3

 ああ、腹減ったあ。


 追加で申し込んだ文系用の「化学基礎」の講義中。

 正彦は音が鳴りそうな腹を必死に宥めていた。


 講義に集中しなくてはいけないのは分かっていたが、一日頭を使いまくっていたので、体は素直に飢餓状態を訴えてきていた。

 いつもなら、すでに講義を終えて、俊や真実と一緒に帰宅している時間なのに。

 まあ、この追加講義を選択したのは、自分自身なのだが。


 ……この内容だったら、俊に教えてもらった方が分かりやすかったな。和矢でもいいけど。

 そうは言っても、同じ受験生の俊だって必死に勉強中であるし、和矢も(勉強自体は余裕とは言え)難題を抱えて大変な状況である。

 教えて欲しいと言えば快く応えてくれるだろうが、それが負担になったら申し訳ない。


 ……生物だったら、森本に教わるってのもアリだったけどな。

 当の真実が若干苦手とする化学では、断られるのは目に見えている。


 いや、もう教わるとか、そういうのは置いといて、一緒に勉強しよう、でもいいかもな。


 ただ残念ながら、真実はこの講義を受けていない。それも正彦のモチベーション低下の一因だった。


 講義の時間帯が一緒だったらよかったな。


 コースが違うので、そもそも講義もほとんど被らないが、いつもは終わる時間が一緒なので、帰りのわずかな時間とはいえ一緒に過ごせる、という楽しみが、今日はない。


 正彦の受けている講義と入れ違いで、真実も(俊も)追加講義を受けるため、もしかしたら今日はもう会えないかもしれない。


 はあ、俺、何やってんだろ?


 そんな小さな楽しみに一喜一憂している自分が情けない。


 そして、先日目にしてしまった、あの場面。


 健太と待ち合わせしているという真実や俊と、予備校前で別れたあの日。

 別行動は取ったものの、帰路が同じため駅に向かっていた正彦は、近道で通り抜けた駅前の立体駐車場の片隅で、車中で抱きあっている真実と健太を目撃してしまった。

 のぞき込んだわけではないが、たまたま「あ、あの軽、笹木さんのっぽいな」と思ってつい注目してしまい、結果目に入ってきてしまった。


 薄暗い屋内駐車場だから、のぞき込まなければよく見えないと言え、何もあんな場所でラブシーンをしなくてもいいのに、と若干腹が立ち。

 何となく泣いているらしい健太の様子に、居心地が悪く慌てて走り抜けたが。


 翌日、健太が兄や父のように敬愛する和矢の父が生きているかもしれないことが分かったと知って、合点がいった。


 理由は納得したが、気持ちは納得できていない。

 それが、健太に対する嫉妬であることも、分かってはいるが。


 頭では、いい加減諦めなければいけない、と理解している。けれど、心は、思うようにはいかない。


 健太との付き合いが深まって、どんどんきれいになる真実も、いけない。

 

 もう、キスとかも、したのかな?

 

 以前にはなかった色気が備わってきて、ますます真実から目が離せないでいる。

 

 あの時。

 斎が真実に迫ってキスしようとしていた、あの場面。

 むりやり真実に迫った斎の行動を非難したが、心のどこかでそんな行動に移せた斎を羨ましいと思ってしまった。

 

 もし、自分だったら。そして、真実がそれを受け入れてくれたとしたら。


 あの車内で真実を抱きしめていた健太を、自分に置き換えて、妄想する。

 健太は正彦より大柄で、真実も女子にしては背が高いので、きっとあんな風に包み込む感じにはならないかもしれない。けれど、その分顔が近くて、抱きしめたら、そのままキスできてしまうかもしれない……目の前に迫る真実の顔を、唇を想像して、正彦は思わず机に顔を伏せて赤面する。

