4

 気が付いたら、俊は真っ暗闇の中にいた。

 目玉が泥の中に沈んだように、わずかな光も捉えない。

 手足はもちろん、あらゆる触覚が失われたような、心もとない感覚。

 ふと、先程まで感じていた美矢の手を思い出す。自分を労わりながら、肩に添えられた掌の感触。


 思い出した瞬間、感触は形を取り、瞬く間にすべての触覚を取りもどす。


「俊?」

 

 同時に、他の感覚も戻ってきたらしい。気遣うような、けれど不安の色を帯びた声が、俊の耳に届く。

 闇は薄くなり、美矢の姿が目に映る。けれど、他には何も見えない。


「美矢」


 俊は名前を呼びながら、夢中で愛しい少女の身体を引き寄せた。

 美矢は驚く様子もなく、当然というようにその胸に顔をうずめる。


 美矢を強く抱きしめると、五感はますます研ぎ澄まされる。

 するとぼんやりした光が目に映る。意識すると、どんどん近付き、それに従って輝きが増す。


「健太?!」


 その光の向こうに、姿は見えないが、健太の……ムルガンの気配を感じる。

 その影から立ち上る苦悶の色を、俊は肌で感じ取った。

 

「健太!!」


 その名を強く呼ばわると、突如世界がひらける。


「……高天君!? 美矢ちゃん?」

 真実の驚愕の声が響く。

 その声の方向を見ると、真実と固く抱き合う健太の姿が目に映った。真っ青な顔で、真実を抱きしめるというより、しがみつくような健太の姿に、俊は憤りを感じる。

 今にも倒れそうなほど息も絶え絶えで、放っておけば閉じてしまいそうな半ば閉じた瞼が、俊の姿を認めて、ほんの僅か開かれる。

 その瞳に一瞬安堵の光が宿り、次の瞬間、その身が崩れ落ちた。


「健太?!」


 真実が悲鳴を上げながらその名を呼ぶ。

 俊と美矢もはじかれるようにして走り寄り、健太に取りすがる真実をなだめて、その身を仰向けにする。俊が健太の口元に顔を近付けて息を確かめる。


「呼吸は大丈夫そうだ。でも、顔色がこんなに……」

「さっき、一度心臓が止まって……斎君が、心臓マッサージをしてくれて……息を吹き返して……」

 健太と遜色ないほど青ざめて、真実は状況を伝えた。その声は酷く震え、真実の目から涙が溢れ出る。


「斎が?」


 その存在を思い出したかのように俊は周りを見回し、かすかに口の端を上げて意地の悪い笑みを浮かべていた斎と、その隣に佇む美しい青年を見つけた。


「アキラ=ケネス?」

「初めまして、なのかな? シュン、と呼んでいいかな? それとも……シヴァ?」

 英人によく似た面差しに歪んだ笑みが浮かぶ。


「斎、お前、いったい何をしたんだ? 健太がこんな風になるまで、いったい……」


 イギリスまで転移したことで疲弊していることは予測していたが、すでに1日経っている。それに、健太の苦痛を感じたのは、つい先ほどだ。真実が到着してから、何かが起きたのだと俊は察した。


「ああ、ちょっとに手を出したら、怒らせちゃってさ」

 のほほんと斎は答えて、真実に流し目を送る。

 真実が怒りとも羞恥ともつかない表情で顔を赤らめ、襟元を拳で握りしめる。

「何てこと!」

 美矢が声を荒げて、斎の視線から真実をかばうように前に立つ。

 斎の『真実』という馴れ馴れしい呼び方と、『手を出した』という言葉の意味を考えて、俊は怒りで目の前が赤く染まる。

 

