ハンカチ

あべせい

ハンカチ


「空いたッ。あそこ、いま出て行くゾ!」

 大型アミューズメントパークの駐車場だ。巨大観覧車や、ジェットコースターをはじめ各種の絶叫マシーンのほか、温泉施設、レストラン、イベント広場などがあり、土日祝日には、多くの客でごったがえす。

 駐車場も8000台収容と広大だが、休日とあって、すでにすべて埋まっている。

 やってきた車のドライバーは、空きができないかと、駐車場の通路でハザードランプを点滅させながら待つこと、すでに20数分。なかなか空きができないでイライラを募らせていたが、それが、いま、左前方、数m先に駐車していた車が、出ようとして静かに動き出した。

「あなた、気を付けて。これ、新車なンだから」

 助手席の妻は、日曜ドライバーの夫の運転が不安なのだ。しかし、新車といっても、軽乗用車で、購入価格は百万円もしない。それでも、3日前に届いたばかりの新車には違いない。座席シートには、まだ透明のポリカバーがかかっている。

 ハンドルを握るのは、小さな信用金庫に勤める夫、琴波伸示(ことなみしんじ)35才、助手席には妻、陽子(ようこ)33才、後部座席には5才の息子、伸徳(のぶのり)が乗っている。伸示と陽子は、結婚生活7年目に入った。

「やれやれだな……」

 左斜め前の国産高級車が動き出し、そのウインカーが示す通り、伸示たちの車の方に向かってくる。

 しかし、伸示がそう言った瞬間、

「アッ!」

 と、妻が叫んだ。

 真っ赤なアウディが、たったいま空いた駐車スペースに、バックで、1度もハンドルを切り返さずにスルリと収まったのだ。時間にすると、わずか1秒ほどの素早さだった。アウディのドライバーがあざやかというほかない。

「あなた、文句を言いなさいよ。うちのほうが早くから待っているンよ」

「そッ、そりゃ、そうだ」

 伸示は、勢いよくドアを開けて車から降りた。

 と、アウディを運転してきたドライバーが、何事もなかったように運転席から降りて来た。

 なンと、女性だ。しかも、若い、スタイルもいい。真っ赤なキャップを目深に被り、真っ黒なサングラスを掛けているため、器量のよしあしははっきりしないが、スタイルのよさからして、伸示は美形だと勝手に判断した。

 女性は、向かってくる伸示を見て立ち止まり、何事か、と彼を見つめる。

 伸示は、目の前に立ちはだかるようにしている彼女を見て、二の足を踏んだ。

「どうかなさいました?」

 どうかなさいました、ダ! だが、キミのようにイイ女に、暴言は吐きたくない。

 伸示は、妻が背後から監視しているのを感じながら、もう一歩、前に進んだ。

 すると、サングラスの女性は、不安そうに、一歩下がる。

「あなた、いまここに車を駐められましたよね」

 伸示は、若い女性に弱い。職場でも、若い女性には、どんなに不機嫌な時でも、ヘラヘラと、つい笑顔で接してしまう。いまも、ヘラヘラと頬をゆるませている。

「それが何か……」

 女性は、全く心当たりがないといった風に、戸惑っている。

「ぼくの車は、30分も前から、空きが出来ないかと、ここでハザードを点けて待っていたンです」

「そうですか……」

 まだ、伸示の意思が相手には伝わっていないようだ。

「あなた、まだ、わかっておられない」

「はァ?……」

 女性は、ますます怪訝な表情になる。

「私は……」

 と言いかけて、伸示は、

「ぼ、ぼくは……」と、言い直し、

「いま、あなたが止めた場所に、車を駐めようとして、ずーっと待っていたンです」

「本当ですか」

 女性は信じられないといった顔付きをした。

「本当です。疑われるのですか?」

 伸示は、自分でも、何か別世界に入っていくような予感を覚えた。

「だって、こんなに広い駐車場ですよ。サッカー場が2つ出来るって、聞いています」

 サッカーが出来ようが、ラクビーが出来ようが、そんなことは関係ない。車を駐める空きスペースがなければ、意味がない。

 彼女の車をどかせるにはどうすればいいのか。伸示は、いい知恵が浮かばない自分に苛立った。

「お嬢さん、イ、いや……」

 女性は見た目、20代後半だが、こんなとき、こんな場所で、お嬢さんと呼びかけるのはおかしい。伸示は、後ろで助手席の窓を開けて伸示を見つめる妻を意識して、言い換える必要を強く感じた。

