3

「あ、高天君」


 夏期講習の一日の日程を終え、予備校のエントランスホールに向かう途中の階段で加奈と合流した。

「ちょっと終わるの遅れたから、もう行ったかと思ったわ」

「こっちも少し伸びたから」


 一言ずつ言葉を交わすと、あとは黙って二人は階下に降りた。

 気まずいわけではなく、加奈と俊だけだと、大抵こんな雰囲気だ。気になる話題はあるが、誰が聞いてるか分からない外で話す内容ではないし、話題がなければ沈黙が続くことは珍しくない。二人ともそれを苦痛に思う人間ではない。

 けれど最近は、ほとんど真実が一緒にいて、正彦もいて、和矢もいて、誰かしら何かを話しているので、にぎやかなことが多かった。

 初夏の『あの事件』のあとは、加奈と二人きりになることは意識的に避けていたこともあり、こんな時間は久しぶりだった。

 美矢もどちらかと言えば加奈と同じく、沈黙でも苦にしないタイプなので二人きりだと静かに過ごすことが多い。

 それが当たり前だったのだが、今日はその静けさが妙に気になる。

 真実や正彦の不在の理由、そしてこれから訪れる予定の遠野家に和矢がいない、という事実が、俊の心に重くのしかかっている。


「お待たせ」

 建物を出ると、日差しを避けて英人がスマホを眺めていた。

 日陰でうつむき目を伏せている様子は物憂げで、通りかかる人も思わず見とれていた。

 けれど加奈の声を聞き上げた顔には柔らかな微笑みが浮かぶ。


「お疲れ様。俊も」

「ああ。ゴメン、待たせて」

「たいしたことないよ。暑いだろ? 車に行こう」


 今日は近場の駐車場に空きがなかったから少し歩くんだ、と英人は言いながら、二人を誘導した。


 やや入り組んだ道を通り、徒歩5分ほどで小さなコインパーキングにたどり着く。良く知る街中でも、車を運転できない俊には駐車場の場所は不案内なため、英人の誘導がなければ分からない場所だった。



 英人の青いSUV車に近付くと、すでに軽いエンジン音がしていた。

「乗って」

 促されるまま後部座席の扉を開けると、中から涼しい風が流れ出てきた。

「エンジンスターター? 便利だな」

 俊も来年には運転免許を取りたいと考えているので、車には興味がある。英人のような高級車には手が出ないが、いずれはマイカーも持ちたい。どんな車種がいいかな、と正彦と話すこともあった。


 ……正彦、もう、イギリスに着いた頃かな?


 朝一番に近い新幹線で東京に向かい、そこから飛行機に乗り換え、出国したはずだ。

 10時間程度、と言っていたから、まだ空の上かもしれない。


 英人の車で遠野家に到着した。

 出迎えてくれた美矢は、笑顔だがその瞳に翳りがある。

「お疲れ様です。入ってください。……ちょっと、弓子さんは、……えっと締め切り前で、今は部屋にこもってますけど」


 言い淀む美矢の様子から、弓子が落ち込んで臥せっているのではないかと推察された。

 傍から見ても、弓子が和矢と美矢を慈しんでいたことは伝わっていた。

 気さくでおおらかな女性だが、やはり和矢の帰国はショックだったのではないだろうか?

 

「まさか昨日の今日で、もう日本を離れてしまうなんてな」


 美矢が入れてくれた冷たい麦茶を飲みながら、英人がため息交じりにつぶやいた。

 その寂しげな声に、英人と和矢の関係性の深まりを感じた。

 さまざまな確執を経ながらも近付いたその関係が、これからより良いつながりに変わるかと期待していた矢先の別離に、俊も心が痛んだ。


「……いらっしゃい。ゆっくりしていってね」

 言葉少なに、麦茶を嚥下する音だけが響くリビングに、弓子が顔を出し、挨拶する。

 悲し気な微笑みは、顔立ちが違うようでもやはり美矢にどこか似ていた。


「……あんな顔をすると、本当に真矢に似ているな……あ、いや、なんでもない」

 何度か弓子と顔を合わせたことはあるが、いつも陽気な顔しか見ていなかった英人が、思わずつぶやき、慌てて言い繕う。

 今回の和矢の帰国の理由の一つが、生きていた真矢に会うためであり、その名前に皆が複雑な思いを抱いていることを感じているのだろう。本心では、英人も同行したかったことを加奈は見抜いていたが、あえて口にはしなかった。


「やっぱり、似ていますか? 私は、覚えていなくて。写真では見たんですが」

「……顔立ちもそうだけど、あんな風に悲しそうに笑うと、特に。真矢は、あまり全開で笑うってことはなかったから」

 美矢に問われて、英人は答えた。その目に浮かぶ懐かしむ色を見て、本当に英人は和矢の父親を慕っていたのだと分かる。

 俊は同じように真矢を慕っている健太に思いを馳せる。

 絶対取り戻してくる、と宣言して巽と共に斎のいるイギリスに向かった真実。

 そして、何故か無理やり同行した正彦。

 自分の代わりになろうとしたのかもしれないが、健太の恋人の真実はともかく、引き留めた方がよかったのではないだろうか?

