4

「承服いたしかねます」


 健太がおそらくイギリスの斎のもとに転移したこと、それが斎による策略によるものであろうこと、健太を奪還するために、真実と正彦が渡英の意思を固めたこと。

 和矢から連絡を受け、急遽遠野家に赴いた俊が以上のことを説明し終えた途端、アストラ師は断言した。


「え? いや、何が?」

「大切なご友人と共に、あなたもイギリスに渡りたい、と」

「……そのとおり、だけど」


 言葉にする前に却下と言われて、俊は面食らいながら素直に答える。


「唐沢斎の策謀により、ムルガンが捕らえられたと。ならば、その上あなたの身柄まで奪われるような危険を見過ごすわけには参りません。ご友人の活躍に期待いたしましょう。あの唐沢斎が、そうやすやすとハニートラップに嵌まるとは思えませんが、なあに、たとえ捕らえられても、こちらの被害は最小限で済みます」

「な?! フォー! なんてことを!」


 歯に衣着せぬアストラ師の言葉に、同席していた英人が非難の声を上げる。


 アストラ師が切り捨てるも同然の扱いをした真実と正彦、片や愛する加奈の親友であり、片や守ると決めた俊の親友である。

 言葉には出さないが、加奈も美矢もその目に非難の色を浮かべる。


「……その名で呼ばないでいただきたい。アストラでもストラでも良いですから」

 忌まわし気に眉を顰めるアストラ師に「すまない」と英人は謝罪する。

 ナンバーズの呼び名が決して良い思い出ではないことは、英人自身が分かっている。ただ、英人自身は同じ響きのその名を今は愛おしく呼んでくれる存在があるから、彼ほどの忌避感はない。それに、ナンバーズであった時期よりも、その後養子となって井川の家に引き取られた後の方が、むしろつらい思い出が多い。『研究所』の頃に戻りたいとは思わないが、それでもたった一人養家で虐待されていた頃に比べれば、少なくとも健太や真矢、そしてフォー……アストラがいた『研究所』はまだ、マシだった。


「アストラ師」

「『グル』は不要です。和矢様にもそのように申し上げているのですが」

「では、アストラ。森本真実も吉村正彦も、ここにいる人間にとって大切な友人だ。簡単に切り捨てるような言い方は控えていただきたい」

「分かりました。申し訳ございません。少なくともあの唐沢斎が執着している時点で、利用価値は十分にありますね」

「だから、そういうことではなくて」

「けれど、優先順位として、あなたや高天俊が最重要人物だということは自覚してください。神の依代、それも筆頭格のあなた方が、万が一『黄昏の薔薇』や『時計塔の地階』に奪われたら、『世界神聖教会』の大きな痛手となります。そして、唐沢斎が『時計塔の地階』にいる可能性が高い今、その場に向かわせるなどできない相談です」

「けれど、『時計塔の地階』は、『黄昏の薔薇』と対立していると……いや、そう伝え聞いただけで、確定した情報ではないけれど」

「……だからと言って、『地階』が我々に与するとも思えません。組織内で、『神聖学会』もまた、『地階』にとって目障りな存在であることは推定の範囲内です。そして、表向き『地階』は『黄昏』の一勢力に過ぎません。つまり『地階』との揉め事は『黄昏』との衝突につながります」

「……」

「『地階』が独立を目論んでいることは、『神聖学会』でも把握しているのですか?」

 言葉を詰まらせた英人に代わり、和矢が問いかけた。

 和矢自身は、英人が伝えた情報は、英人経由で彼と対峙したアキラ=ケネスから得る以前に、当の斎からも伝え聞いていた。もっとも、斎自身はその情報がどこからのものかは秘匿していたが。

「ええ。そのような動きがあることは把握しております。あくまでも推論の範疇ですが。しかし『地階』は、意識的に情報が伝播するように不自然なほど、あからさまに独立を仄めかしています。派閥内での抗争、と見せかけた何かの策略の可能性も否定できません。むやみに取り込もうとこちらが動くことで、揚げ足を取られるやもしれません。『神聖学会』の依代である和矢様、あなたが害されたのならば、その暴挙を訴える大義名分が立ちますがね。依代とはいえ、表向きはどこにも所属していないムルガンの処遇に、『神聖学会』として介入するわけにはいかないのです」