「いや、あなたね、物事には、順序というものがあるでしょ」

「はい……」

「そのサングラス、外していただけませんか」

 話しづらいのは、どうも、相手の視線がわからないせいなのだ。伸示はそう気がついた。

 しかし、同時に伸示は考えた。何が順序だ。おれも、何が何だか、わからなくなっている。こんなところで時間を食っている男、って何だろう。

「すいません。気がつかなくて……」

 と言いながら、彼女は黒いサングラスを外し、同時に赤いキャップも脱いだ。すると、その下から、長い髪が現れ、左右に分かれて肩まで垂れた。

 伸示は、ドキッと胸が高鳴るのを覚える。まるで、ハタチの小僧の心理状態だ。

 女性は、脚にぴったりのジーンズを履き、体のラインが際立つセーターを着ている。それだけでも、伸示には刺激的だが、予想以上の美形……正しく言うのなら、伸示好みの容貌をしている。言い換えれば、妻の陽子に似た器量なのだ。もっとも、陽子は目の前の美女より、少し年を食っているが……。

「だから、ぼくの家族の車が先にここに来て、空くのを待っていたわけです」

「そうだったンですか」

 彼女にもようやく、伸示の言いたいことが伝わったようだ。が、そのとき、背後でドアが開き、強く閉じる音がした。

 陽子がしびれを切らして、助手席から降りて来た。

 伸示は焦る。陽子は、一度キレると手に負えない。

「アナタッ、そこ、そこよ。空くじゃないの!」

 伸示は、想定外の妻のことばに驚いて周りを見た。

 見ると、美女が駐めた真向かいの駐車スペースにあった車が動き出している。

 さらに、5mほど前方には、伸示の車と同じくハザードを点滅させて待機している車がある。同じ駐車スペースを狙っているのだ。

 突然、クラクションがけたたましく鳴った。陽子が運転席に手を伸ばし、待機している車に警告した。陽子はすかさず運転席に乗り込むや、左にわずかに幅寄せして、出ていく車をやり過ごし、左にハンドルを切った。さらに、素早くギヤをバックに入れると、一発で空いたばかりの駐車スペースに、軽を入れた。

 この間、わずか2秒。陽子は学生時代、F1ドライバーを目指し、サーキット同好会に所属していたが、飲酒運転で免許を取り上げられて以来、10数年、ハンドルを握っていない、はず……。

 しかし、いまのハンドル捌きを見る限り、伸示が出張などで家を留守にしている間、車を乗りまわしているとみて、まず間違いない。

 伸示は驚いて、陽子のそばに駆け寄った。

「おまえ、無免許だろうッ」

「なに言ってンの。ここは公道じゃないから、道交法は関係ないの」

「そうか。しかし、久しぶりにしては、うまいじゃないか」

「あんたがヘボすぎるのよ。こんなちっこい軽で、モタモタ運転しているから、先に入れられてしまうの。さァ、伸徳、行くわよ。早く降りて」

「ウン」

 息子は、母親が運転できることを初めて知ったらしく、尊敬の眼差しで見つめている。

 伸示は、美形の女性を振り返ったが、すでにその姿はない。いつの間に。どこかに行ったのだろうか。伸示の関心は、彼女の行方に移っていた。

 2時間後。

 伸示の一家はフードコートで昼食を終え、陽子は伸徳を連れ、輸入雑貨の店に行くと言って、いなくなった。

 伸示は仕方なく、休日にはイベントが行われる、児童公園ほどのスペースのイベント広場に行き、中央の舞台を取り囲むように並ぶベンチの1つに腰掛けた。

 そのイベント会場には、テレビで放送中の戦隊シリーズ「特命戦隊ゴニンジャー」の実演ショーが行われるとポスターにあったが、この日2回目になるその時刻までは、まだ2時間以上ある。