 俊には、自分達が不在の間もきちんと夏期講習に出席するように、と言いおいて旅立ってしまったが、正彦だって受験生なのだ。

「……別に、俊の代わりに、ってことじゃないと思うけど」

 正彦を引き留めなかった後悔を口にすると、美矢が少し戸惑いながら言う。

「でも、今回のことは、よく考えたら正彦は関係ないのに」

「……真実ちゃんが絡んでいるから、吉村君だって、じっとはしていられなかったんでしょう?」

「え?」

「本当は本人のいないところでこんなこと、言っちゃいけないんだけど。吉村くん、多分、真実ちゃんのこと……」

「森本さんのことを? ……え? そうなのか?」

「……わりと分かりやすかったと思うけど。もう、1年近くはずっと、真実先輩のこと、想い続けていると思いますよ」

「え? そうなの? そんなに?」

 自分で言い出しておいて、加奈が驚愕の声を上げた。

 

「……私が気付いたのは、去年の秋の終わりくらいですけど。たぶん、健太さんとお付き合いを始めた頃には……きっと斎先輩とそう変わらないくらいで」

「そうだったんだ……」

 そういえば、以前正彦とそんな話になった気がする。その時には冗談めかして否定していたが、本当はそのころから、真実のことが?

 そう考えると、昨日あんなに必死になって真実について行く、と言っていたことが腑に落ちる。

「それって、森本さんも知っているのかな?」

「気が付いてないと思います。斎先輩のことだって、迫られるまで分かっていなかった、って……あっ」

 失言に気が付いて、美矢は思わず口を押える。

「その……スミマセン。隠していたわけじゃないんですけど、その……デリケートなことで……」

 青ざめた加奈の様子から、親友である彼女も知らなかったことらしい。

 そういえば、昨日も巽が真実をからかうように、そんな話をしていたかもしれない。

「……あの、加奈先輩に内緒にしていたのは、真実先輩の気遣いで、決して加奈先輩を信頼していないわけじゃないと。ただ、時期が時期だったので」

 気まずそうに美矢が言葉を濁す。

 初夏の事件からそう遠くない頃に、『何か』あったらしい。今だってようやく加奈は不安定な状況を脱しているが、まだ見知らぬ男性が近くに来ると、少し顔が引きつる時がある。

 そんな状況の加奈には、たとえ親友でも言えないような出来事が、真実と斎の間にあったのだろうか?


「……斎が、森本さんにひどく執着していることは、分かったよ。今回のことも、単なる気まぐれじゃないんだってことも。……心配だけど。そろそろ、イギリスに着く頃かな」

 英人がそう言うと、話題が変わったことに三人はホッとしたようにうなづいた。

「着いたら連絡をしてくれるって言っていましたから、まだでしょうか? 多分、7時近くにならないと……イギリスは、この時期は遅くまで明るいんですって」

「ああ、そうらしいな。こんなハイシーズンに、チャーター便でイギリスに行くとか、まったく巽も唐沢宗家も無茶苦茶だな」

「無茶苦茶なのは、斎君が、よ。前から確かに傍若無人なところはあったけど、こんな風に権力を振りかざして、巽君に無理を強いて……あら?」

「……よく考えたら、しょっちゅうでしたね、斎先輩の暴走って」

「そうね。よく考えたら、斎君自体は、それほど変わってないんだわ。ただ、規模が大きくなっているだけで」

「はた迷惑なヤツだな、斎は」


 斎への悪口を並べながらも、『そう変わっていない』という事実に、俊はどこか安堵した。また、元の関係に戻れるかもしれない、そんなかすかな期待が芽生える。


 真実達からの連絡を待ちながら夕食を、と誘われて、皆は遠野家の晩餐に呼ばれた。

 締め切りで(これは事実らしい)追い込みの弓子は軽食をつまみながら部屋で仕事をしているので同席せず、一人きりの夕餉は寂しいという美矢の言葉に甘えた。

 皆で手伝って、棒棒鶏風のサラダと中華風の卵のスープ、それにあり合わせで英人がチャーハンを作ってくれた。それで弓子にも差し入れ用に一口おにぎりをつくって。

「英人、料理するんだな」

「一応一人暮らしだからな」

 ほろほろパラパラの口当たりのチャーハンは、店で食べるような仕上がりで、美矢の用意してくれた棒棒鶏との相性も良く、美味だった。


「健太は料理できないって言っていたけど」

「できないってのは謙遜だろう。最低限のことは賄えていたけどな。まあ、確かに、手の込んだものは作れない、って言っていたけど。ご飯炊いて、なにか味のついたものがあれば何とかなる、とか言っていたな、そういえば」

