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 七月に入り、霧の都ロンドンにも青空の日が多くなっていた。

 エマは、ロンドンの夏の日差しは温度のわりに体に酷だと言っていたが、シアにとっては青空の見える日が増える好きな季節だった。

 けれど、今年の夏は、陰鬱な気分が晴れない。


 理由は分かっている。大好きなケニーがいないからだ。


 夏休みになれば研究に忙しい父やケニーも、この時ばかりは休暇をとって、南部の別荘で過ごす。時にはシアの希望で観光地にも足を運ぶ。

 ケニーがいれば、どこで過ごしたってシアは楽しいが、何よりこの休暇中だけはケニーを独り占めする時間が増える。

 周囲の女性たちの羨望と称賛の視線に気付くこともなく、ケニーはその漆黒の眼差しをシアにのみ向けてくれる。

 シアにとって最大の恋敵ライバルは、ケニーの研究(とそれに関わる研究者)だけであった。


 なのに、今年は。

 そのライバルに、ケニーを奪われてしまった。


 六月後半になっても帰国しないというケニーへの愚痴を口にしたら、エマが「だって日本は夏休みじゃないもの」と単純明快に返された。

 だったら自分が休暇を使って日本に行きたいと父に願ったが、一言「だめだ」と即断された。


「お前が行けば、ケニーは研究を中断せざるをなくなる。ただでさえ不慣れな土地で短い期間に多くのものを得ようとしているケニーの邪魔をするのかい?」


 そう言われてしまえば、シアには反論の余地はない。


 ケニーと同じ分子工学を学びたいと工科大学への進学も決めたが、今のシアの知識や経験では助手としても役に立てない。ケニーとエマが研究について話をしている時も、内容が深くなってくれば来るほど、話の半分も分からなくなる。


 もちろん二人はシアを気遣って、シアが同席する時は研究の話を避けてくれるが、その気遣いが逆に悲しくなる。


 エマのことは大好きだ。


 シアの周囲の女性は、そのほとんどがケニーに対して恋情を隠さない。ケニーが魅力的すぎるせいだと分かっているが、隙あらばケニーを誘惑しようとしている女性達と仲良くなれるはずがない。もちろんケニーがその誘惑になびくはずもない、と信じてはいるが。


 かと言って、ケニーの魅力を理解できない人間とは、話が合わない。美的感覚の違いはあっても仕方ないがケニーが混血であることを揶揄したり、そのオリエンタルな美しさを受け入れない人間とは、シアは分かり合えない。


 ケニーの容姿だけを見て、人物を正当に評価しない人間も嫌いだ。

 若くして研究者としての地位を築いているケニーに対し、その美貌で父を始めとする権威のある研究者や企業担当者を篭絡したなんて噂を耳にした時には、それがやっかみであるとは分かっていても許せなかった。

 父には「いずれ誰もがケニーの実力を認めざるを得なくなる。そんな噂は放っておきなさい」と諭されたけれど。


 こんな時、母がいたらちょっとした愚痴もこぼせたのかもしれないが。シアが幼い頃、父と離婚してアメリカに行ってしまった母とは、もう十年以上会っていない。思い出したようにクリスマスにグリーティングカードを寄こすくらいで、母と娘としての交流は途絶えていた。アメリカでも二度の結婚と離婚をして、今は独身らしい、という程度の情報しか知らないし、興味もない。


 そんな中で、エマはケニーの魅力を称賛しながらも恋情を持たない、稀有な存在だった。

 

 エマ自身はそもそも自身の恋愛には興味がないという。そんな不毛な感情で神経をすり減らすくらいなら、論文の一つも目を通した方がいい、と言っていた。

 なんて面白みのない女性なんだろう、と最初はあきれていたシアだったが。


「別に恋愛ごとが嫌いなわけではないのよ。ただ、自分に当てはめて考えることが出来ないだけ。シアのようなきれいな少女が、ケニーのように見目麗しい魅力的な青年に溺愛されるなんて、考えただけでも体が震えてくるわ」


 そう、頬を赤らめて語った時のエマは、シアと同じようにケニーの魅力に囚われながら、ケニー自身の愛を得たいとは考えていない、不思議な精神の持ち主だった。


「そう? わりといるけどね、日本には。美しい者と美しい者が愛し合うのを、端から愛でて幸せになれる、そんな人は多いわよ」


 なんて欲のない人達なんだろう?!