 小春日和というのか、ぽかぽかとした陽気で、伸示は持参した雑誌を広げていたが、ついうとうとした。

「はッ、ハイッ」

 伸示はハッとして目を覚ました。肩をポンポンと叩かれたような気がしたからだ。

 目を上げると、目の前に、アマューズメントパークのスタッフユニホームを着た女性が立っている。紺と白のツートンカラーで、上がブラウスにベスト、下がタイトスカートだ。

「お客さま。失礼ですが、こちらはお子さまの席になっています。あちらのほうにお移りいただけますか?」

「すいません。つい、うっかりして……」

 伸示はそう言って、女性を見上げ、腰を浮かしかけた。

「あなたは……さきほどの……」

「はァ?」

 伸示の問い掛けに、女性は不思議そうな反応をする。

「あさ、駐車場で。ここにお勤めだったのですか?」

 しかし、女性の反応は鈍い。伸示のことなど、遠い過去のことのように忘れている。

 彼女の首からITカードが下がっている。名前を見ると、かなで「くにたち」とある。聞いた名前のようだが、思い出せない。

 伸示は返事をしてもらえないのも仕方ないと思い直し、彼女が示すベンチの方に歩きだした。

 すると、

「お客さまッ」

「エッ?」

 伸示は、背後から声をかけられ、振り返る。

 さきほどの美女が、その広場に設置されている、舞台から最も遠いベンチを指差している。

 そのベンチを見て、伸示は日曜日の今日、このアミューズメントパークを選んだ理由を思い出した。

 ベンチには、年配のカップルが腰掛け、伸示を見て、手を振っている。

 伸示の顧客のひとり、州舘夫妻だ。

 伸示は、以前夫妻に、このアミューズメントパークの無料招待券を贈っていた。

 伸示の勤務する信金では、定期預金の預け入れと年金の振り込み先指定の2つを併せ、先月の2週間、キャンペーンを展開した。定期預金30万円以上か、あるいは年金の振り込み先に指定してくださったお客さまに、このアミューズメントパークで1家族4名まで使用出来る、3種の乗り物券付き無料入場券をプレゼントしていた。

 その使用期限が、この日だった。

 伸示は自家用に、会社には内緒で1枚くすねて持っていたため、この日妻と息子を連れてきた。

 伸示はキャンペーンの最終日に、州舘夫妻に対して、手元に1枚だけ残っていた無料招待券を、無駄にするよりはと思いプレゼントしていた。

「こちらのご夫妻が、あなたをお呼びでしたので……」

 そのベンチまで案内してくれた女性はそう言って立ち去った。

 伸示は、その女性の後ろ姿を見て、

「どこかで会ったような……」

 と突然、そんな気がした。

 すると、目の前のベンチの夫妻が、何気なく、そして当然のように、

「わたしたちの娘の杜依(もりえ)です。不束者ですが……」

 と、意外なことを言った。

 エッ、伸示は声にこそ出さなかったが、あんな美女をオレが忘れるわけがない。懸命に記憶を辿る。が、思い出せない。

「琴波さん、我が家に営業で来られた時、娘のほうはあなたを拝見しています。恐らく、出かける間際で、すれ違われたのでしょうが……」

 そういえば、10日前、伸示が州舘家にキャンペーンの営業で訪問したとき、玄関で足早に出て行った女性がいた。さきほどの駐車場でのときのように、赤いキャップを目深に被って……。しかし、伸示は、そのとき、その人物が、女性とは思わなかった。

「娘の話では、駐車場の入り口であなたをお見かけして、あなたに対して、わたしたちにお礼の挨拶をさせなきゃと思い、あなたの車の後について行ったそうです」

 夫人がそう言った。

「そうだったのですか。ぶしつけですが、杜依さんは、こちらにお勤めですか?」

「ふだんは開発中の車のテストドライバーをしているのですが、常時仕事があるわけではないので、ときどきこちらで、仕事をさせていただいていると申しております」

 と、夫が言った。

 テストドライバーか。道理で、運転がうまいわけだ。家内の陽子より、はるかに腕はいいだろう。

 伸示は、ようやく合点がいった。

「きょうは、杜依さんのお勧めで来られたのですか?」

「一度、娘の仕事ぶりを見ておくのも、いいかなと家内と相談して、娘の車に乗せてもらってやってきました」

 と、夫が言う。

 杜依は駐車場に入る前に、両親を先に下ろしてから、仕事の打ち合わせをすませ、伸示の車が空きを待っていた駐車場に、たまたま入って来た。それだけの話なのだ。

「娘とは、いつも伸示さんの噂をしています。仕事熱心で、親切で、丁寧だ、と。でも、すてきな奥さんがおられる、と……」

 彼女が駐車場で、伸示に対して親しげな表情を見せなかったのは、陽子の姿が見えたからなのだろう。伸示はそう考えた。

 しかし、夫妻のことばは、伸示にとって、例え社交辞令としても、悪い気持ちはしない。

「お嬢さんはお独りなのですか?」

「もうすぐ、30才だというのに。早く、いってもらわないと困るのですが……」

 母親としては当然だろう。

「ここでは、冷えますから、どこかでコーヒーでもいただきながら、お話させてください」

 伸示は、そう言って先に席を立った。州舘夫妻も釣られるようにして席を立つ。


 10数分後。

 伸示は、州舘夫妻と、喫茶店のテーブル席で向かい合っていた。

 この施設には、喫茶専門店が3店舗ある。3人がいる店は、料金は少し張るが、テーブルの間隔が広く、ゆったりと寛ぐことができる。

 それから、5分ほどして、

「琴波さん、失礼します」

 と、すぐそばで声がした。

 さきほどの女性、夫妻の愛娘、杜依だ。ユニホームではなく、全身真っ赤なボディスーツを着ている。スリムな体のラインが強調されていて、まぶしいほどだ。スーツの胸ポケットから、紅いハンカチが覗いている。

