そこに居たのは、目が隠れるほどの鬱陶しい前髪の隙間から、真剣な眼差しでスケッチブックを見つめる少年。神原弘彦(かんばら ひろひこ)だ。

 彼は夏服を着ている。神原がその選択をした理由は単純だった。学ランは袖が分厚い上にボタンが付いているので、絵を描く時に凄く邪魔だったからだ。

 しかし男子の場合は学ランを着たり脱いだりすることが容易のため、神原も学校に一応は学ランを持ってきていた。だが今それ羽織っているのは、同じ部屋で机に突っ伏して、気持ちよさそうに寝息を立てている、相談室教諭の冴島あかねだ。

 神原が寝ている冴島の肩に掛けてやったのか、それとも冴島が神原から奪ったのかは分からないが、彼女の教員らしからないノースリーブニットから伸びた細い腕の柔肌は、神原の学ランによって隠されていた。


 そんな相談室の窓から見える位置で、せっせと落ち葉の掃き掃除をしている少年がいる。

 彼の名は吉祥寺雪照(きちじょうじ ゆきてる)。夏休み明けに起こった暴力事件の加害者であり、謹慎から復帰したばかりの問題児で、この物語の主人公。

 彼には謹慎を解く条件として、奉仕活動と相談室登校が命じられていた。その為校内の掃除をしていることが多く、長い時間外にいる彼は防寒のため学ランを選択していた。動きやすいようにボタンを外しているその制服姿は、どこか一年らしからぬ堂々とした印象があった。

 しかし別に不良生徒というわけではない。成績で言った話では常に学年上位のレベルだったうえに、持ち前の明るさとひょうきんな性格で、事件前はクラスのいじられキャラとして、いつも中心にいるような人物だった。


「テルキチー」


 教室の窓から彼のあだ名を呼ぶ声が響く。

 雪照は声のする方を見上げると、窓越しに美心の手を振っている姿が見えた。


「おーう」

「まだ教室戻れないのー?」

「無理だなー。冴島先生が許可するまで永遠にこの生活よ」

 雪照は少しわざとらしく箒をはいて見せる。

「ふふっ、でも元気そうでよかった」

「全然元気じゃねぇよ。つか冴島先生、人使い荒すぎてマジで毎日くったくたなんだわ。アレやれコレやれって、人を奴隷のように……」

 雪照に命じられた奉仕活動は、その全権が冴島に委ねられていた。つまり雪照が教室に戻れるかどうかも、はたまた自宅謹慎に逆戻りになるのかどうかも、全ては相談室教諭の冴島次第ということだ。彼がぼやいた言葉通り、この期間において吉祥寺雪照は、冴島あかねの奴隷と言っても過言ではないのかもしれない。

「へぇ、冴島先生って優しそうに見えるんだけどなぁ」

「いーや。いやいやいやいやいやいやいやいや。アレは人の皮を被った悪魔だ。綺麗な見た目で人を騙して、いいように操る悪魔なんだ! あともう多分三人くらいは殺ってると思う……」

 顔を真っ青にして箒を握りしめる。するとその頭上からペットボトルが降り注ぎ、雪照の脳天に直撃した。「痛いっ」と声が漏れて一瞬混乱したが、ペットボトルを拾い上げて降ってきた方を見る。人影は見えなかったが、相談室の窓が開いていた。教室の方では、全てを見ていた美心が「あはは」と苦笑いを浮かべている。

「……あの地獄耳」

 雪照はペットボトルを握りつぶして、ゴミ袋に投げ入れた。

「あはは……なんか大変そうなのは分かったかも。でもちゃんと先生の言う事聞いて、早く教室に戻ってきてよね!」

 美心はそう言い、最後に手を振って教室の窓を閉めようとする。しかし雪輝が「待って」と彼女を止めた。

「ん? どうかした?」

「……クラス、どう?」

 雪輝はどこか少し不安げに尋ねる。

「まあまあかな。女子たちは割と普通かも。あと男子でも元々目立たない子たちのグループとか。あの時の事は緘口令も出てるし」

「……そっすか」

「ただまぁ、タケル君たちは……」

「……だよなぁ」

 息が漏れるな声でそう言って天を仰ぐ。

「もう暗いよ! テルキチがいなくなってクラスが静かになっちゃったから、さっきも言ったけど、なるはやで戻ってきてよね!」

 そう叫んでピシャリと窓が閉められた。カーテンに遮られてもう中の様子は見えない。

「……」

 雪照はツンと唇を尖らせる。

 事件が起きてからクラスの雰囲気はあまり良くない。雪照も美心もそれは重々分かっていたし、冴島が自分をクラスに戻さないのも、きっとその為なのだろうと雪照自身察していた。

 早く戻ってきてとは言うが、どんな顔をして戻ればいいんだろうか。

 雪照には、その答えがまだ見当たらなかったのだ。



「ゴミ。一緒に捨てておいてくれるかしら。お掃除屋さん」



 背後から聞こえる澄んだ声。ハッとして振り返ると、そこに居たのは東雲來華だった。教室で読んでいた本を片手に抱え、もう片方の手は、空になった抹茶ミルクの紙パックが、ぎゅっと握られた状態でぶっきらぼうに差し出されていた。

 雪照はため息をつきながら、しぶしぶごみ袋を持って來華に近づく。腰にぶら下げたトングを取り出し、彼女から紙パックをつまみ取った。

「その受け取り方、汚物扱いを受けているみたいで気分が悪いわ」

「いやでもゴミだし……なんかばっちいだろ」

「失礼な。女子高生が口をつけた飲み物なのよ? 然るべきところに持っていけばお金にもなるお宝じゃない。もっとありがたく受け取りなさい」

 あ、これは少し面倒くさい絡みだ。雪照はそう気づいて考えた。早々にこちらが折れようと。

「はいはい。ありがてぇありがてぇ」

 雪照はトングからもう片方の手にパックを持ち替えた。しかしその時、彼の中でちょっとした悪戯心が芽生える。

「ストローはプラスチックゴミだよな」

 そう言って素手でパックからストローを抜き取った。

「……なっ」

 パックの方はそのままゴミ袋に投げ捨て、雪照はまだ湿ったストローを、來華に見せつけるように指で撫でた。

「おーこれがお宝。よしよし、なんだか捨てるのもったいなくなってきたなー」

「馬鹿!」

 來華は顔を真っ赤にしてストローを奪い取り、そのままプラスチック用のゴミ袋の、一番底に力強く押し込んだ。

「ハァハァ……ホント馬鹿」

「照れるならあんな事言うなよな」

 半ば呆れながら雪照がそう言うと、來華はむすっとした顔で取り繕うように腕を組んだ。

「照れる? 誰が? 引いてるのよ」

「顔真っ赤だぞ」

「……」

 來華はプイっと音が聞こえてきそうな勢いで顔を背け、部活棟の階段を登り始めた。

「あなたと話していると疲れるわ。早く相談室から出て行ってちょうだい」

 そう吐き捨てて、コツコツと響く足音は暗い二階へと消えていった。その後ろ姿を眺めながら雪照は、自嘲のため息と共に漏れるように呟く。

「出ていけるなら出ていくよーだ」

 ストローを撫でた雪照の指はまだ湿っていた。十月の風がその指にひんやりとした感覚を届け、どこか落ち着きのない気持ち悪さが残る。その瞬間、自然と拭き取ってしまいたい衝動に駆られたが、雪照は少しの間だけ、なんとなくその衝動に知らないふりをした。

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