「健太らしいな。確かに嫌いなものはなくて何でも食べられるって言っていたけど」

「そういうヤツだよな。ある意味斎と真逆で。食べ物でも人でも、アイツが本気で嫌うモノは、そうないんじゃないかな。転移するほど怒っていたって聞いて、斎もだけどそそのかした巽がすごいな、って思ったし」

「うん。俺も初めて見た。でも、それだけ森本さんが大事なんだなって、そう思った」

「そうですね。でも、私から見たら、二人だって、健太さんのことになると変わるなって思いますよ。俊なんて、健太さんの話になると、私といる時よりおしゃべりだし」

「そうね。英人はそこまで無口じゃないけど、やっぱりいつもより饒舌よね。健太さんにヤキモチ妬いちゃうわ」

 美矢と加奈に指摘されて、男二人は顔を見合わせる。

 自覚はなかったが、確かに健太のこととなると、会話が弾むのは確かだった。


「いや、加奈と健太は、僕の中では別のスタンスというか……」

「健太は、誰にでも優しくて、みんなに好かれるから」

 慌てて言い繕う英人に対して、俊は素直に答えた。


 俊にしては珍しい率直さに、加奈は微笑しさを感じた。美矢とは別の意味で、俊の心を占める健太の存在が、彼に大きな変容をもたらしている。

 前は思っていても、口にするのをためらう、というより、必要性を感じていないのではと思うほど、言葉少なだった。今は、考えていることは何とか言葉にしようと努めている。俊は無意識かもしれないが、そんな風に他者と関わろう、という意欲が芽生えたのは、健太の存在が大きいと思う。

 だからこそ。

 まだ加奈にはよく分からない世界だが、和矢やアストラ師が属する組織にとって、最重要人物とされる俊のキーパーソンの健太が斎に囚われていることは、大変な問題だろう。

 和矢を帰国させることが一番の狙いではあったと思うが、今回の拙速ともいえる慌ただしい帰国の理由になっていると思う。

 

 もし、健太に何か起きたら、俊は?


 大きな力に翻弄される心身の負荷は、加奈も身をもって体験している。

 意識が高揚している時は何でもないが、その後の疲弊がすさまじい。

 まして、転移、などという想像の域を超えた力を使ったりしたら?

 食事中に、真実からイギリス到着のメールが届いた。『無事到着! あんまり暑くも寒くもないよ』という気楽な雰囲気の一言だったが、その短い言葉の陰に、真実の不安が隠されているように感じた。

 今頃、斎のもとにたどり着いているだろうか? 健太には再会できただろうか?

 

 夕食後、皆で協力して片付けを済ませてから、再びリビングで連絡を待つ。

 遅くも9時くらいにはお開きにしよう、と約束したが、連絡がないまま、すでに8時を回った。

「もうそろそろ、会えたかな」

 加奈は思わずつぶやいた。到着の連絡から、1時間以上たっている。空港から斎の居場所までどの程度の距離なのか分からない。

「イギリスも広いからな。どこの空港に降りたかによっても、変わるだろうし。遠いところだと、ロンドンの中心地まで1時間くらいはかかるみたいだし」

「国際空港がいくつもあるのよね。空港から出るのにも、色々手続きが必要なのよね、きっと。時間がかかってるのかもしれないわね」

 通関とかありますから、という美矢の返答に、加奈は少しだけ安堵する。連絡がないのは、まだ移動中だから、そう、自分を安心させる。


 その時。


「…………ガン?!」


 俊が、はじけたように叫んだ。

 その一瞬ののち、今度は胸を押さえて苦し気にうめく。

「俊?!」

 美矢が咄嗟に俊の肩に手を置く。

「あぁっ!!」

 途端、美矢にも苦悶の表情が浮かぶ。

 互いに縋りつくように肩を抱き合い、脂汗を浮かべる二人を、蒼白い靄が包みだす。


「み……た……」

 美矢と俊の名前を呼ぼうとするが、声が続かない。

 胸苦しさが、加奈を襲う。締め付けられるような胸の痛み、息苦しさ、喉に迫る圧迫感。


 それが美矢から流れ込んでくる不快感だと分かる。そして、その本元は俊を通して健太が感じているものなのだと。


 同時に、悲痛な心の叫びが加奈の心もえぐる。

 目の前が、赤く染まる。

 加奈の身体からも、赤い靄が立ち昇り始める。


『真実!! ダメだ!! そんなこと!! やめろ!! 斎!!』


 その心の痛みが、明確な言葉となって加奈に届いた刹那。


「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 切り裂くような俊の叫びが響きわたり。






 遠野家のリビングから、俊と美矢の姿は、忽然と消え失せた。


 二人がいた場所には、蒼白い靄の残滓が、あるだけだった。

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