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「何している!? 巽!!」


 真実を連れ去ろうと抱えていた巽の目の前に、突然現れた人影――健太は、そう叫び問い質した。


「……なるほど、これが、ムルガンの力……。聞いてはいましたが、さすがに驚きました」


 丁寧な言葉で落ち着いているように話しているが、その声がわずかに裏返っている。空気が揺らめいたと思った次の瞬間に、そこにいなかった人間が出現していたのだ。そういう力が存在すると知らされていても、驚きは禁じ得ない。

「いいから、真実から手を離せ!」

「そういうわけにはいかないんですよ。森本先輩には、これから行っていただく場所があるんです」

「は?」

「それができないなら、代わりを寄こせって言うんですよ。あの性悪腹黒傍若無人唯我独尊兄上は」

「兄上……って、斎が、か? 寄こせって……イギリスに?」


 いや、確かに、『性悪』も『腹黒』も『傍若無人』も『唯我独尊』も認めるが。


 巽の口から出た罵詈雑言の羅列に、激しく同意はするものの、それが巽の口から出たことに、健太は戸惑いを覚えた。


 ついこの間、『影の総領の言葉には必ず意味がある』『だから僕らは従うんです』と、盲目的な忠誠と崇敬を見せていたはずの、巽だというのに。


「ええ。代えで済むなら、何とでもしたいんですけどね。僕も、あなたや先輩方を敵に回したくはありませんし。でもね、よりによって! 珠美を寄こせって! 言うんですよ! あの性悪腹黒傍若無人唯我独尊極悪非道クソ馬鹿兄貴は!!」


『極悪非道』……確かに。


 暴言がさらに加わり、兄上が『クソ馬鹿兄貴』に変わっていたが、そこも激しく同意なので健太はスルーする。


 というか、いきなりキレてしまった巽に少し押され気味の健太は、先ほどよりトーンを下げて。


「その……事情は察したが、だからと言って、真実を連れていかれるわけにはいかない」

「僕だって! 珠美を渡すわけにはいかないんですよ。斎兄さんが珠美を欲しいっていうのなら……それを珠美が望むなら……いや、やっぱりダメですけど! でも、あの人でなしは! 『ダメなら、珠美でいいよ。よく考えたら、名前に一字増えるだけだしね』とか、ふざけたこと抜かすんですよ!! 名前だけでいいなら、そこら辺で買ったぬいぐるみに名札でもつけて送ってやりたいですよ!!」


 ……まみ、と、たまみ、で一字違いか、確かに。


 あまりの暴言に、思わず変な感心をして、健太はふと『森本真実』とネームプレートを付けたクマのぬいぐるみを想像してしまった。


 くそ! かわいいじゃないか!


「それじゃ、ダメなのか? 何なら、ぬいぐるみ、俺が買おうか?」

「はぁ?! そんなの! 詭弁ですよ!! それでいいなら、僕がとっくにそうしてます! 単に僕に嫌がらせしているだけです。自分が森本先輩と一緒にいられないものだから、僕が一番嫌がる人選をして寄こせって言っているんです」

「だから、なんで寄こせって……って言うか、真実の意思は? いや、俺も譲る気はないけど!! 一人で勝手にイギリスに行ったのは、斎自身じゃないか?!」

「ホームシックだそうですよ、寂しいんだそうです」


 あの斎がホームシックなどありえない。巽もそれを分かっているのだろう、皮肉げに鼻で笑う。


「とにかく、珠美は絶対に渡せませんし、斎兄さんの要求に対しては、森本先輩にイギリスに行っていただくという一択です。大丈夫、受験対策は斎兄さんが責任を持つでしょうし、中断させてしまう夏期講習費用は全額唐沢宗家が補償しますから。ちょっと旅行のつもりで」

「いや、そういう問題じゃないだろ?! 

