2

 8月のロンドンは、1年で最も過ごしやすいと言われている。

 日本に比べて真夏の盛りでも、そこまでの酷暑はなく、むしろ涼しいほどで。


 が。


「涼しいって聞いていたけど、そこまでじゃないな」

「うん。日本と同じくらい? でも、日差しは強いわね」


 夏の盛りの都内よりは確かに涼しいが、元々避暑地で生活しているような正彦や真実にとっては、「途中で通過した都内より地元に気候が近くてよかった」という感想しかなかった。

 時差のため、昼前に日本を出たはずが、到着してもまだやっと正午に近付いた時間だった。


「……いや、日本の標準気温からしたら、かなり涼しいですよ。まあ、確かに、僕もそんな感想ですけど」

 巽は苦笑いしながら、空港の出口へ二人を誘導する。

「何か手続きはしなくていいの?」

「まあ、今回は、特例で。そもそも、ここ、私有地なんで」

 皆を乗せてきた小型航空機が降り立ったのは、きちんとした滑走路のついたエアポートで、確かに小さめのような気もしたが、そもそも海外が初めての真実は、小型機用の空港なのかと思っていた。

「私有地?」

「ええ。さすがに国外では公共機関は色々面倒なんで。まあ、管制塔にはちょっと手を回しましたが」

 相変わらず、えげつない権力の使い方をする。

 なかば呆れながらも、真実と正彦は素直に巽の後について行く。

 小規模な事務所のような建物に入り、無造作に通り過ぎるが、誰も咎めない。

 外に出ると、車が扉を開けて待っていた。

「うわ! リムジン?!」

 正彦が思わず声を上げた。

 長い胴体の高級車を、真実も存在は知っていたが初めて見た。

「……もう少し、地味な車を用意してほしかったな」

 ぼそっとつぶやきながら、巽は真実達を先に乗車させ、自分も乗り込んだ。

 ふかふかのシートは最高の乗り心地で、けれど、それを堪能する間もなく、すぐに目的地に到着してしまった。


「ここがロンドンの街なのね……」

「斎がいるのはこの近くなのか?」

 古めかしい建物が並ぶ、イメージ通りの街並みに真実は感嘆の声を上げた。

 無理やり連れてこられたとは思えないはしゃぎようが、逆に不安を押し隠しているように見えた。正彦は、気付かないふりをしながら、巽を促す。


「はい。こちらです」

 古びた、けれど洒落た雰囲気の建物の一つに巽は入っていく。

 階段を下りて、また上る。その間に建物の内装が切り替わった感じを受けた。

 表とは違う建物に入ったのだと推察された。

 何となく、ここからスムーズに抜け出せないような危うさを覚える。


 ……まあ、どっちにしても巽がいないと帰国もできないんだけどな。


 してもしょうがない心配は置いといて、じきに訪れる斎との対峙に集中したほうがいいだろう。

 そう、気合を入れた正彦に、先導していた巽が振り返って「あ、そうだ先輩」と声をかけた。


「なに?」

 返答した直後に、正彦の眼前が暗転した。


「吉村君?!」

 真実の声が、くぐもって聞こえる。

 正彦は自分が二人と分断されたことを知った。

「森本?! おい! 巽?!」

 声を張り上げるが、返答はない。手足を動かすと、固めの布の感触があった。

「安全な場所にお連れしますので、しばらくお待ちください」

 聞き覚えのない声、けれど日本語で伝えられたことで、明らかに巽、もしくは斎の策略なのだと感じた。

「出せ! 出せよ! 森本ぉ!!」

 声の限りに叫び続けるが、もはや返答はない。ただ、自分の身体が担がれて運ばれている感覚だけがあった。

 真実を守ろうとここまで来たのに!

 悲痛な思いが、正彦の心を締め付けた。



「ちょっと、吉村君をどうしたのよ?!」

 正彦が背後から突然姿を消し、叫び声だけが残された。

「大丈夫です。安全は保障します。ただ、ちょっと席を外してもらいたくて。……という兄さんの希望です」

 一応気が咎めるのか、申し訳なさそうな顔で巽が説明する。

「斎君の希望?! そんなの怪しすぎるわよ。よく平気で人をそんな場所に連れて行こうなんて思うわね!」

「それを承知で来たんでしょう? いまさら怖気づいたんですか?」

 クスリ、と巽が小馬鹿にしたように笑う。

「そんなわけないでしょ?! 行くわよ!」

 ムキになって真実は宣言する。しておいて、ニンマリした巽の顔を見て、自分の失言を悟った。

「ぜひお願いいたします。もう着きますよ」

 逃すまいと真実の二の腕を掴み、ズンズンと歩くと、通路の突き当りにあったドアを開けた。

 そのまま、真実の身体を押し込むと「あとはよろしくお願いします」と自分は部屋に入らずドアの外に消えた。


「ようこそ。森本さん」

 