 伸示はハッとした。彼女の装いは、こどもの頃、よく見た、色は異なるが戦隊もののテレビシリーズに登場するヒーローのスーツにそっくりだ。足はブーツで、これも勿論真っ赤。そして、右手に抱えるようにして、フルフェィスのマスクを持っている。 

 そうかッ。伸示が、それと気がつくより早く、夫妻の妻が、

「娘は今日、急に、こちらのイベント会場でこれから行われる戦隊ショーの赤ニンジャーをやることになったそうで、わたしたちはそのようすを見るためにも、こうしてやってきたわけです」

 と、話す。

「赤ニンジャーの方が、急な病で来られなくなって、体を動かす仕事をしているわたしに、ピンチヒッターをやって欲しいと依頼があって。琴波さん、ご覧いただけますか。あと15分ほどで始まります」

「そうですか。戦隊ショーなら、うちの息子も大好きだから、きっと喜びます。サインをしていただければ、もう有頂天になるはずです」

 伸示は、杜依の姿に、すっかり魅入られてしまった。こんな女性と一度でいいから……。

「でも、この特殊マスクを被りますから、顔はわかりませんよ」

 と、杜依は、手に持っている特殊マスクを示して笑った。その笑顔の愛くるしさは、年齢を感じさせない。

 杜依が先に席を外し、伸示は州舘夫妻と一緒にイベント会場に行った。

 と、妻の陽子と息子の伸徳が最前列のベンチに腰掛けていて、伸示に手を振る。しかし、その近辺には空席がなかったため、3人は一番後ろの席に座った。

 それから小一時間、赤、白、黄、青、緑のゴニンジャーが、黒尽くめの悪役と戦うアクションショーが演じられ、集まったこどもたちを喜ばせた。

 ショー終了後は、お決まりのサイン会だ。赤、白、黄、青、緑の、5名の特殊マスクを着けたゴニンジャーの前に、こどもたちが長い行列を作った。買ったばかりの戦隊シリーズのDVDのジャケットに、サインをしてもらうことになっている。