「健太を怒らせて、どうしようって言うんだ?」

「別に今日は怒らせたかったわけじゃないんだけど。真実が欲しかっただけなんだけどなあ」

「勝手なこと言わないで!! もう健太はいらないって! もう危険な状態になっても助けないって、そう言ったくせに!! なんでそんな風に変わっちゃったのよ?!」

「変わってないよ? 僕は欲しいと思ったら、手に入れるだけ。今は、真実、君が欲しいだけだよ」

「何でよ? 私じゃなくたって、他にももっときれいな子もいるじゃない? 斎君を好きだっていう人だって」

「他の誰かじゃなくて、君がいいんだよ、僕は」


 傍で聴いていれば、顔を赤らめたくなるような真摯な告白。

 けれど、そのために健太の命をないがしろにするような、力任せの手段を選ばない態度は、看過できない。


「やっていいことと悪いことがあるだろう?! 森本さんや健太の気持ちを考えて……」

「それって、想う相手を難なく手に入れたから言えるんじゃないのかい? 例えば正彦君が美矢ちゃんを好きだって言って、美矢ちゃんもそれに応えたら? ……もっとも君は、案外簡単に身を引いちゃうかも、だけどね」

「……」


 俊は答えられなかった。美矢が他の誰かを好きになることなんて、想像もしたくなかった。素直に身を引けるか、と問われて即答できない、いや美矢を手放すことなんて、できやしない。

「ほら、君だって、本音では、そんなきれいごと言えないだろう?」

 俊の迷いを見透かしたように、斎は「ふん」と鼻を鳴らす。

「……だとしても、こんなやり方は、卑怯だ」

「だってしょうがないじゃん。僕にはそれだけの力があるんだから。自分の持てるものを使って、最大限の努力をしているんだ。それをどうこう言われる筋合いはないね」

「自分の? 巽を脅して、森本さんを無理やりこんな遠くまで呼び出して!」

「うん。それが僕の力。誰かを無理やり動かすことだって、立派に僕の能力だろう? 権力ってやつさ。そうまでして、僕の無理難題叶えてまで、唐沢宗家にいて欲しいって言うんだから。感情に任せて生命の危機に瀕するほど消耗するような力の使い方をしなくったって、人の力だけでどうにでもなることは沢山あるんだよ」


 元々冷たく見えがちな瞳に今は怒りの炎を宿した俊だったが、それに臆することもなく、むしろ面白そうに目を細めて斎はにやりと笑う。


「正直、健太のような力の使い方をしていたら、早晩命は尽きるよ。主神シヴァ神の愛息子にして、かの雷霆神インドラから軍神の地位を譲り受けたムルガン……スカンダ。ハッ、笑えるね。現世では何の役にも立たない。強すぎる神力と永遠の生命が仇になって、自分達が選んだ依代を逆に危険にさらすだなんて、笑えるね。悔しかったら、愛しい息子とその恋人くらい、守って見せたらどうなんだい? ねえ? 偉大なるトリムルティ筆頭の最高神、シヴァ?」

「く……」

 いまだに自分の力もよく分からない、制御もできない俊は、言葉を継げない。

 むしろ、他者を傷つけかねない力なんて、使いたくないというのが本心だ。


「悔しかった神を下ろして、みんなを守れば? でも君は和矢や健太に守ってもらうのが似合いの臆病者だからね」

「俺は……誰かを傷つけるようなことは、したくない!」


 臆病と言われても、それだけは譲りたくなかった。


「……本当に、きれいごとだな。シュン・タカマ、いや、シヴァ」


斎にまっすぐな眼差しを向けて言い切る俊に、横から別の声がかかる。


 どこか英人に似た甘めのテノールボイスは、嘲るように笑みを含んでいた。


「そんなことを言いながら、君はトキムネに何をした? この春のことだって、君の力だろう? 建物を破壊するほどの爆発力をカナに与えて。それに、去年の夏だって……自分が何をしたか、覚えていないのかい?」

「去年の……それは……」

 アキラに問われて、俊は言い淀む。実際に覚えていない。だが、その『何か』によって、須賀野時宗は心を病み、失踪した。

 それだけの『何か』が、須賀野の身に起きたのだ。


「君はね、トキムネの体中を引き裂いて、傷つけたんだってよ。僕の組織が彼を保護した時は、出血こそわずかだったけれど、数えきれないほどの傷だったそうだよ。まだ、体中にその傷はある。シヴァに宿る暴風神ルドラの力なのかな? 昔もそんなことをしたんだって? 結局、自分の身が危うくなれば、君だって他人を傷つけることを厭わないんじゃないか? ねえ? シュン・タカマ?」


 衝撃の事実を告げられ、俊は気が遠くなる。それは最も恐れていたことだった。

「そんなこと、当たり前じゃない! 俊は、抵抗しただけよ。俊だって、あの時は傷だらけだった。そこまで俊を追い詰めるほど、傷つけたのは誰よ?! 自業自得でしょう?!」