 いかにも英国、という瀟洒な壁紙に、アンティークな雰囲気のテーブルセット。

 そのテーブルの脇に立って、真実を出迎えたのは、予想通り斎だった。

 無邪気ともいえるにこやかな笑顔が、憎らしい。


「ちょっと斎君! どういうつもりなのよ?」

「どうもこうも、巽が伝えただろう? 君に会いたかったんだよ、森本さん」

「だからって、こんなやり方! ひどすぎるわよ。だいたい何も言わないでイギリスなんかに行っちゃって、みんながどれだけ心配したか!」

「何も言わないで来たわけじゃないよ? 英人に伝えただろう?」

「あんなの、伝えたって言わないわよ!」

「それは受け取り方の問題だと思うけどな」


 斎は笑顔で、のらりくらりと真実の言葉を躱しながら、気が付けばどんどん真実に近付いてきていた。


「健太はどこなのよ?」

 無意識にあとずさりながら、それでも真実は斎から目を反らさず、一番重要な質問を投げかけた。

「ああ、いるよ。そこに」

 斎は部屋の片隅に置かれた衝立を示す。

 真実は、斎から逃れるようにして、衝立に向かって走る。


「健太!」

 衝立の向こう側にたどり着いた真実の目の前には、診察台のような細長いベッドに横たわる健太がいた。


 「健太! 健太!」

 目の前に健太はいたが、その手前には厚いガラスが存在していた。

 軽く叩いて、その程度ではビクともしない強度であることを確かめる。

 少しずつ叩く力を強めるが、振動は感じるものの、ヒビひとつ入らない。


「健太! 健太!」

「無駄だよ。アクリルガラスだ。水族館ほどじゃないけど、銃弾くらいは止められる強度と厚さだ」

 いつの間にか真実の背後に立ち、透明な壁を叩く真実の手を掴む。

「君の手の方が先にダメになる。ほら、こんなに赤くなって」

「だったら、健太をここから出して! 声を聴かせて!」

「声なら、いいよ。ほら」

 斎がアクリルガラスの上端にあるボタンを押す。真実の背では届かないそのボタンはスピーカーのスイッチだったらしい。

「健太。待ち人来たる、だよ」

 斎が声を出すと、ベッドに横たわる健太が、顔を向けた。

『……真実?』

 力なくつぶやく健太の声が天井から響いた。

「健太! 大丈夫なの?」

『真実、どうして……どうして来たんだ?』

「だって! 健太を返してほしかったら、斎君を説得しろって!」

『馬鹿! 罠に決まっている……』

「健太?!」


 ベッドから身を起こし、降りようとして、健太は膝から崩れ落ちる。何とか顔を上げようとするが、息をするのも苦し気だ。粗い息遣いが、響いてくる。


「ちょっと?! 健太に何をしたのよ?」

「何も。っていうか、むしろ介抱したんだけどな。無理やりこんなところまで飛んでくるから、俊の力を借りてもまだ足りなくて、限界まで体力も精神力も使って、かなり消耗していたんだよ? 昨日は食べ物も喉を通らなくて、点滴して栄養補給したんだ。感謝してほしいくらいだよ」