 シアには驚きだった。


 ……後日、エマの部屋で『同人誌』という日本の自費出版の書籍を見つけ。

 美麗な絵に惹かれ、エマに訳してもらい。最初は戸惑いながらも、ケニーへの思いとはまた違ったときめきを覚え。


 自分でも読めるように(エマに翻訳された本も探してもらったが)、ケニーには内緒で日本語も勉強している。なので、ケニーが日本に留学すると聞いた時は、ちょっとドキドキした。ケニーに見せられない、秘密のコレクションが見つかったのかと一瞬不安になった。



 それはさておき。


 日本へ行きたいという気持ちを諦めきれないシアは、帰国するエマに同行する形で旅行を許可してもらおうと再度父に要求したが。


「確かにエマが一緒なら、シア自身の安全面は確保できるが、結局ケニーの邪魔になることは変わらない」

 やはり許してはもらえなかった、が。代わりに、エマにケニーの様子を見てきてもらえるよう、旅費の補助をしてくれる、と代替案を示された。


 エマの実家や所属する大学からケニーの留学先までは、それなりに距離があり、滞在費もかかるため、エマの好意に甘えるわけにはいかない、と。

 その言葉から、エマがシアの代わりにケニーに会いに行くことを父に提案してくれたのだと分かった。


 人づてにケニーの様子を聴くだけでは不安なシアだったが、それがエマなら話は別だ。シアと同じ視点でケニーを観察してきてくれるに違いない。

 一応定期的にメールはくれるが、どちらかと言えばシアの様子を確認するばかりでケニー自身の状況説明が簡潔過ぎる内容で、それも不安だった。


 詳細でタイムリーな状況報告を約束して、エマは帰国した。


 数日後、研究一色のケニーの様子がレポートされ、その後も毎日、ケニーの生活の様子がエマからメールで送られてくるようになった。


 エマは就寝前にその日の出来事をメールしてくれる。日本と八時間の時差があるため、シアはランチの後にそのメールを確認するのが最近の日課になった。

 時にはその日にケニーが飲んだ銘柄と同じ茶葉でティータイムを過ごす。ケニーの好みの茶葉は一通り揃えているが、日本で手に入れたのか変わった銘柄もあって、エマは同じ茶葉を求めてショッピングに出かけたりもした。日本でしか手に入らない銘柄や菓子は、エマがいくつかお土産に買ってきてくれるという。


 今日も、ランチの後、エマからのメールに目を通していた、が。


「エマ……何かあったのかしら?」


 いつも通り、詳細なレポート。知らない中国茶の銘柄が載っていたが、それは後で調べてみるとして。


 文面が、いつもと違う。それは、ほんのささやかな、違和感。


 シアと同じ視点と情熱を持ってケニーを見つめているはずの、エマ。

 いつものように、ケニーの素晴らしさを織り交ぜながら、生き生きとケニーの様子を表現しているエマのメールが、どこかおかしい。


 まるで、うっすら靄がかかったような。見えないベールに包まれたような。

 砂粒が靴に入ったほどの異物感もない、けれど。


 そんな、ささいな、気のせいだと言われるかもしれない、感覚のズレ。


 シアはエマの心情に、何かしらの変化を感じた。

 

 ……日本に、行こうかしら?


 エマの報告では、もう十日ほどはケニーのいる都市で過ごすという。

 パスポートは持っている。渡航にビザは不要だって聞いた。航空券だけ手配できればいい。幸い資金はある。いざとなれば、エマもケニーもいるのだし。


 父に内緒で渡航したことが分かったら、きっと怒られるだろう。でも、シアが勝手にしたことなら、エマやケニーまで責められることはないはずだ。大丈夫、ケニーの研究の邪魔さえしなければ、娘に甘い父のことだ、きっと許してくれる。


 そんな楽観的な予測で、シアは具体的に行動を開始した。エマの様子がちょっとおかしい、というひどく主観に偏った、けれど自分を正当化する絶好の言い訳を得て。


 ――シアがロンドン発成田行きの航空機に搭乗したのは、それから二日後のことだった。




 『ケニーとエマに会いに行きます。あなたの娘 シンシアより』


 父の、ジョニー=サイモン・ブライトン教授が娘の部屋に残された鈴蘭ミュゲの香りの置手紙に気付いた時には、シアはすでに空の上だった。

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