 もだえるような衝動に、身を捩らせる。おかげで空腹は抑えられたが、他のところが落ち着かなくなってしまった。


 ……俺、ホント、ヤバいよな。


 講義に集中しよう、と必死に思考を正面の黒板に向ける、が。


 その瞬間、ガタンと音を立てて、椅子からずり落ちる人影が目に入った。


「三上?!」


 正彦より2メートルほど斜め前方に座っていた加奈だった。


 思わず立ち上がり叫んで、加奈に駆け寄る。


「……お願い、真実が……」

 何とか聞き取れる小さな声で囁き、加奈は正彦の手をぎゅっと握りしめた。


「スミマセン、ちょっと気分が悪くなって」


 正彦の手を借り立ち上がった加奈は、教壇の講師にそう告げると、椅子に座り尚直した。

「まだ気分が悪そうなんで、医務室に連れていきます」

 正彦がそう言うと、講師は無言でうなづいた。

 加奈に肩を貸し、二人は教室を出る。自分の荷物は置きっぱなしだが、あとで取りにくればいい。貴重品はポケットに入っている。加奈もポシェット以外置きっぱなしだ。

「森本が、どうしたんだ?」

「……巽君が、真実を無理やり連れて行こうとして……美矢ちゃんと高天君が、それを追いかけて……でも、二人も、捕らえられて」

「巽が? 何で?」


 加奈が美矢と同調することがある、と知っている正彦は、加奈の突然の不調の理由を理解し、その証言をスムーズに受け入れる、内容はともかく。


「斎君が関わってるみたい……ちょっと離れていて、所々聞こえなかったけど」

「どこにいるんだ?」

「外、だと思う。そんなに離れていないはず……」


 持ち直して、正彦の手を借りなくてもしっかり立てるようになった加奈は、すたすたと歩き出し玄関に向かうため、階段を降り始めた。

 正彦も後に続き、二人は予備校を出た。


「……こっち、かな」


 時々立ち止まりながらも、加奈は迷いなく歩を進める。

 予備校からわずか数十メートルのテナントの裏手の物陰を示され、加奈を追いこしてたどり着いた正彦の目に入ったのは、膝から崩れ落ちる俊の姿だった。


「俊?!」


 正彦が叫ぶと同時に、真実と、反対方向から美矢も駆け寄っていた。

 遅れて正彦も俊に駆け寄る。


「正彦? なんで?」

「三上が、二人が危険だって……」


 青白い顔をしながらも、不思議そうにつぶやく俊に正彦は告げる。

 俊は続けて何かを問おうとするが、息も絶え絶えで言葉が出てこない。


 これは……あの時と同じ?


 3年前、俊がサッカーの試合中に故意のラフプレーを受けて怒りを爆発させた、あの時。

 こんな風に青白い顔をして、酷く疲弊して。

 

「どうやら、高天先輩の力も引き出して行ったみたいですね、健太さん」


 あきれたように巽がつぶやく。いつも通りの笑顔の巽に、真実を連れ去ろうとしていたという加奈の証言は間違いだったのでは、と一瞬思ってしまったが。


 その後の真実の怒りようや二人の会話から、やはり巽が無体を強いた上、健太を怒らせるようなやり取りをしたらしいことが分かった。


 思わず巽の後頭部にゲンコツをぶつけたが、ほぼノーダメージな様子で、余計に腹立たしい。

 その上、どうやら健太が怒って斎のところに行くように仕向けられたらしいことも分かり。


「斎君は健太を誘い出して、何しようっていうのよ?!」

「え? そばに置いておきたいんでしょう? 兄さん、ああ見えて寂しがりやなんで。アキラ=ケネスはクセが強すぎるだろうし、素直で可愛い健太さんが恋しくなったんじゃないんですか? ああ、言っておきますが、そっちの趣味はないですよ、恋愛対象は森本先輩だけなんで、安心してください」

「そういう問題じゃないでしょ?! だったら、そもそもイギリスになんか行かなけりゃよかったじゃない?! こんなことまでやらかして! 巽、あんたもほいほい言うこと聞いてんじゃないわよ!」

「いや、斎兄さんの命令は、絶対なんですって」

「そんなこと知るもんですか! こんなことしていいか悪いか、ちゃんと自分で考えなさいよ! あんた、斎君の操り人形じゃないんだから!」

「……残念ながら、操り人形の方が、いっそ楽ですよ。何も考えず、動かされているだけの方が、どれだけ楽だか。僕が本気で何にも考えていないと思っているんですか? 何の不満もないと? 命を遵守できない場合は、代わりに珠美を差し出せと言われて、僕が悩まなかったとでも?」