「……そうなの? そんなに、酷い状態で……ていうか、元はと言えば、斎君のせいでしょ?!」

「まあ、そうなんだけどね」


 悪びれもせず、そう言うと、背後から真実を抱きしめる。

「ちょっ! やめて!」

「何で? こうされるの、分かってここへ来たんだろう?」

「ちが! そんなわけないじゃない!」

「でも、可能性としてはあったよ? 巽が何度もお願いしていたよね? 君を僕のものにしたいからって」

「それを断るために来たんでしょうが!!」


 懸命に身を捩って、斎を振り払おうとするが、ビクともしない。

「油断して前みたいに頭突きを食らうのはごめんだからね」

 そう言うと、斎は真実の首もとに息を吹きかける。

「きゃ!」

『やめろ……! 斎!』

 ふらつきながら立ち上がり、健太が駆け寄る。ほとんど倒れこむようにして、ガラスの壁に縋りつく。

「フラフラじゃないか。健太、無理をしない方がいいよ。そんな状態で力を使ったりしたら、今度は生命の保証はできないよ」

「そんな?! ダメよ! 健太! 力を使っちゃダメ!!」

「だから、大人しく、そこで見ていてよ。大丈夫、気が済んだら、返してあげるから」

「いやっ!」


 左手は真実を抱きしめたまま、斎は右手で真実の顎を撫でる。反射的に顔を背けると、斎はその手で真実の髪をかき上げ、耳を露わにした。

「大丈夫。僕、それなりに自信はあるよ?」

 そう囁くと、真実の露わになった耳朶をパクリと咥えた。


「いやあっ!!」

 涙ぐんで悲鳴を上げる真実の身体を引きずるようにして、斎はそのまま数歩離れた場所にあったソファーに押し倒した。

『やめろ! 斎!』

「いや! でもダメ! 健太! 力を使わないで!」


 斎に必死で抗いながら、真実は健太を制止する。

「……お願い、せめて、健太に見えないように……」

「それはOKってことだよね? 聞いた? これは合意の上だからね」

「だから! 健太に見せないで!」

「それはなあ、今まで散々見せつけられてきた身としては、多少の意趣返ししないと」

「いやっ! それだけは、やめて……」

 ボロボロ泣きながら、斎の身体を押しやろうと手をバタつかせるが、簡単に両方の手首を掴まれ、片手で頭上に固定される。

 笑顔の斎の、目だけが笑っていない。

 獣のように爛々と輝くその瞳は、まっすぐ真実を見つめる。

 

「じゃあ、体勢も整ったし、いただきます」


 舌なめずりをして、空いた片手で顎から首筋を撫でると、静かに身を沈める。

 やや早いリズムの吐息が真実の首筋に吹き付ける。

 チロリ、と湿った感触が喉元を這う。

 

「いやだってばっ! やだぁっ!」

『やめろぉぉっ!!』

 真実の悲鳴と健太の叫びが重なる。

 その瞬間。


 健太が、真横に立っていた。

 斎の襟首を後ろから掴み、力任せに真実から引き剥がした。


「健太!」

 斎から逃れるように、真実は健太に抱きついた。

 その身体を、健太は両手でしっかりと抱きしめ……脱力した。


「健太? ……健太!」

 真実に覆い被さるように力なく垂れたその顔が、頬が、ひどく冷たい。

 大柄な健太の身体を支えきれず、真実は半分抜け出すようにして、健太の頭を膝に乗せた。

 ぐったりとした健太の目は閉じられ、青ざめた顔に血の気はない。

 何より、半ば開いたその口からも鼻からも、空気の出入りが感じられない。


「健太……嘘っ?! そんな!」

 春休みに参加した看護大学のオープンキャンパスで教わった手技を思い出しながら、真実は健太の手をとり、脈を測る。

 どんなに探しても、脈が触れない。

「健太! 目を開けて!」

 声をかけながら、真実は今度は胸に耳を当てる。息遣いも、心音も聞こえない。

 むしろ、その身体全体から、どんどん温度が失われている。


「嘘……いや……いやぁぁっ!!」


 健太が……死?


 それ以上の言葉を思い浮かべることすら怖くて、真実は闇雲に健太の身体にしがみつく。

 

「どいて」

 

 恐慌状態の真実とは正反対に、冷静な斎の声が響き、真実を引き剥がすと、胸部に両手を当てる。

 そのまま体重をかけて、上下に身体を動かしながら、圧迫を加える。


「……ぐふっ!」


 何回か、何十回か、斎が胸部圧迫を繰り返し、呻くようにして、健太は息を吹き返した。


「健太?!」


 近付こうとして、真実は自分両腕が誰かに掴まれていたことに気付いた。

 振り向くと、栗色の髪のに深い黒い瞳の、英人そっくりの美貌の主がいた。

「アキラ……?」

「ようやく気付いたみたいだね。マミ・モリモト? だったね。全く、危うく貴重な依代を失うところだったよ。君も救命処置中はもっと大人しく見ていて欲しいな」

 