 DVDは、ショーを主催する映画会社のスタッフが、ショー終了前から、舞台の袖に机を出して、積み上げていたものだ。

 伸示は息子の手をひいて、赤ニンジャーの列に並んだ。

 その少し前に、伸示と陽子の間で、こんなやりとりがあった。

「あなた、DVDを買うつもり?」

「そうしないと、サインはしてもらえない。伸徳が可哀相だろう」

「でも、テレビで放映したものは、うちのDVDに全部収録してあるのよ。無駄だと思わないの。1枚3千円もするのよ」

「しかし、それを売るために、彼らはショーを見せているンだよ。向こうだって、商売だ」

「あなたは、顔が広いンだから、赤ニンジャーのひとにお願いしたら。あなたのお知り合いでしょ?」

「おまえ、どうして……知っているンだ」

「あなた、さっき、あんなに高いコーヒーをだれと飲んでいたの? 1杯8百円もするコーヒーよ」

「おまえ、見ていたのか」

「わたしたちだって、ノドが乾いたもの。お茶くらい、飲むわよ」

 こうして、伸示は妻に急かされるようにして、赤ニンジャーの列に、家から持参したレーザーガンを持つ伸徳と一緒に並んだ。

 伸徳の番が来た。伸徳の後ろには、伸示が並んでいる。手には白いハンカチを持って。

 赤ニンジャーの杜依は、特殊マスクを被ったままの姿で、伸徳に対し、

「いらっしゃい。わたしのこと、知っている?」

 と話しかける。伸徳はウンウンと頷く。

 杜依は、伸徳が手にしている、ゴニンジャーの武器であるレーザーガンを、

「貸してみて……」

 と言って受け取り、そのボディにすらすらとペンを走らせた。

 続いて、伸示がサインをもらうためにハンカチを取り出そうとすると、

 杜依は、胸ポケットから紅いハンカチをサッと抜き取って、伸示の手に握らせた。そして、

「お父さま、汗が出ています。どうぞ、これで拭いてください。きょうは来てくださって、ありがとうございます」

 と言って、頭を下げた。

 伸示は訳もわからず、その列を離れた。

 杜依から握らせられたハンカチを開くと、そこに、赤ニンジャーのイラストと、電話番号らしき数字が描いてある。

 伸示は急に心臓がパクパクした。これは、彼女の電話番号ダッ! 伸示は素早く、そのハンカチをジャケットの内ポケットに隠した。

「あなた、うまくいったでしょ」

 陽子だ。彼女は、伸示の秘めやかな喜びに、気がついていないようす。


 家路に向かう車中で、伸示はつい頬がゆるみ、思い出し笑いをしている。

 助手席の陽子が、そんな夫を見て、不思議そうな顔をする。伸示は慌てて、後ろの息子に向かって言った。

「伸徳、よかったな。あんなきれいなお姉さんに、サインをしてもらって」

「あのお姉さん、キレイなひとなの?」

 伸徳は、特殊マスクを脱いだ杜依の素顔を知らない。

「特別なマスクで顔を隠しているからな。父さんだって、本当のところは知らないけれど、きっとキレイに決まっている。なにせ、赤ニンジャーなンだからな」

「あなた、なンだか、自信たっぷりね。彼女と話したことがあるみたい。そうだ。あなた、ハンカチにサインしてもらうとき、何か話したでしょ」

「いや、あのサインは……」

「危ないッ! ちゃんと前を見て!」

 伸示は慌てて、ハンドルを握り直す。しかし、周りを走っている車はない。陽子の悪ふざけだ。

「サイン、もらったンでしょ。真っ白なハンカチを売店で買ったのは知っているンだから」

 シマッタ! 列に並んでいるとき、伸示はこっそり列を抜けだし、すぐ近くの売店に走った。妻に、まずいところを見られたらしい。

「あれは、使い古しのハンカチを差し出すのは失礼だと思ったからだ」

「まァ、いいわ。夫の浮気心を治す特効薬はないと何かの本に書いてあったから。あなたも、その部類ね」

「部類とはナンだ。おれは、おまえひとすじだ」

 と言いながら、伸示は内ポケットの紅いハンカチを、ジャケットの上からそっと押さえた。その感触は得もいえぬ快感をもたらしてくれた。

「どうだか。わたしは、紅いハンカチは持っていないから」

 陽子はそう言って、伸示の太股を、これ以上はないという強さでツネッた。

「痛いッ!」

「それが、特効薬よ」

 陽子は伸示のジャケットの内ポケットから紅いハンカチを素早く抜き取ると、車の窓を細めに開き、そのすき間からハンカチをひらひらとなびかせた。

「オイ、そんなことをしたら、ハンカチが風で飛んでしまうじゃないか!」

 伸示は懸命にやめさせようとする。

「飛んだら、困るの?」

 困る。連絡先がわからなくなる。もう2度と、2度と会えない。

「ほかの車の視界の妨げになるだろう。道交法違反だゾ」

「立派なこと言って。このハンカチ、何か描いてあるわ。赤ニンジャーのイラストと何かの数字みたい……」

 伸示は、無言を通そうと考えた。ここはヘタにいじると、大ケガのもとだ。

「このまま飛ばしてもいい?」

「待てッ!」

 伸示が手を伸ばしかけた瞬間、クラクションがして、伸示たちの車の左側に真っ赤なアウディが併走してきた。

「アッ!」

 杜依だ。杜依は窓からさっと手を出し、紅いハンカチを毟り取るように引っ手繰ると、そのまま猛スピードで走り去った。

 アウディの後部座席には、州舘夫妻の後ろ姿があった。

 どういうことだ。

「あなた、あのハンカチは、5百円で買える戦隊グッズの1つよ。知らなかったの? 電話番号だって、テレビ制作会社のもの。あなたは、あの女性のプライベートの電話番号と勘違いしたでしょ」

 伸示は、妻のカンのよさに、改めて恐怖した。

「そういうこと。それに、わたし、彼女にこっそり注意したの。ひとのものに手を出すなッ、て。だから、取り戻しにきただけよ」

 伸示は何も言えず、勝ち誇った妻の横顔を見た。

 しかし、だ。よくよく考えてみると、例え電話番号がわからなくても、会おうと思えば、あのアマューズメントパークに行けばいい。

 片想いでいいじゃないか。ほんの少しの遊び心だ。妻帯者に贅沢は言えない。そう思うと、伸示は心からの安らぎを覚えた。

                     (了)

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ハンカチ あべせい @abesei

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