 真顔で尋ねる巽の目は、酷く冷たい。それは怒りを湛えて毒舌を揮う斎に酷似していた。

 状況はまだよく分からないが、巽も苦しんだらしい。


「……言い過ぎたわ。でも! 珠美を渡したくないからって、健太や……私の意思はどうなるの? そんなの、勝手すぎる!」

「それについては、申し訳なく思っています。ただ、僕は……僕ら唐沢宗家の一族は、細胞レベルで無理なんです、斎兄さんに……影の総領の命に逆らうことは、生きる意味も失うに等しい、自分の存在意義を全否定されることなんです。でも、それが、皆さんにとって正しいとは、思っていませんよ。だから」


 どこか悲し気に、再び微笑む巽。

「できれば、森本先輩が、直接斎兄さんの下へ行って、叩きのめしてもらえますか? この世で唯一、斎兄さんに報復できたあなたなら、まだ言うことを聞いてくれるかもしれませんよ」


「行くわ」


「いや! 待て!! それはどう考えても罠だろう?!」


 即答した真実を正彦が制止する。

 そばにいた加奈や美矢も、うんうんとうなづく。


「だって、何もしなくちゃ、どうにもならないんでしょう? だったら、行くしかないじゃない? 罠だろうが何だろうが、とにかくお説教してやらなくちゃ気が済まないわ! 旅費から何から、諸々そっちで負担してくれるのよね? ちゃんと帰りの分も、払ってよ! 健太の分もね!」


 絶対連れ帰る、という強い意志を示す真実。


 あ、ヤバい……惚れ直しそう。


 このブレないところも、ホント、イイ。


「……だったら、俺もついて行く」

「正彦?! 何を?!」


 ようやく息が整った俊が、驚いて叫ぶ。

「だって、森本だけ行かせるわけにはいかないじゃないか?」

「だったら、俺が」

「ダメだ。お前、一応最重要人物だろ? 斎が今いる組織? にとって。そんな危険なこと、お前にさせられない」

「……吉村先輩も、一応、その最重要人物VIPの身内みたいなもんなんで、結構危険ですけどね。でもまあ、兄さんのお気に入りだから、それなりには守ってもらえるでしょう。案外喜んで、言うこと聞くかもしれませんし。吉村先輩の面倒も見させていただきますよ」


 それほど簡単ではない気がするが、巽の同意が得られたので良しとする。


「やっぱり、俺も……」

 納得していない俊が、そう言いかけ、言葉を切った。

 かすかな振動音が響く。俊のスマホのようだった。

 バックポケットからスマホを取り出し、「和矢……」と小さくつぶやいた。


「和矢から?」

「うん。健太が来ていないかって……」


 表情を曇らせ、俊は和矢に電話をかける。そして健太の状況を伝える、と。


「今から、来れるかって。三上さんも一緒に」

「俊、お前講義……」

「今はとてもそんな気になれないよ。集中できっこない」

「……それもそうか」


 自分だって、加奈と一緒に講義を飛び出してきてしまっているのだ。


「そちらは高天先輩にお願いします。吉村先輩は渡航の準備を。ああ、パスポートだけあれば大丈夫です。お持ちですよね?」

「何で知っているんだよ? まあ、あるけど」

 高校入学直前、家族で海外旅行をしたのでその時に作った。俊くらいしか知らないことなのに。

 すでに色々な情報が巽に握られている様子に、少し早まったかも、と身震いするが。


「ちょっと!受けられなかった講義代も全部負担してよね?! みんなの分もよ!」


 当然自分も受ける気はないのだろう、巽に追加要求する真実の強さと抜け目のなさに、思わず胸がキュンとしてしまい。


 

 あ、ホントに俺、もう、無理だな、諦めるとか……。


 この切なさも、なんだか楽しいなんて、もう斎並みの変人だ。


 きっと、斎にバレたらまたからかわれるに違いない。

 

 ……そんな関係に、戻れたらいいのに。


 ふと、そんな願いを抱く自分を見つけて、正彦は心の奥底で、苦笑した。

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