 眉をひそめて、忌々しげにそうつぶやくと、アキラは手を離す。

 どうやら、斎の救命処置を妨げかねないほど取り乱していたのを、抑えてくれていたらしい。


 救命に感謝すべきなのか、そもそもの元凶である二人を非難すべきなのか、混乱する思考を無視して、真実は健太の身体にしがみつく。


「真実……? 大丈夫?」

 弱々しく、けれどハッキリと声に出して、健太は真実に囁いた。

「……」

 言うべき言葉が見つからず、真実はただ涙を流して、健太の胸に頬を寄せる。

 確かに脈打つ心臓の音、息遣い、体温……失われたと思ったものが、きちんとそこに存在した。


 健太の無事を確かめ、ホッとすると、メラメラと怒りが湧いてきた。


「ちょっと、その目はないよね? 健太を助けたのは僕なんだけど」

「それは感謝してる。でも! こうなること、分かっていたんでしょう?!」

 真実に睨み付けられて、納得がいかないとでも言うように口をへの字に曲げるその表情すら、芝居がかっていて、そんな斎に、真実は益々怒りを募らせる。


「まあ、ちょっとやり過ぎたかもね。君の言うとおり、健太には見せない方がよかったね」

「遊び過ぎだ、斎。そんなにこの女が欲しいなら、ムルガンの安全は確保してからやってくれ」

 飄々と嘯く斎と、それを諌めるアキラの姿に、真実の怒りは頂点に達する。


「あんた達は! どうしてそうやって、身勝手な理由で! 男の好き勝手にされて、女の子がどれだけ傷付くか分かんないの?! 身体だけじゃなくて心だってズタズタになるんだから!!」


 半泣きになりながら真実は叫ぶ。

 英人を傷付けたいからと須賀野に加奈を襲わせたアキラも、健太を挑発するために目の前で真実の貞操を奪おうとした斎も、許せない。


「まあ、言いたいことは分かるよ。ひどい男だよね、コイツも、僕も。で、そうは言っても、君の状況は変わっていないんだよね。まだ、僕の手の内。健太は、もうやたら力を使わないようにちょっと眠ってもらおうかな。これ以上は、本気でまずいからね」

「まずいって……?」

「次は、助けられないかもってこと。健太を助けたかったら、大人しくしていて。僕も、彼を死なせたいわけじゃないんだから」

「……やめろ、真実を巻き込むな」

 息も絶え絶えに、けれど斎への怒気を孕んだ健太の声に応えるように、真実は健太に抱きつく腕に力を籠める。

「……健太、お願い。もう、力は使わないで。健太に何かあったら、私も生きていられない」

「真実……」

「大丈夫。平気。だから、今は休んで? 体力が戻ったら、斎君のこと、思いっきりぶん殴っていいから」

「いや、何勝手に許可してんの? まあ、その程度の代償でいいなら、それでもいいよ? それで僕のものになるんだね? 森本さん」

「なるわけないじゃない! 未来永劫、ならないわよ! 私の心は、今も未来も、健太のものなんだから! あんたになんか、絶対あげない!」


「……ふーん、こういうところが君の心をくすぐるんだね? 斎。でもこの女、馬鹿だね。嘘でもしおらしく言いなりになっていれば、君の気が変わるかも知れないのに。煽るようなこと、わざわざ言って」

「そうなんだよね。そういう器用さ、あるはずなのに、何故だか僕には使ってくれないんだ」

 アキラの揶揄に、ため息混じりに斎が答える。

「嘘が上手いわけじゃないけど、単なる馬鹿正直でもないはずなのに」

「……だって、好きなんだもの」

「へ?」

「友達としてだけど! 斎君のこと、何だかんだ言っても、大事な友達だって、思ってンの! だから、嘘はつきたくないの! だから斎君も、私に思っていること正直に言ってって、私も言ったよね?! 前に」

「……正直に告白して迫ったら、拒否されたんだけど」

「それは別! って言うか、ダメなものはダメって、しかりつけるからって、言ったよね?!」

「……覚えていたか」

 チェッ、と斎は舌打ちする。


「だから、こんなことはダメ! これ以上、私にあなたを憎ませないで、斎君!」

「……そんなこと、泣きながら、言わないでよ」


 叫びながら、ボロボロ涙を流す真実から、斎は目を反らした。

「苦しいな、これが、恋、か」

「斎君?」


「本当に、本気になったよ。身体だけじゃなくて、君の心も手にいれたくなった。だから、僕は決めた。健太も欲しかったけど、もう邪魔だ」


「斎?! 君、何を?」

「斎君?!」


「幸い依代は他にもいる。最悪、英人でも……インドラでも我慢してよ、アキラ。僕は、健太を廃しても、森本さんが……真実が欲しいんだ」


「……仕方ない、我慢するよ。君の好きにするといいよ」

「何を言ってるの? 斎君……?」


 泣き濡れた真実の瞳に戸惑いが浮かぶ。

 強い不安に襲われ、すがるように健太の腕を強く握る。健太は無言で、真実を抱きしめる。


「健太、力を使ってもいいよ。もう助けないから。真実は、僕が貰うから」

「渡すもんか!」

「ダメ! 力は使っちゃダメ!」

 真実が健太を制した、その刹那。


 空間が、裂ける。


 壁でもなく、ガラスでもなく、何もないはずの、場所に、明らかに異質な空気が、混じる。



 涙でにじんだ真実の目に映ったのは。


 


 蒼白く冷たい靄に包まれた、俊と美矢の姿だった。

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