「……」

「ただし、高天俊、あなたが『神聖学会』の保護下に入る、ということならば、話は別ですが」

「アストラ師!」

「和矢様、ご自身の役割をお忘れですか? そもそもあなたは、高天俊の確保を理由に日本への留学の許可をもぎ取られたのですよ。同年代の、同じ依代であるあなたが接触することで、穏便に『シヴァ』を迎え入れることができる、と。本来であれば依代たる和矢様に斥候の真似事をさせるなど、ありえません。けれど、外の世界を知ることがあなたのために、ひいては『神聖学会』の益になるという最上大師の……真矢様のご意向もあって、許容されたに過ぎません。こちらとしては、高天俊の能力が確認された時点で、その身柄を確保することもできた。けれど、そのような方法では正しく『シヴァ』の来臨は叶わぬという最上大師やあなたの『助言』を受けて、唐沢宗家の保護下であることも加味して、静観してきたのです。その唐沢宗家の事実上トップである唐沢斎が翻意した以上、このままあなたの日本滞在を認めるわけには参りません」

「……それは、理解しています」

「和矢?!」


 アストラ師の言葉に不承不承ながら同意した和矢に、俊は思わず声を上げた。

 美矢からアストラ師が和矢をインドの『世界神聖学会』に連れ戻そうと働きかけていることは聞いていた。それに和矢が抵抗していることも。

「ええ。ご理解はいただいていますね。けれど、納得はされていない。この小さな家で、愛する叔母君と美矢様とつつましく暮らし、心を許された友人に囲まれ、さぞ楽しい日々を満喫されていらっしゃるのでしょう。教団での堅苦しく閉塞された生活がなお一層厭わしくなるほどに」

「それは……否定しませんが」

「ずいぶんと素直になられましたね。確かに、この地での生活は、あなたの成長に役立ったのでしょう。けれど、その生活を保障しているのは、あなたが厭う教団の力であることを、ひいては最上大師のご威光の賜物であることをお忘れなきよう。そして、あなたには大師をお助けし、『ヴィシュヌ』の依代として教団を、『世界神聖学会』を導いていくという使命と責任があることもお忘れなく」

「……はい」


「ちょっと待ってくれ。そんなもの、和矢の意思じゃないんだろう? 和矢が望んだわけじゃないのに……」


 和矢を論破するアストラ師を見かねて、俊が口を挟む。


「望むと望まざると、和矢様にはその宿命があるのです。神の依代として生まれたことで、大いなる力を約束されたことで、その御身には常に栄光と危険が付きまといます。我々は、何も和矢様を教団奥深くに拘禁しようというわけではありません。むしろ、和矢様が能動的に、その威光をもって組織を牽引していっていただきたく思っているのです。ただ……一部の幹部は、和矢様のお力に疑念を抱いている。最上大師によって依代であることは保障されておりますが、目立った力の発現がないことで、その存在を軽んじている輩がいることも確かです。ですから」


 言葉を区切り、アストラ師は、俊を見据えた。


「あなたが、『シヴァ』の依代が、『世界神聖学会』に与していただければ、何よりも和矢様の助けになる」

「アストラ師!」

「和矢様の地位を盤石とするためには、何かしらの成果が必要です。すでに神の力の顕現を見せた、高天俊、あなたを手中に収めたとなれば、たとえご本人に力の顕現はなくとも、その存在価値は高まる。少なくとも、和矢様の行動範囲は、格段に自由になるでしょう」


 和矢の制止には耳を貸さず、アストラ師は言葉を続けた。

「それに、教団に与した『シヴァ』が、愛する御子神を取り戻したいという意思を示されるのならば、教団として『黄昏』に折衝することは可能です。トリムルティのうち二柱が望まれるのでしたら」

「分かった」

「俊?!」

「俺の存在が、和矢の助けになるなら。そうすれば、和矢は自分の意思で、いる場所も決められるってことなんだろう?」

「もちろん、教団の運営には関わっていただく必要はございますが。幹部のすべてが教団に居を構えているわけではありません。財界や政界で力を揮っている者も多数おります。その御威光を知らしめることが可能であれば、世界中、お好きなように飛び回っていただいても構いません」