「そういう問題です! とにかく斎兄さんが満足するように、僕は動くだけです」

「そんなの! 真実の気持ちは?!」

「関係ありません。森本先輩には唐沢宗家のトップに望まれたことを喜んでいただくしか。ああ、将来の姉になるなら、真実姉さん、とでもお呼びしましょうか?」


 その言葉に、健太の怒りが再燃する。

「ふざけんな!! 絶対渡さないって言ってるだろ?! 第一、そんなに欲しいなら、自分で来いよ! 正々堂々、お前には渡さないって言ってやる!」


 怒りのためか、それともすぐそばに俊がいるためなのか、先ほどよりも力がみなぎっている気がした。軽い浮遊感を覚え、その勢いで巽の目の前に迫ろうとする、が。


「ストップ。それ以上近付くと、高天先輩も無事では済みませんよ?」


 巽の背後で、男に羽交い絞めにされている俊が目に入った。いつの間にか背後を取られていたのか、捕らえられた俊自身が驚いている。


「俺のことはいいから! 健太!」


 俊はそう叫んだが、そのさらに後ろには、同じように拘束された美矢がいる。


「まあ、別れを惜しむ時間も必要でしょうし、今は解放してもいいですけどね。この分だと、他の依代の皆さんも来られそうだ。高天先輩が怒りを爆発させるような状況、なるべく避けたいんで。さすがに背中がチクチクしますよ、すごい怒気だ」

「だったら……」

「でも、唐沢宗家うちが本気になったら、所詮は人間の皆さんがどうあがいても、森本先輩は確保できるんですよ。夜中だろうと何だろうと、その気になれば人間の一人くらい、拉致することは可能です。だから、今はお返ししてもいいですよ」


 そう言うと、巽は突然、真実から手を離した。


「明日の昼には空の上に行ってもらわないと間に合わないんで、明日の朝お迎えに上がります」

「は?! 無理! 第一、私パスポートないわよ!?」


 突然解放されて、健太の下に駆け寄った真実が、いささか見当違いな理由を告げる。

「そこは大丈夫です。こちらで手配済みです。まあ、いざとなったら、なくても何とかしますけど。一応最短時間で手続きする猶予はいただけていましたから」

「は? いつの間に?! ってか、パスポートがあっても行かないわよ!」

「それは困りましたね。斎兄さんからは、明日までに出国させろって言われているんですよね。そのためには……死なない程度に痛めつけてもいいって」


 突然、剣呑な光が巽の瞳に灯る。それまで、苦々しさが混じりながらも浮かべていた笑顔が、消えた。


「どうあっても、珠美は渡せない。けれど、斎兄さんの、唐沢宗家の影の総領の言葉は、絶対です。だから、僕には、皆さんを傷つけてでも森本先輩を送り出すしか、ないんです。それでいいんですか? 森本先輩?」

「だめよ! そんなの!! みんなを傷つけるなんて!!」

「だったら、選択肢は限られますよね?」

「……」


 その座り切った目が、巽の本気を伝える。蛇に睨まれた蛙のように、真実はその冷酷な視線に飲まれ、言葉が出てこない。

 健太の腕に、真実の震えが伝わる。明らかに怯えている。健太は、励ますように真実を抱く腕に力を込めた。


 可愛らしい恋人同士のように見えていた巽と珠美。それは、健太の前でも同様だったが。


 幼馴染で、実は婚約もしていると聞いていた。珠美が唐沢宗家の一族だと聞いて、どこか政略の匂いも感じていたのも事実で。なので、驚いた。


 健太の真実に対する思いと同等の、いや、認めたくはないがそれ以上の執着。


 そんな巽の思いを、斎は知っているのだろうか?


 ……知っている気がする。知っていて、あえて奪おうというのだ、真実の代わりに。

 真実を得られない時、その腹いせに。


 斎! いくら何でも、ひどすぎるだろう?