 ショックを隠せない俊をかばうように、美矢が叫んだ。


「まあ、それもそうか。自業自得、か。便利な言葉だね。そうやって超然として、自分に振りかかる火の粉はサッサと振り払って、あとは当事者任せで。まさにシヴァの依代にふさわしい身勝手さだよ」


 棘のある言葉を吐いて、アキラは俊に侮蔑の視線を送る。


「……黙れ。我が君に無礼は許さぬ」

「それが、どうした?」


 突然、美矢と俊の纏う空気が変わった。


「人間ごときが、我が生神クマリを支配しようなど、思い上がりも甚だしい。身のほどを知れ」


 俊と美矢を、ぼんやりした蒼白い靄が包む。

 二人から発せられる、圧倒的な重力に、真実は体が押しつぶされそうな錯覚に陥る。


 それは、威圧感、なんて言葉では言い表せない、身を刺すような存在感で。


 畏怖、という言葉が、真実の脳裏に浮かんだ。目を合わせることも畏れ多くて、体が竦む。


「このような些末事で我がクマリが愛する者を失うのは不快だ。これ以上の無礼は許さぬ。それが、お前であっても。ヤクシャの王にしてブラフマーの愛し児、永遠とわの命を拒んだ反逆神よ。そこなるアスラの王と共に、ね!」


 蒼白い靄は、俊と美矢だけでなく、健太と真実の身も包みだす。


 やがて。


「……去ね、って言っておいて、自分から消えるとか、笑える」


 一応は笑顔を浮かべているが、斎の背中は冷や汗でびっしょりだった。

 圧倒的な神威。今は人間のその身で受けるには、余りにも強烈な力。


「……よく笑えるな。だが、これではっきりした。君は間違いなく、クベーラなんだね」

 こちらはやや青ざめて、それでも何とか気をなだめて、何度も深く息をする。


 トリムルティの一柱にして、宇宙創造神ブラフマー。その血を受け継ぐヤクシャ族の王、クベーラ。


 俊に降臨したシヴァ神がそう呼ばわったのだ。もはや、疑う余地はない。

「まあね。そして、君も、やっぱり、アスラの王、ラーフなんだね。……ああ、さすがはシヴァ神だな。正彦君も、しっかり連れて行ったみたいだ」


 カチャリ、と巽がドアを開けて入ってくる前に、斎はそう悟った。


「……はい。申し訳ありません」

 報告前に当てられて、巽は素直に頭を下げる。


「まあ、仕方ないさ。片方は瀕死とは言え、眷属神二柱も連れた最高神に敵うべくもない。親子とは言え、いたずらに依代の生命力を浪費するような無茶をするムルガンとは、やっぱり格が違うよ」


 その目に喜色を浮かべる斎。それは、もはや狂喜、と言ってもよい、酷く楽し気な笑顔で。


「じゃあ、巽も戻りなよ。ああ、引き続き護衛はしてね。本営に戻った和矢はともかく、遠野美矢と、弓子も変わらず」

「敵対するんじゃなかったのか?」

「誰が? 数少ない貴重な駒だよ。みすみす失うような真似、しないよ」


 飄々と斎は答え、「大事なおもちゃだしね」と付け加える。


「かしこまりました」


 非道な物言いにも臆せず、巽は承知すると、部屋から辞す。

 正規の手続きを踏まずに帰国した形になる正彦と真実の処遇も操作が必要になる。相変わらず、迅速な対応だと、斎は弟ながら感心する。


「それで、君はどうするんだい? ムルガン獲得に失敗したことを報告する?」

「相手が悪い。それに、成果はあった。納得させるさ。……ようこそ、『時計塔の地階』へ。財宝神にして軍神、クベーラ。我らがヘルメス=トリスメギストスよ」


 恭しくこうべを垂れる晃=ケネス・香月に、斎は泰然と微笑み、答える。


「しばらく世話になるよ。アスラの王にして光を食らう彗星の化身、ラーフ=ケートゥ」


 その呼び名に応えるように、黒玉ジェッドのごとき瞳が、金色こんじきに瞬いた。

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