「なら、俺は和矢に従う」

「俊! そんな簡単に……」

 アストラ師の言葉は、和矢にとっても魅惑的だった。けれど、そのために俊の身柄を教団に売り渡すような真似はしたくなかった。


「言ったろう? 俺は『和矢』に従う。『世界神聖学会』にじゃない。けれど、和矢がいるなら、結果的には同じだ。……それじゃ、ダメなのか?」

「……まあ、多少言い繕う必要はございますが。幹部の皆様を説得できないこともないでしょう」

 アストラ師は苦笑いし、それから英人に視線を向ける。

「あなたはどうしますか? 『インドラ』として、どこに……誰に与するのですか? 最上大師を、真矢様を害していたのは『黄昏の薔薇』であることが分かり、『世界神聖学会』への遺恨は消えたはずです。そして、教団には真矢様がいらっしゃる」

「……僕は……」

 その目に一瞬喜色が浮かんだことを、加奈は見逃さなかった。英人がどれほど真矢を、和矢の父親を慕っていたのか、その名を冠する人格を作り上げてしまうほど、その存在を心の拠り所にしているのかを、知っていた。

 一方で、あっさりと自分の処遇をアストラ師に託してしまった俊に対して、美矢が非難めいた視線を向けたことも、気になった。

 それが、即答した俊に向けたものなのか、言を弄して俊を取り込んだアストラ師に向けたものなのかは判別しかねたが。

 そして、『和矢に従う』と、完全には身を委ねなかったことに、かすかな安堵を見せたことも。


 美矢が見せた教団への、アストラ師への忌避感。そんな場所に、英人が与すると決めてしまってよいのだろうか?


「英人がどうするかは、今、重要なんですか? 高天君があなた方の味方になるという、それだけでも、笹木さんを助けるために動いてくれるんじゃないんですか?」

「賢いお嬢さんですね。ええ、そのように言いました。ですが、こちらの切り札が多いに越したことはありません」

「英人が『黄昏の薔薇』に従うことはない……と思います。アキラのいる『時計塔の地階』にも。今は、それだけ十分でしょう?」

「その通りですね。欲張るのは止めましょう。少なくとも敵対しない、それだけお約束いただければ。……あなたも含めてね。三上加奈さん」

「私は、大切な友人たちを守ってくださる人に味方します。真実や、吉村くんも含めて」

「承知致しました。ただ、私はあくまで、使者に過ぎません。私との口約束だけで幹部の皆様を説得することは叶いません」

「……僕が、戻ろう」

「和矢?!」

「だから、まだ、彼らには、ここで、日本での生活を継続させてほしい。特に、俊は今、将来の選択をする大切な時期なんだ。三上さんや、森本さんや吉村君だって」

「教団の力があれば、望む将来を準備することも可能ですよ?」

「だから! そういう問題じゃないんだ! ……その、あなただって、自分で選んだはずだ。教団に、父の傍にいることを。確かに、選択肢が狭められていたのかもしれないけれど」

「……挑んだところで、望んだ将来を選択できるわけではないでしょう? それぞれの能力に相応しい場所が、望んだ場所であるとは限らない」

「分かっています。でも、それでも! 今は向き合うことを妨げないで欲しい。せめて、今は……」


「まあ、いいでしょう。夢を見る、ということも、子供にとっては必要な通過儀礼ですから。思い通りになることが少ない、ということを知ることも。……あなたにとっては、束縛ばかりの教団のように思えていても、実際の社会と、それほど差異がないと知ることも」

「理解しているつもりです。僕が、いかに教団に守られてきたのかは」

「ええ。では、速やかなご帰還を、和矢様。『シヴァ』の獲得と、『ムルガン』の奪還の意思を最上大師にお伝えください」

「……父さんに?」

「ええ。時間がないのでしょう? 今回、わたくしを派遣したのは最上大師でございますから、幹部の頭越しと非難されても言い訳は立ちます。直接、最上大師にお願いなさいませ。ああ、高天俊、あなたには、こちらで護衛をつけさせていただきます。唐沢宗家のとは別に。大丈夫、表立ってあなたの生活の妨げにはならないようにいたします。それと、唐沢斎の下へ行くことは、諦めてください。どれほど護衛をつけても、それはあまりにも危険です。ご友人二人には唐沢巽が同行するのでしょう? 少なくとも身の安全は確保されます。あなたは、あなた自身の安全を最優先にしてください。……美矢様、それでよろしいでしょう?」