 

「とにかく、斎兄さんの命令が撤回されない限りは、森本先輩の身柄はいただきます。これは決定事項です」

「……命令を、撤回させればいいんだな?」

「できるわけないでしょう? それとも、健太さん、説得してくれるんですか? 明日までに?」

「ああ! してやる! そんで、一発ぶちのめしてやる!」

「できるもんなら、どうぞ。そんなこと、僕だってできないのに……ああ、森本先輩は、できたんですよね、確か。見たかったな、先輩にキスしようと迫って、反撃された兄さん」


 ほんのわずか、口の端を上げて巽がイヤらしく笑う。


 文化祭前の出来事を蒸し返されて、怒りと羞恥で真実の顔が赤く染まる。


「今度は、受け入れてくださいね」

「ふっざけんなっ!! ぜってぇっ! させねえっつ!!」


 その瞬間。


 健太の姿が、その場から消えた。その登場と同じように、瞬く間に。


「う……」


 次の瞬間、俊が膝から崩れ落ちた。

 俊を捕らえていた男は、いつの間にか消えていた。

「高天君?!」

「俊?!」


 真実と、こちらも解放された美矢が俊に駆けよる。


「俊!」


 小路の向こうから、正彦の声が聞こえ、俊の姿を認めると、全速力で駆け寄ってきた。

「正彦? なんで?」

「三上が、二人が危険だって……ここの場所も、三上が」


 正彦に遅れて、加奈も姿を現す。二人ともまだ講義中のはずなのに……そう問いかけようとするが、息が乱れて、言葉が継げない。


「……どうやら、高天先輩の力も引き出して行ったみたいですね、健太さん。本当に、イギリスまで行ったのかな、この分だと」


 半ば呆れたように、巽はため息をついてつぶやく。

 その表情は、いつも通りの少し困ったような笑顔。


「って! 何普通にしてんのよ?! 巽くん!! さっきの言葉は何?!」

 さっきまで健太の腕の中で震えていた真実だったが、平常通りの巽に、いつもの勢いを取り戻し、怒りをぶつける。


「あの穏やかな人を怒らせるには、あそこまで言わないとダメでしょう? ま、あれでダメだったら、もっとエグいセリフも用意しておいたんですけどね。森本先輩を、斎兄さんが、あーして、こーして、とか」

「やめて!! 公衆の面前で何考えてんのよ?!」

「いや、まだ何も言ってませんけど……いてっ!」


 真実をからかう巽の後頭部を、正彦がゲンコツで殴りつける。

「何だか分かんねーけど、笹木さんを怒らせることを言ったんだよな? 森本のことで。このくらいの制裁、受けろ」

「ハイハイ。スミマセンデシタ」

 

 おそらく分かって正彦の鉄拳制裁を受けたのだろう、さも痛そうに頭をさすっているが、本当は全くダメージを受けていないに違いない。ダメージを受けるような威力ならば、巽は簡単によけるか、逆に反撃するに違いない。


「で、笹木さん怒らせて、何がしたかったんだよ?」

「健太が……斎のところに?」


 正彦の問いかけと被さるように、ようやく息を整えた俊が問いかける。


「まあ、おそらく。あの人、分かってないと思いますけど。自分も斎兄さんの執着の対象だって。ああ、斎兄さんの命令はね、森本真実、もしくは笹木健太を自分の下に寄こせ、だったんですよ、本当は」


 その言葉の意図が良く分からず、皆首をかしげる。


「健太さんが兄さんの所へ飛んでくれたなら、こちらは万々歳なんですよ。でも、大丈夫かな? 高天先輩をこんなにヘロヘロにするほど力を引き出して、自分だって相当消耗しているはず。そんな状態で斎兄さんの所に行ったら、簡単に捕らえられますね。『行きはよいよい』ですけど、自力じゃ帰ってこれないかも、ですね」

 

 真実や俊の、背中が、ゾワリとした。

 寒々しいまでの朗らかな巽の笑顔に、健太がまんまと巽と、……斎の罠にはまったことを知った。

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