「え?」

「ずっと仇のように睨みつけていらっしゃる。なにもあなたから彼を奪うような真似は致しませんよ。陰陽和合が『シヴァ』の力にも影響する。彼の心の拠り所となるならば、あなたの存在も教団にとっては重要だ。引き離す気はありません」

「……」

 俊との恋愛関係を引き合いに出されて、美矢は戸惑ったように顔を俯ける。そんな美矢には頓着せず、アストラ師は和矢に向き直った。


「それでは、すぐに移動しましょう。今夜中に一番早く帰国できる便を手配して、明日の朝には出国いたします」






「そろそろ、和矢も動き出す頃かな」

 

 ふと、窓の外に目を走らせ、斎はつぶやいた。

「巽は、うまくやっているかな。順調なら、明日には森本さんがここに着くよ」

「……き、……え」


 斎、何でお前、こんなこと。

 健太はそう言いたくても、声も言葉も出てこない。まるで鎖に縛り付けられたように、腕も足も動かず、目を開けるのがやっとだった。

 良質なマットレスの敷かれたベッドに横たわり、斎に見下ろされているのが、悔しい。


「ああ、まだ話すのはツラいだろう? 静かにしていなよ。地球の裏側へテレポーテーションするなんて、本当に無茶するんだから。俊や森本さんのこととなると、君は冷静さを失うね」

 真実を拉致されそうになり、俊まで害そうとされたことに腹が立ち、気が付けば斎のいるイギリスに転移していた。

 無我夢中で、おそらく俊の力も引き出して、限界まで力を振り絞ってしまったらしい。

 斎の目前にたどり着いて、してやったりという斎の嫌味な笑顔を目にした途端、自分が彼の術中にはまったことを自覚した。


「そうなるように仕向けたのはお前だろう?」

 斎の背後から、別の男の声が被さる。


「まあね。でも、依代をもう一人確保しろなんて要求したの、そっちだからね」

「……こんな方法でとは頼んでいない。力の使い過ぎで疲弊させて。命に別状がなかったからよかったようなものを」

「おや、ずいぶんと優しいじゃないか? 三上さんを『あんな目』に合わせた悪漢とは思えないね」

「お前ほどじゃないよ」


 過去の行状をあげつらわれたことは意に介さず、呆れたようにため息をつく、アキラ=ケネス。英人にそっくりな顔立ちの、けれど深すぎる黒い瞳が、健太に注がれる。


「まあ、『ムルガン』を手に入れたことは、収穫だけどね。正直、井川英人よりはマシだ」

「本当に、君はアイツが嫌いなんだねぇ。人格は……この場合は『神格』かな? インドラとは別物だって言うのに。しつこいね」

「そういうお前こそ。物事にも人にも執着しないっていう話だったのに。……そんなに欲しいのか? 森本真実。ただの、依代でも何でもない、平凡な少女じゃないか」

「ただの、っていうのが大きいんだよ。特別な力も宿命もないのに、どうしてこうも心惹かれるのかね。諦めようと思っても、そう思うほど、手に入れたくなる。君だって、同じだろう?」

「別に、僕は……」

「ふーん。僕から見たら、全然魅力を感じないけどね。確かに見栄えはいいけど、何にも面白くない」

「あ、そう。お前に執着されたら大変そうだから、よかったよ」

「どういたしまして。まあ、せいぜい大切にしなよ。君にとっては何者にも代えがたいんだろうから。いや、代えはあるのかな?」

「は? 何を……」

「あんなきれいなだけのお人形、失くしたって、また、どうにでもなるだろう?」

「……代えなんて、いらない」


 斎の揶揄に、アキラは怒りを見せず……目を逸らしつつ、答えた。

 その青ざめた顔をみて、斎はニヤリと笑う。


 その目の奥に、静かな狂気を見つけて、健太は逃れるように、意識を手放した。

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